第12話 麒麟
咲耶が祈りを捧げて胎動を感じてから、ほどなくのことだった。突然、足元にひろがる骨の欠片がコバルトブルーに輝きはじめた。
トランス状態にあった者たちさえも、その異変に驚いて正気を取り戻し、髑髏も沈黙した。
咲耶も同じだった。得体のしれない恐怖がエロティックな酩酊をどこかへ追いやっていて、魅入られたように足元で輝く骨を凝視していた。
地面全体を青く染めた光は、やがて5本の青い火柱となって天井まで立ち昇り、宙でねじりあった。5頭の青い龍が絡み合っているように見えた。
青龍かも……。咲耶は無意識のうちに懐の神像を握りしめた。
「アメノミナカヌシの神!」
琉山にも予想外の出来事だったのだろう。祝詞らしくない感情のこもった声を上げて地にひれ伏した。
青い光の柱は大空間をうねるように飛びまわり、身体を壁や天井にぶつけて回った。ガラガラと音をたてて髑髏が崩れ落ちる。
やがて光の柱は生き物の姿に
「麒麟だ! アメノミナカヌシではない」
多賀史の声だった。それに反応したのか、実態を持ったそれが彼に向かった。
――ドゴン――
鈍い音がして洞窟が揺れた。砕けた骨が土埃のように舞いあがり、ガラガラと髑髏が転げ落ちて砕けた。多賀史が言う麒麟の翼の陰に、彼の姿は隠れた。
――ブワ……麒麟が舞い上がった後、空気が渦巻いた。それが飛び去った後に腹を引き裂かれた多賀史の遺体が残った。
――ヒヤー……。その時になって初めて、白喪服の者たちが悲鳴を上げて逃げ始めた。
「これっ、儀式の途中じゃ。待て!」
這いつくばった琉山が呼び止めても、恐怖に駆られて走り出した者が足を止めることはなかった。比古一もアヤメも逃げた。ヒムカさえ足腰の衰えを感じさせない速さで逃げていた。
「大丈夫ですか?」
咲耶は琉山を助け起こした。すぐにも逃げ出したい。
「あっ」
身体を起こした琉山が目を丸くした。咲耶は彼女の視線を追って振り返る。背筋が凍った。目の前に鋭い虎の爪が迫っていた。
――ガゴン――
再び骨の破片が宙を舞う。
――グェ……、琉山が弾き飛ばされて呻いた。
咲耶も同じだった。腹部に強烈な痛みを覚えた。隣には血を吐いた琉山の顔があった。顔から眼球が完全に飛び出し、そこにつながる神経や筋肉はゴムひものようだ。
私、死ぬのか?……自分のことが先に立ち、琉山の死に対する感慨はなかった。意識が飛ぶこともなければ、腹の痛みも消えていた。
身体を起こして周囲に目をやった。宙を舞っているはずの麒麟の姿がない。村人を追って行ったのかもしれない。そう考えて円筒埴輪の灯りを追って洞窟の外に向かった。
洞窟を出口に村人はいなかった。滝壺に身体を沈め、滝をくぐった。その先の陽だまりの中に黄泉の穴から逃げ出した村人たちが座り込んでいた。口々に「中の様子を見てこい」「お前が行け」と言い合っている。その時になって、水底の白いものが砂や小石ではなく、洞窟内から獣によって持ち出された人骨だと思い至った。
「咲耶さん……」
咲耶の姿を認めた比古一が立った。父親を亡くしたばかりだからだろう。顔色が真っ青だった。その視線が下腹部にいたり瞬いた。
彼の視線は麒麟が爪を立てた場所にあった。白喪服が切り裂かれ、咲耶の下腹部が露出していた。慌てて着物の合わせ目を引っ張り、彼の視線から下腹部を隠した。
「アッ、……咲耶さん、大丈夫?」
「はい。麒麟、……らしきものは?」
「まだ中だよ」
「え?」
咲耶は黄泉の滝に眼をやった。見ようとしているのはその裏側にある洞窟だ。
「……中には、もういなかったわよ」
2人の話を聞いた村人たちが「そうなのか?」と、咲耶を取り囲んだ。
「それより、大神さんが大変です。麒麟に襲われて……」
死んだと口にするのは
「大神の
新神が周囲を見回し、琉山の姿がないことに気づくと滝つぼに飛び込んだ。その後を余力のある若者たちが追った。
