■蓮の一……④

 こうして美陽さんの家族倍増計画は頓挫し、『妹』こと平安寺が去って、日付が変わって、それでも日常は続くから春期講習の課題を居間で片付けていた。英語は苦手だ。だからと言って得意な科目があるわけではないが。


「お疲れ様。お飲み物はいかがですか?」


 丸盆を持った野々目さんがマグカップを課題の隣に置いてくれた。暖かいコーヒーの香りがする。


「あ、気を遣ってもらって、すみません」

「砂糖もミルクもいらないよね?」

「あ、はい。お気遣いどうも」


 野々目さんはレースのついたエプロンを着ていた。多分美陽さんが選んだんだろうな。今日も晩御飯を作ってくれているみたいだ。ノートを一瞥する視線を感じて慌てて課題の方に向き直るが、どうにも集中できない。野々目さんのせいじゃない。どうしても平安寺に言われたことが、オレがしてしまったことが脳裏にチラついて、ここのところ何も手につかないのだ。


「あの、オレ、どうしたらいいすかね?」


 長文問題の選択肢を見下ろしながら、野々目さんに訊く。


「うーん、ぼくは英語はあまり得意じゃないから、絵美さんに訊いた方がいいかもしれないね」

「いや、あの人、勉強はできるんだろうけど、感覚派で何言ってるのか分かんないところあるから……、いやそうじゃなくて」


 顔を上げる。野々目さんは中腰でオレのことを見下ろしていた。


「その、平安寺のことで」


 要領を得たのか、野々目さんは微笑む。


「蓮介くんは、芙美子さんとどうなりたいの?」

「それが、分かんないんすよ……、いや、包蓮荘に住むことはないんでしょうけど、平安寺は梅園らしいから、高校は違うけど街ですれ違うこともあると思うし、そのたび避けるのも違うんじゃないかって」

「仲直りしたい?」

「仲直り、は多分できないと思うんです、取り返しのつかないことしちゃったし、許してはもらえないと思うし」


 野々目さんが見つめてくる。直視できずに目を逸らす。


「それは蓮介くんや芙美子さん次第だと思うよ。いずれにせよぼくから言えることは、過去は変えようがないってことかな」


 過去は変えようがない。その通りだ。それを分かっていて、オレは今日までその事実から逃げ続けてきた。


「美月君! ちょっといいかしら!?」


 居間のふすまの奥から美陽さんの声が聞こえる。野々目さんは、はい、と返事をして立ち上がった。


「もうしばらくしたら夕食だから、きりの良いところまで行ったらテーブルを空けておいて。それじゃ、お勉強頑張って」


 せっかく過去と向き合うチャンスが来たのに、オレは不意にしてしまったんだ。次があるなら、それは逃さないようにしなくちゃ。


 しばらくして出かけていた絵美ちゃんも帰って来たので、そろそろ夕飯の準備を手伝おうと台所へ向かう。


「あ、みぞれ煮だ。これ運べばいいっすか?」

「うん、お願いできるかな」


 大皿には豚肉の上に大根おろしがたっぷりと積まれて、ネギが散らされている。好物は落とさないように両手で持って、居間に運ぶことにした。


 台所から廊下に差し掛かったところで、チャイムの音が鳴る。こんな時間に誰だろうか、座卓に料理を置いて玄関へ向かおうとしたが、オレより早く野々目さんが廊下を歩いて行った。


「いらっしゃい、丁度良かったです」


 訪問者を確認すべく、ふすまから玄関の方を覗き込んだ。


 思わず声を漏らす。野々目さんの小さな背中の向こうには平安寺芙美子の姿があった。

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