■蓮の一……②
従姉だった『姉』ができたのは、『兄』ができてから一週間ほど後の話だ。二度目の出来事だったので、玄関にかかとを踏み潰したくたくたのスニーカーがある時点である程度は警戒していたのだが、案の定だった。帰宅して、玄関の戸を開くとそこにはオレを待ち伏せている人がいた。
「おかえり。あっは、聞いてた通り、背ぇ伸びたねー」
たなびく金髪、目の端に小じわの寄った笑顔、だぼだぼのパーカー、特徴的な笑い方に間延びする喋り方。
「もしかして、絵美ちゃん?」
問いかけに答えず、金髪の女性はオレの後方を指差した。
「呼び鈴鳴らして?」
要領を得ないが、仕方なく一度外に出て呼び鈴を鳴らす。ピンポーン。
「だいせいかーい」
「わ、わざわざこんな演出させんでも答えてくれればいいのに」
「まぁまぁ上がっていきなさいよ、我が家に」
「オレの家でもあるんですけど! い、一応」
一応。オレは鞄を肩にかけ直して、絵美ちゃんの我が家に上がり込んだ。
絵美ちゃんはオレの二個上の従姉だ。美陽さんの一人娘で、母方の実家——つまりはこの家なんだけど——に遊びに来る時はいつもこの人にからかわれていた。ただ、ここ数年は会っていなかった。
「なぁ、なんで急に帰ってきたの、留学してたんじゃなかったんすか」
絵美ちゃんはアメリカの学校に行っていた。あまり詳しいことは知らないけど、絵の勉強をしに行っていたらしい。そんな髪の色も雰囲気もかつてと異なる絵美ちゃんは座布団二つで簡易的なベッドを作ってごろごろしていたので、隣に座布団を敷いて胡坐をかく。
「んいや、その留学とやらが終わって、お受験に帰ってきたのー」
絵美ちゃんは読んでいた漫画から顔を外して、オレを見上げて答える。
「てかさ、その辺はママに聞いてないの?」
「いや、美陽さん、そういうこと全然教えてくれないし」
「あっは、ママは適当ねー」
絵美ちゃんは座布団に顔を埋めて、くぐもった声で言った。
「てか、受験ならこんなごろごろしてていいのかよ」
「姉の心配とは殊勝なことねー、どうせ今更勉強したって偏差値は微動だにしないよ。三厘くらいは伸びるかもだけど」
「姉っておい」
「実際もう姉みたいなもんでしょー、お姉ちゃんって呼んでもいいよー」
「じゃあ、絵美姉」
「うーん、エミネムみたいになるから却下」
絵美ちゃんはやおら起き上がって、オレの顔を覗き込んだ。
「レンー、コーヒー飲む?」
無防備な顔にちょっとドキッとする。
「へ? ああ、うん」
「じゃあ、淹れて来て! ミルク多めで!」
クシャリと目の端にしわを作って絵美ちゃんは笑い、膝をバシバシと叩いて来た。
「なんで、オレが……分かったよ」
仕方なく台所へと向かった。今は絵美ちゃんと二人きりみたいだ。美陽さんは買い物に出かけていて、美月さんは、おそらく自室。廊下はまだ肌寒く、さっさと用事を済ませようと台所へ急ぐ。
幸いなことにポットにはお湯が残っていて、マグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れて、お湯を注ぐ。美月さんが来てから、ドリップコーヒーを淹れる道具が台所に追加されたのだが、まだ使い方を教わってないからインスタントだ。ミルク多めの要求があったことを思い出して、慌てて牛乳を継ぎ足したらなみなみになってしまった。零さないように運ばないと。
「はい、どうぞ」
座布団に胡坐をかく絵美ちゃんの前に、零れないようにそーっと置く。
「わーお、随分とサービスしてくれたねー」
「ごめん。入れ過ぎちゃって」
「ちょろっと飲んでから持ってくれば良かったのに。そんな抜き足差し足してないでさー」
