■蓮の一……③
それから二週間が経過して、懸念の『妹』がやって来た。まだ肌寒い三月の、昼前のことだった。
その日は春期講習もなくて、目が覚めたのは十一時過ぎ。流石に眠り過ぎたことを後悔して、老朽化した階段を軋ませながら降りる。まだ眠い。髪の毛も解いてない。そんな状態で目をこすりながら一階の廊下に出ると、何やら『姉』と『兄』が居間に続くふすまの前でこそこそと話していた。トーテムポールみたいに顔を重ねている。
「女の子、だね」
「ミッキーみたいなパターンじゃなければねー。でミッキーはどう思う?」
「どうって、何が?」
「あの娘のいんしょー」
「印象って言われても。強いて言えば、ちょっと大人っぽいかな。中学生なんでしょ?」
「ふむ、言われてみればそうねー」
内容が聞き取れるまでに近づいても二人は全くオレに気付く様子がないので、声をかけてみる。
「あの、何してるんすか、二人とも」
「ひぐぅ! シー!!」
うめき声をあげて絵美ちゃんは跳ねた。結果、絵美ちゃんの頭が顎に直撃し野々目さんも声を殺して顔を押さえる。
「新しい住人さんがいらっしゃってるんですよ」
顎をさすりながら、野々目さんは言う。ふすまにはわずかに隙間が開いており、どうやらそれを二人で覗き込んでいたみたいだ。
「偵察再開ね」
絵美ちゃんは中腰になり隙間に目を押し当てる。野々目さんも絵美ちゃんの頭の上から覗きこもうとしていた。オレも仕方なく、『兄』の頭越しに中を見ようとする。座卓を挟んで、手前に美陽さん、奥に誰かが座っている。良く見えない。何か話していたみたいだが、美陽さんが唐突に立ち上がった。
「さて、そろそろそこにいる人たちにも挨拶してもらいましょっか!」
目を凝らそうとした刹那、ふすまが勢いをつけて開いた。美陽さんが『三兄弟』を順番に見る。
「あはは、ちょっと気になっちゃって。ね、レン?」
「い、いや。オレは今来たばっかだって」
痛い。絵美ちゃんの肘がみぞおちに直撃する。
「もう、美月君まで。絵美の悪ふざけに付き合うのもほどほどにしておいて頂戴よ」
「申し訳ないです。ぼくもちょっと気になってしまったもので」
「さ! 気を取り直して、来週から包蓮荘の新たな住人になる子よ!」
ジャーンと言いながら美陽さんは新たな住人の姿を手を広げて示す。正座していた新たな住人は立ち上がり、こちらを見る。
ショートヘア。凛々しい眉毛。少し赤らんだ頬。薄手のカーディガン。手をぎこちなく前に組んで、よろしくお願いします、と礼をしていた。
「あっは、そんなに堅くなんなくていいよー。アタシは蓮田絵美。よろしくねー」
「ぼくは野々目美月と申します。よろしくお願いします」
「あ、えーと、オレは蓮田蓮介です。よろしく、お願いします」
「さ、自己紹介して」
美陽さんに促されて、新たな住人も口を開いた。
「わ、わたしは平安寺芙美子といいます。これから三年間はお世話になると思いますので、よろしくお願いします」
「芙美子ちゃんかー、フーミンて呼ぼっかなー」
絵美ちゃんはぶつぶつと、新住人のニックネームを考えていた。
その一方で、『妹』は緊張しているのだろうか。どこかびくびくしていて、怖がられているような感じがする。この感じ、どこかで。
朝日を照り返す欄干。オレを見つめながら落ちていく平安寺。水の音。
ずっと封印していた記憶がフラッシュバックした。
「へ、平安寺?」
信じられなくて口を覆う。もう二度と会うことはないのではないかと思っていた、もう二度と会ってはならないと思っていた相手が、今、目の前にいる。
「もしかして、光見、じゃないよね?」
光見はオレの旧姓だ。
「あら、知り合いだったの? なら良かった。ちゃんとお兄さんとして芙美ちゃんをサポートしてあげてね」
お兄さんなんかじゃない。
「お兄さんなんかじゃないです、年齢は、同じですから」
オレが否定しようとする前に、平安寺が突っぱねた。
オレと平安寺は小中と同じ学校だった。クラスも一緒になったことがある。
「中二のときは同じクラスでした」
そうだ、あれは中二の冬のことだった。オレは、逃げる平安寺を執拗に追いかけて、最後には手を伸ばして——
「ごめんなさい、わたし、帰ります。ここに住むのかは、考えさせてください」
オレの前を通り、玄関へと肩を怒らせて歩いていく平安寺。待ってくれ、ずっと謝りたかった。この二年間、ずっと謝りたくても謝れなかった。
「ご、ごめん、平安寺。今まで直接謝れなくて。オレ、間違ってた。本当に申し訳ない」
廊下に、声の裏返った情けない謝罪が響く。平安寺は、歩みを止めて振り返った。
「なんで、なんで今更謝るのよ」
「え? だって、その」
「なんでそんな、まるで自分がいじめられているような、いたたまれない顔してるの。あんたがいじめてきたんでしょ?」
オレのことを睨みつける視線。二年前と何も変わらない、鋭く、潤んだ瞳に思わず目を逸らすと、それを見逃してくれなかったのか、『妹』は震える声で追撃してきた。
「なんで目を逸らすの? なんでそんな風におどおどしてるの? 別に浪人したのがあんたのせいだなんて思ってない、でもわたしをどん底に突き落としたあんたの右手を忘れたことも一度だってない!」
平安寺の顔は真っ赤になって、眉毛は吊り上がっていた。
「もう二度と会うことはないと思った、どうせ今もどこかで誰かを傷つけていて、それを省みることなく幸せになっているか、度が過ぎて捕まってるんじゃないかと思ってたのに! なんで謝るのよ、なんでそんな虚しい目するのよ! 加害者でしょ、被害者ぶるなよ、更生してよ、断罪されろよ!」
「ちゃんと生きてよ! 無様に死ねよ!」
平安寺は一息で言い切ると、玄関で靴を履いて引き戸に手をかけて振り返った。
「わたし、帰ります。ここに住むのかは、考えさせてください」
ぴしゃりと引き戸を閉じる音がして、どうしたらいいのか分からなくなって、廊下で膝をついてしまった後のことは覚えていない。ただ、自分の心臓の拍動がうるさくて、野々目さんが平安寺のことを追いかけていって、絵美ちゃんが黙ってオレの背中を叩いてくれたことだけはなんとなく記憶にある。
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