「とんでもないことになったな」
咲耶の隣に村長の法山が立っていた。
「とんでもないこと?」
「麒麟は神を司る大神と新神の守り神だ。それが大神の婆を殺めるとは……。それにしても、あんたは怖くなかったのか? 落ち着いているようだが……」
「私、普通じゃないのだと思います。石上さんに教わりました。私は艶邪虜とかいうのに襲われたことがあって、魂の一部が欠損しているそうなのです。それでだと思います」
「その程度のことなら、この村の者なら経験している。……跡継ぎを決めないとなぁ」
法山が洞窟の方へ眼をやった。
「大神さんには、お子さんがないのですか?」
「大神と新神は、役割であって家ではないのだ。大神が亡くなると新神が大神を名乗り、村の若い娘の中から新神を選ぶことになる。……しかし、平穏をもたらすはずの麒麟に襲われたとあっては、大神の力が弱ったということか……。あるいは麒麟を狂わせるようなものが……。お前さんの友達は何といったかな?」
彼が村と縁のない者に嫌疑を向けるのは自然だが、咲耶には受け入れがたいことだった。
「天乃雅さんと岩井月子さんです。彼女たちは、何も悪いことはしていません。石上さんの家から、川まで散歩しただけですから」
「天乃……。もしや、天孫属の血筋か?」
そっちかぁ。……咲耶は心の声を上げた。雅とは4年以上付き合っているが、先祖のことなどお互い話したことなどない。自分の先祖のことだって、つい先日、天具に聞かされたばかりなのだ。
「さあ? わかりません」
「そうか……」
初老の法山は肩で息をすると流れに入った。
「中に行くのかい?」
アヤメが声をかけると、彼はうなずいて滝に向かった。
「村長というのも大変だね」
彼女が独り言のように言った。
「ご主人、お気の毒でした」
咲耶はアヤメの隣に腰を下ろして声をかけた。
「ご主人は私だよ」
アヤメは気丈だった。咲耶は魔母衣村が女系制度だったことを思い出して口を閉じた。今はどんな言葉をかけても彼女を慰めることは出来ないだろう。ふと思い出したのは比古造のことだった。アヤメの父親の彼なら、彼女を慰め、勇気づける言葉を持っているかもしれない。
おじいさん、どうしたらいいですか?……胸の内の祖父へ声をかけてみたが返事はなかった。
滝の向こうから若者が数人現れて森に入った。天具もいる。彼らは太い木の枝を手にして再び滝の向こう側に消えた。何やら作業をしているようだ。
アヤメも彼らの動きを追っていた。その瞳が濡れている。
「麒麟に踏み殺されるなんてねぇ。何か、いけないことをしたんだろうねぇ」
彼女は自分たちの罪が何かは知らなかったが、それに対しては謙虚だった。
森の中からとどく蝉の声がひどく切ないものに聞こえた。咲耶はそれを聞きながら洞窟に入った人々が出てくるのを待った。
巣に帰るカラスが五月蠅く鳴いた。太陽は傾いていて、滝壺周辺さえ暗くなっていた。ぽっかりあいた空は薄紫色をしていた。
滝の周囲で小さな灯りが揺れた。蛍かと思ったが違った。ちらほら現れたのは村人が持つ燈明の明かりだった。その後ろにタンカのようなものが現れる。多賀史と琉山の遺体を乗せるために急ごしらえされたものだ。比古一と天具が多賀史のタンカを運んでいた。その前に燈明を手にした比古次がいた。
「皆の衆。帰るぞ」
法山が言った。
燈明の皿を手にした若者たちを所々に配して列は動きだした。
行列は、比古造の頭を運んで来た時より沈鬱な空気で覆われていた。死者を送るより、死者を迎えるのは心を削るものらしい。まして麒麟の出現によって、多くの者が自分の死を実感させられた。深い森を歩くのは、死地へ向かうのと同じ感情をかき立てられているのに違いなかった。
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