1.アルベルネ


 辺りは火の海だった。

 全てが燃えている。建物も、植物も、動物も、人も、腕の中にあった命も、全てが燃えている。

 その中で、自分だけが生きている。燃えると同時に再生させるこの体は、死すら許されない。

 抱きしめていたはずの命は骨だけになり、その骨すら灰となる。それすらも、少し体が揺れただけでガラガラと崩れてしまい、もう腕には何も残っていない。

 その崩れて散っていく灰を、ただ見つめていた。

 いつまでそうしていたのか。ふいに、近付いてくる足音に気が付いて、顔を上げる。

 目の前には、懐かしい人がいた。

「■■■――」

 その人が、掠れた声で何かを言う。

 それが自分の名前だとはわかったが、思い出せない。自分の名前は、なんだったか。

 その人は言う。

「――頼むから、死んでくれ」

 振り上げられた剣が、真っ直ぐ自分へと堕ちてくる。


 目を覚ます。

 部屋の中はまだ暗い。体を起こし、すぐ横の窓から外を見れば、まだ空には月がある。

 白髪の青年は、溜め息を吐く。

 ズキリと痛む胸の古傷に手を宛て、ただ、日が昇るのをじっと待った。


 ×××


「……チガヤ・アルベルネ?」

 手渡されたカードに書かれた文字を読み上げて、少女――チガヤは首を傾げた。

 書類手続きをするからと観測所の事務室へと連れてこられ、手渡されたのがこのカードであった。

 首を傾げているチガヤに、カードを渡した張本人であるロキ・エルドランは、書類に自身のサインを書きながら答える。

「観測所に入るための許可証だ。身分証にも使えるし、今後何かと必要になることもあるだろうから、先に作っておいた」

「身分証……あの、名前はいいのですけれど、この、アルベルネというのは?」

 チガヤは今まで「アルベルネ」と名乗ったことは一度もない。

 そもそも、家名というものがなかったのだ。このアルベルネという名が一体どこから湧いて出たのかとロキを見つめれば、彼は書類から目を離して顔を上げた。

「事後報告になって悪いが、こちらで勝手につけさせてもらった。アルベルネ家の家長には許可をもらっているから安心してくれ」

「え、架空の名前じゃなくて、実在する家の名ってことですか? い、いいんですか、私なんかが名乗っても」

「いいんだよぉ~チガネちゃん」

 唐突に間延びした声が割って入ってきた。

 横を見れば、椅子の背にもたれ掛かってこちらに手を振っている男性がいる。

「アルベルネ孤児院。親がいない子供たちを引き取っている家なんだよ。でもって、我らがロキ所長の出身地でもある」

「ジャン、お前な……」

「あ、ちなみに俺はジャン・ユライド! なんやかんやで自己紹介できてなかったよね。中央区から派遣されている学者だよ。よろしくねっ」

 少しくたびれた白衣のような上着を着ている男性――ジャンは、にっこりと人懐っこい笑顔を見せた。

 ジャンのことはチガヤも印象強く覚えている。チガヤが泉に流れ着いた最初の日に、この事務室に入って真っ先に驚いて叫んでいた、あの男性だ。

 ジャンはついでに、と事務室内をぐるりと見渡す。

「今日はアルテが休暇続行中でいないし、エリックは見回り中だけど、あの二人はもうわかるよね。他に紹介できてないのはアドソン兄弟かな。窓際に並んで座っている、右の方が兄のユークリッド・アドソン、左が弟のフィル・アドソンだよ」

「おう、よろしく」

「よろしくな」

 窓際の男二人がそれぞれこちらに手を振ってくれる。

 ユークリッドとフィルは一歳違いの兄弟なのだそうだ。軍人らしいガッシリとした体格の二人は少し威圧感があるが、こちらに向けてくれている笑顔を見れば気の良い兄弟だということがわかる。