「そ、それはできないって!」
「あっは。そう、ありがとね」
絵美ちゃんはコーヒーに口をつけると、マグカップを座卓にスライドさせて置きながら、突っ伏すようにして顔を腕に埋めた。見た目は随分と変わったけど、振る舞いや言葉遣いは知っている絵美ちゃんのままだ。
「絵美ちゃんは、変わらないよな」
「えー、そう? 髪は伸びて色も変わって、そばかすも増えたんだけど」
「そりゃ、外見的にはそうだけど」
「人は変わるものよー、変化これすなわち成長」
「だとしたら、オレは成長できてないな」
勉強は苦手なままだし。髪も天パなままだし。人と目を合わせて話すのも苦手なままだし。
「あっは、そのタッパで言うことじゃないなー」
「し、身長は関係ないだろ!」
「そうかな。ちっちゃいころは年をとればとるほど背が伸びるもんだと思ってたんだけどなー、ヒマラヤスギよりも大きくなるつもりだったんだけど」
巨大な絵美ちゃんの肩に乗る自分を想像しようとしたが、うまくいかなかった。
「レンさー、学校楽しい?」
急な話題変更だ。コーヒーを飲み込む。
「いや、楽しくはないけど」
「楽しくはない、けど?」
「行かないよりは行った方がいいかな、って」
「ま、そんなもんよねー」
罪悪感や義務感で学校に行っていることは否定できなかった。
「絵美ちゃんは? ニューヨーク、楽しかった?」
「あはは、まぁまぁかなー」
是とも非ともとれない返答だ。突っ込んだ質問はしない方がいいか。
「大学は? どこ受けんの?」
「そりゃもちろん家から一番近いところよ」
「え、朔葉大学? すげぇ、芸術学部?」
「んいや、国際教養」
「え、ああ、うん、そっか」
コーヒーが苦い。オレの中の絵美ちゃんは名前の通り絵を描くことが大好きで、てっきり大学もそっち方面に行くものだと思っていた。ただ、絵美ちゃんはなんでもできる人だから、全然違う学部に行ってもおかしくはない。
「てか絵美ちゃん、やけに順応早くない? 帰って来たら家が下宿になってて、オレや野々目さんが住んでんだよ?」
「あー、ミッキーね。いい子だよねー」
「ミッキーって」
『姉』はコミュニケーション強者だ。オレはまだ全然野々目さんとちゃんと喋れてないのに、まだ帰って来て一日目の絵美ちゃんは野々目さんのことをあだ名で呼んでいる。多分、下の名前のミツキの間のツを小さくして伸ばし棒をつけたんだろうけど、どうにも世界的に有名なキャラクターが脳裏をチラつく。
「ミッキーはさ、料理ができて、気立てがよくて、声も可愛くて、髪もサラサラよねー。男の子じゃなかったら奥さんにしてたのに」
「色々と矛盾を感じるんですが」
「あっは、時代は多様性だよ」
ニタニタと笑う『姉』。これから少なくとも、二年はこの人と——
「あなたたちねぇ、自分の家だからどこに居ようと自由だけど、試験前なんだから勉強くらいしなさいよ」
買い物袋をがさがさと鳴らして、美陽さんがいつの間にか帰って来ていた。
「あは、そのつもりだったんだけど、どうせ今更勉強しても精々七分くらいしか点数伸びないからってかわいい弟が言うもんだから」
「こら、蓮介! その理屈なら勉強しなさい、七分も上がったら立派な微熱よ!」
「それ言ったのエミちゃんだし、多分単位も数字も間違えてる――」
「あっは、いいから勉強しなさい」
二年はこの人と暮らすのか。悪戯っぽく笑う絵美ちゃんには、ずっとドキドキしっぱなしだ。大丈夫なんだろうか、オレは人と生きる幸せを享受していいんだろうか。
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