 続けてジャンは喋り続ける。

「アドソン家はこの辺りに昔からいる旧家で、俺ことユライド家は中央区じゃそこそこ有名な医者の家。ロキ所長のエルドラン家も昔は結構有名な大富豪だったって話だよ。先代所長の代から少しずつ衰退して、今じゃロキ所長しかいないけど……まぁ、そんな感じで、この町じゃ家名がそのまま身分証明になるんだ。観測所ができてから発展したばかりの、比較的新しい町だからね。新顔、且つ、親元のいないチガヤちゃんはどうしても目立っちゃう。その点、孤児院をやっているアルベルネを名乗っておけば、変に怪しまれずに向こうから察してくれる、ってわけ。そうっすよね、所長?」

 そこまで一気に喋ったジャンは、最後に確認としてロキに話を振る。

 ロキはやれやれと呆れた様子ながらも頷いた。

「……アルベルネの家長は、近隣からも信頼されている人望の厚い人だ。アルベルネの名はこの町ではお守り程度には効果がある。家長も好きに使ってくれと言っていたし、好意に甘えていいと思うぞ」

「そうだロキ所長、今からチガヤちゃんを連れて孤児院へ行ってきたらどうっすか。前になかなか顔を出せないって愚痴ってたじゃないですか」

「いや、ジャン、お前な……」

「泉の御方なら、こっちが何かしない限りは暫くは大人しくしてるっしょ。エリックから聞きましたよ、所長、泉の御方にめちゃくちゃ呆れられてたって」

「…………はぁ、まったく」

 溜め息を吐いて、ロキは立ち上がる。

 ジャンには苦言を溢しながらも、行くことにしたようだ。外套を羽織り、チガヤを振り返る。

「チガヤもいいか。ここからだと少し歩くことになるが」

「あ、はい、大丈夫です。私もお話を聞きたいですし」

「やれやれ……エリックが戻ったら孤児院へ行ったと伝えておいてくれよ。じゃぁ、後を頼んだ」



 そうして、ロキの後をついてチガヤは観測所の外へと出た。

 歩きながら後ろを振り返り、巨大な壁を見上げる。少しだけ、ほんの少しだけ、泉にいる青年の顔を見たかったと思ったのは、口には出さないようにしようと考える。

 というのも――故郷の村から戻ってから、この数日間。毎晩のように水神がチガヤの元に現れるようになってしまったのだ。


「なんで会いに行かないのよぉ! 全然あの子のお嫁さんになれてないじゃない!」

「む、無理ですよ水神様……私みたいな一般人が、そう頻繁に行ける場所ではないのですから……」

「人間って本当に面倒ねっ! もー、わたしの計画が台無しになっちゃうじゃないのぉ」

「計画ってなんですか……? 私、何をさせられるんです……?」


 と、そんな会話をしたのが昨晩のこと。

 入浴中に現れるのは勘弁してほしいと頼み込み、チガヤが居候している部屋に水盆を用意して、なんとか誰の目もはばからずに水神と交流することができるようにはなったが、依然として無茶な事を言われてしまうので日々頭が痛い。

 更に頭を悩ましているのは、水神のことを誰にも言えていないということだ。日頃顔を合わせるプリシアにはもちろんのこと、ロキにすら相談できずにいる。今の状況をどう説明すればいいのかと、言葉を探している内に相談するタイミングを逃してしまい、今に至ってしまっている。

 顔を前に戻し、前方を行くロキの背中を見て、ふぅ、と小さく息を吐く。ロキに気付かれられないようにこっそりとしたはずだが、ふいにロキが振り返ってきた。

「どうした? 疲れたか?」

「い、いえ、大丈夫です」

「君は体力がないようだからな。遠慮せずに言うんだぞ」

「あう……頑張って運動します……」

 故郷から帰ってから三日ほど、全身筋肉痛で苦しんだチガヤだった。六年間ほとんど軟禁生活をしていたせいもあるだろうが、自身の体力の無さに失望していたところだ。

 今日の用事が終わったら体力をつける方法を考えよう。とりあえずは散歩からだろうか。そう思いながら、ロキへと別の質問を投げかけた。

「あの、ジャンさんが、孤児院がロキさんの出身地だ、と言っていたのはどういう意味ですか?」

「そのままの意味だ。赤子の時に預けられて、幼少期まで世話になっていたのが、今から行くアルベルネ孤児院なんだよ」

 ロキは、泉に流れ着いた二人目だ。

 赤子の状態で流れ着き、身元不明だった彼は、幼少の間はアルベルネの名を借りていたそうだ。

「孤児院には九歳の頃までいた。それから養父に引き取られてエルドランの名を継ぐことになったが、孤児院との交流は今も続けている」

「あぁ、それでアルベルネ家の家長さんとも顔見知りだということですか。でしたら尚更、ちゃんとご挨拶しないとですね」

「そんな暇があればいいが……見えてきた。あの赤いレンガの建物だ」

 ロキが指差す方向。

 赤いレンガ造りが特徴的な建物、アルベルネ孤児院は、丘の上に建っていた。


 ×××


 赤いレンガ造りの建物は大きく威圧感があったが、門前に回り込んでみれば緑豊かで広々とした庭があり、開放感があった。

 大きな門は解放されており、門の向こう側から子供達の元気な声が聞こえてきている。ロキはその門を潜る前に、チガヤを振り向いた。

「チガヤ、俺の後ろにいろ。いいな」

「え? は、はい。でもなんで――」

 と、首を傾げながらもロキの言う通りに後ろに回ったチガヤは、前方から多人数分の声がこちらに向かってきていることに気が付いた。

 門を潜ってすぐに見えたのは、走ってくる子供達の姿。十人ほどいるだろうか、子供達は嬉しそうに走ってきては、そのまま止まろうとはせずに。

「ろぉぉーーーーきぃぃーーーーっ!」

 雄叫びを上げてロキに一斉に飛びついた。

「ぅ、ぐ」

「ろっ、ロキさん?! 大丈夫ですか?!」

「大丈夫、だ……おいこら、よじ登るな、首元掴むな、髪引っ張るな」

 チガヤの目の前でロキが子供達に揉みくちゃにされている。

 あわあわとするチガヤを余所に、子供達は口々にロキへと話しかけていた。

「ロキ、来るの遅いよぉ!」

「ねぇ遊ぼ! 遊ぶ約束してたもんね!」

「このお姉ちゃん誰? ロキの友達?」

「もしかして愛人? プリシアちゃんに言いつけちゃお!」

 子供達の会話の矛先がチガヤへも向く。思わず「ひぇ」と声を漏らしたチガヤだったが、向こう側から別の声が聞こえた。

「こらこら、あなた達。虐めちゃ駄目よ」

「はぁーいっ」

 ロキに群がっていた子供達が一斉に返事をし、ロキから飛び降りて散っていく。

 ロキはというと、髪がくしゃくしゃになっており、服もすっかり乱れてしまっていた。肩からずり落ちている外套を引っ張り上げながら、ロキは大きく息を吐いた。

「……な? 後ろにいて良かっただろ、チガヤ」

「ふぇっ、は、はい、ありがとうございました……っ」

 どうやら身を張って子供達からの盾になってくれていたらしい。慌てて頭をぺこぺこと下げていると、向こうからくすくすと笑い声と共に一人の老婦人が歩いてきた。

「ごめんなさいね、元気が有り余っている子ばかりで」

 真っ白になった白髪をしっかりと結い上げている、上品そうな老婦人だった。杖をついてはいるものの背筋は真っ直ぐ伸びており、穏やかな笑顔を浮かべている。

 ロキは手早く髪を直した後、深々と老婦人へと頭を下げた。

「暫くぶりです、院長先生。お加減はどうですか」

「久しぶりねロキ君。ありがとう、お陰様で元気に過ごさせてもらっているわ。そちらの子が、手紙に書かれていた女の子かしら?」

 老婦人の目がチガヤへと向けられる。

 自分のことだとすぐにわかり、チガヤは慌てて頭を下げた。

「あ、ち、チガヤです。えっと、この度は……」

「まぁまぁ、慌てないで。立ち話ではなくて、中でゆっくり話しましょうよ。それとも仕事が忙しいのかしら、ロキ君?」

「いえ大丈夫です……が、その前に、あいつらの相手をしてきていいですか」

 ロキが向こう側を指差す。

 そちらを見れば、こちらの様子を窺っている子供達の姿が見えた。全員が期待に満ちた目をしており、ロキと目が合うとパァッと顔を輝かせている。

 老婦人は朗らかに笑った。

「ふふふ、あの子たちもロキ君に会えて嬉しいみたい。悪いけれど、遊んできてもらえる?」

「はい。チガヤは院長先生と先に中に入っていてくれ。外套を頼む」

「え? は、はい」

 チガヤに外套を託し、ロキは襟元のボタンを外す。

 そして子供達に向かって走り出した。

「おらぁ! 愛人だのプリシアに言いつけるだの言ってた奴はどいつだ! 言っていい冗談と悪い冗談があるぞ!」

「きゃーっ!」

 ロキに追いかけられた子供達が、歓声を上げながら逃げていく。

 その様子にチガヤは呆気にとられ、老婦人はにっこりと笑っていた。



「自己紹介がまだだったわね。イリス・アルベルネ。このアルベルネ孤児院の院長をしているわ」

 キッチンがある部屋に通され、温かい紅茶を入れたティーカップを並べたテーブルに着席した後、老婦人はそう名乗った。

「ロキ君から貴女のことは聞いているわ。ロキ君と同じ境遇なのですってね」

「同じ境遇……えっと、はい、そうですね」

 泉に漂着した者同士、という意味では正しいのだろう。曖昧に頷くチガヤに、イリス院長はにこりと微笑みかける。

「この辺りは、昔から不思議と親のいない子が集まる場所でね。見かねた私の父が、子供達を集めて、一人でも生きていけるようにと文字を教えだしたの。それがこの孤児院の始まり。町には孤児院から独り立ちして、立派に働いている子も沢山いるわ。だから貴女も、遠慮せずにここを頼ってね」

「あ、はい、ありがとうございます……あの、でも……」

 礼を口にしながらも、言い淀む。

 イリス院長はこちらを見つめている。迷いながらも、チガヤは続きを口にした。

「……私、家名を名乗る資格がありません。何もしていませんし、何もできないですし……」

 良いながら、チガヤは俯いてしまう。

 今だって観測所で保護されているだけで、ロキたちの役に立てているわけではない。それにエルドラン邸でも居候としてもてなされるばかりで、肩身が狭い状態なのだ。

 そんな自分が、何も返せないまま、もらいっぱなしでいいものだろうか。

 そんなチガヤの心情を知ってか知らずか、イリス院長はカップを手に取ると、紅茶を一口飲む。

「そう……何もしていないのにアルベルネを名乗れない、ということね? だったら、そうねぇ……チガヤさんは、何か得意なことや趣味はある? 絵を描いたり、本を読んだり」

 唐突にそう聞かれ、顔を上げたチガヤは瞬きをする。

 得意なこと、と暫く考え、最初に思い付いたのは、自作したあの真白のドレスのことだった。

「えっと……裁縫はできます。自分の服を作ったこともあります」

「あら、凄いじゃない。それなら、少し待っていてくれるかしら」

 そう言ってイリス院長は一度席を立ち、別の部屋に行ったかと思えば、何かを抱えて戻ってきた。

 小さな子供の服のようだった。まだ新しそうだが、裾の部分が織り込まれており、まち針で仮止めされている。

 針に気をつけてね、と言い添えながら、イリス院長はその服を差し出した。

「裾直し、できるかしら。寄付でもらったのだけれど、大きすぎるから直そうと思っていたの。でもね、この歳になると、どうにも手元が見え難くてねぇ」

 イリス院長から服を受け取り、仮止めされている箇所をまじまじと見る。ドレス制作の時に一番苦労したのはレース生地を縫いこんでいる時だったが、綿素材の柔らかな布の為、この程度であれば手縫いでもできそうだ。

「……えっと……できます。道具があれば、ですけれど……」

「ふふ、良かった。裁縫道具はこちらから貸し出すわね。それから、この服以外にもまだまだ繕いたいものや、作りたい縫い物があるのよ。チガヤさん、それを手伝ってくれない?」

「え……わ、私で、良いのですか?」

「ええ。孤児院のお仕事として、チガヤさんにお願いしたいわ。そしてこのお仕事の報酬は、チガヤさんがアルベルネを名乗ってもいいという許可と、ちょっとしたお小遣い……で、どうかしら」

 イリス院長がにこりと笑う。

 チガヤはきょとんとした後、院長と、手元の子供服を見る。

 少しずつ内容を飲み込み、チガヤは顔を上げると勢いそのままに立ち上がった。

「私のお仕事……! ありがとうございます、頑張りますっ!」

「まぁまぁ、気合い充分で嬉しいわ。よろしくね、チガヤさん」

「はい、よろしくお願いします!」

 イリス院長が差し出した手をギュッと握り、ぶんぶんと振る。

 まるで自分の居場所を見つけたかのような感動だった。身寄りが無く、体力も経済力も無いチガヤにとって、誰かの役に立つ仕事に就くということはこれ以上なく嬉しいことなのだった。

 そんなことをしていると、ふいに部屋の扉が開く。チガヤとイリス院長が扉を振り向けば、さらに髪がぐしゃぐしゃになっている状態のロキが立っていた。

「すみません、遅くなりました」

「あらあら、随分遊んでくれたのねぇ。あの子たちも満足したことでしょう」

「あいつらにもそろそろ加減を覚えてもらわないと、流石に俺でも相手しきれません。酷い目に遭いました」

 そう言いながらも、ロキの顔はどこかすっきりとしている。乱れた髪を手で直しながら、ロキは不思議そうにティーテーブル上の子供服を見る。

「ロキさん、私、お仕事ができました!」

「仕事? あぁ……さすがは院長先生。もうチガヤを手懐けましたか」

「ふふふ、ロキ君と比べたら楽勝だったわよ。さてと、裁縫道具を持ってくるわね。少し待っていてちょうだい」

 イリス院長が立ち上がり、杖をつきながら再び部屋を出て行く。

 小窓の外からは子供達の元気な声が聞こえてくる。暖かみを感じる空間に、チガヤはほぅ、と息を吐く。

 傍らで、ロキは勝手に自分の分の紅茶を淹れていた。どこに何があるのかを知っているようで、ロキがこの孤児院の出身者なのだということを改めて実感する。その証拠に、ロキの表情は観測所で見かける時よりも少し穏やかに見えた。

「良いところですね。院長さんは優しいし、子供たちは元気だし」

 チガヤが声をかける。

 ロキは紅茶を一口飲み、窓の外を眺めている。外では子供たちが何人か、ロキに気付いて手を振っていた。

「……ああ。平和で、良いところだよ。ここに居た頃の俺は、だいぶ迷惑をかけてしまっていたからな。少しでも恩を返せて行ければいいんだが」

 子供たちに手を振り返し、ロキは言う。

 そんなロキの横顔が、少し陰ったように見えた。チガヤが首を傾げていると、ロキは苦笑交じりに肩を竦める。

「実を言うと、孤児院にいた頃のことは、よく覚えていないんだ……院長先生が言うには、俺はまったく感情が読めない子供だったらしい」

「感情が読めない?」

「赤子の頃も静かすぎるほどに泣かなかったらしいが、物心ついた頃にもなると、ずっと外ばかり眺めてぼんやりしている子供だったんだと。そうだな……ちょうど、あそこにあるベンチに座って、向こうを見ていた記憶だけ、鮮明に残っている」

 ロキが窓の外を指差す。

 そこには柵に向かってベンチが設置されている。そこに座って見える景色といえば、柵の向こう側――その方角は、ロキとチガヤが歩いてきた場所、つまり、観測所がある壁がある方角だ。

 いや、違う。おそらくロキは、壁のさらに向こうに広がる森と泉を見ていた、と言いたいのだろう。

 こっそりとロキの表情を見れば、あの泉にいる青年を前にしている時のような目つきになっている。今もきっと、青年のことを考えているのかもしれない。

 チガヤは心の内で、どうしてロキは青年を前にすると怒りと寂しさが混ぜ合わさったような目をするのだろう、と呟いた。


 ×××


 院長と子供たちから誘われて昼食をご馳走になり、まだ遊びたいと愚図る子供たちを宥めていれば、時刻は真昼を過ぎて日が傾き始めてしまっていた。

 また来てね、という子供たちの声に手を振って応えながら孤児院を後にした二人は、来た道を途中まで辿ることにした。

「途中までで良いのか? 家まで送ってもいいんだが」

「大丈夫です。大通りまで行けば帰り道はわかりますし、ロキさんも早く観測所に戻られた方が良いでしょうから」

「俺としては有り難いが……」

 ロキが仕事の途中で付き合ってくれていることを理解しているチガヤは、大丈夫だと胸を張って頷いた。

 プリシアの買い物によく付き合うようになり、大通り近辺であれば道がわかるようになってきていたのだ。両手が裁縫道具と依頼品でいっぱいではあるが、それほど距離があるわけでもない為、チガヤの足でもこれぐらいなら帰り着けるだろう。体力作りにも丁度良い。

 自信満々な様子のチガヤに、ロキは苦笑して肩を竦めた。

「わかった。大通りまで送るから、そこで別れよう」

「はい」


 少し歩けば大通りはすぐそこだった。観測所から行くよりも、エルドラン邸から孤児院へ行く方が距離は短いようである。

 そこでロキにぺこりとお辞儀して礼を言い、チガヤ一人で帰路につく。この時間帯の大通りは人通りが多く賑わっているが、エルドラン邸が建つ住宅地へと入ると途端に静かになった。

 この時間帯は住民たちも仕事や外出をしているのか、チガヤの足音がよく響く。やがて見慣れた門と庭が見え始め、チガヤはホッと息を吐いた。

「屋敷についたら、プリシアさんの料理のお手伝いをして、それが終わったら机を片付けて、裁縫する場所を作って……」

 帰路に自信はあったものの、見慣れた場所に来ると自然と肩の力が抜ける。

 小さく声に出しながら午後の予定を立て、門に手を掛けた時、ふいに後ろから声をかけられた。

「すみません」

「え?」

 驚いて振り向けば、いつの間にか一人の男性が立っていた。

 ハットを目深に被り、顔がよく見えない。黒いロングコートで服装もよくわからないが、首元に見える赤いネクタイがよく目立っている。

 男性は言う。

「こちらはエルドランさんの邸宅でしょうか」

「あ、はい……お客さんですか? すみません、今、家の人を呼んできますので――」

「いいえ、それには及びません。どうやら我々の目的は、貴女のようなので」


 ふいに、どこかで聞いた声だと、チガヤは思い至った。それも、つい最近の出来事だったはず。

 その答えに辿り着いた途端、チガヤは急激に背筋が凍っていくのを感じた。

「見つけたぞ。生贄」


 その瞬間、チガヤの目の前は真っ暗になった。


 ×××


 泉の水面が、ぱしゃんと音をたてて揺らいだ。

 それと同時に、泉の淵に座って水面を眺めていた青年が、勢いよく立ち上がる。

 一陣の風が吹き、それまで静かだった森がざわめき出す。その風は青年の長い白髪を吹き乱し、泉の水面を激しく波立たせる。

「――――」

 青年が口を開くが、声は出ない。

 しかし、顔を上げた青年の瞳には、真っ赤に燃え上がる炎が、激しく揺らめいていた。


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