気が重い(3)




 大西弘明は、板倉忠男に投げつけられた空のワンカップが当たった額を押さえ、這いつくばっている。


 這いつくばる大西の意識は額が発する痛みに殆ど集中しているが、様々な思考と感情も心の奥底で蠢いていた。

 仕事で必要なことを伝えただけでこうした理不尽に晒される不条理さ。

 何も意思表示をしないくせに突然暴行に及ぶ板倉忠男への恐怖、そして怒り。

 この後、板倉忠男に対して同じく暴力で返せない自分の情けない立場。

 それらが瞬間的にないまぜになる。

 その中で、額の発する痛みが薄れるにつれ、痛みに替わって大西の意識の中に広がったものは板倉忠男に対する怒りと拒絶の感情だった。


 大西は希望部署ではないにしろ、福祉事務所で働く上で人々の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するために働くのだという職業倫理を持つよう努めて意識してきたつもりだった。

 だから、制度とはいえ『社会定年』によって来月には全ての権利を失う板倉忠男を憐れに思い、どうにか少しでも生き延びられる手助けになるようにと、今日ここに来たはずだ。

 板倉忠男に対して自分が出来ることと言えば『社会定年』前に金が掛かる契約を解除し、少しばかり金を多く持って『特地』に移ることを勧めるだけのことくらいしかない。結局、国の方針に逆らうなんてことは県機関職員とは言え公務員である大西には無理なのだ。

 気が重かったのは、経験の浅い自分が、曲がりなりにも75年生きてきた板倉忠男に対して、早期の契約解除という方法を、上からの物言いをして誤解されてしまうのではないかと自信が無かったからだ。

 だが、こちらの話をロクに聞きもせずに、ものを投げつけるなんて!

 結局板倉忠男がどうにか命を保ち生活を続けて来れたのは、生活保護制度のおかげだ。

 医療扶助によって借りていた酸素濃縮器が無ければ、十数m歩くと息切れしてしまい動けなくなる。そんな板倉忠男が廃墟となった建物しかない『特地』に移ったとしても、長く生きていけるはずもない。

 だけど、それが決まった社会制度ってもんだ。

 たとえそのことに不服があったとして、末端の職員の俺に当たり散らしても変わる訳じゃない。

 直接反撃できないこちらの立場を見透かして偉そうに!

 ああ、だったら別に哀れだなんてこっちが思ってやる必要もないよな。

 そっちが拒否するんなら、淡々と進めるだけだ。


 額の痛みが引いた大西は、ゆっくりと頭を上げると、酸素濃縮器に寄りかかって、まだ息の上がっている板倉忠男をじっと見据えた。

 まだ時折カハッ、カハッと乾いた咳込みをする板倉忠男。

 前回の総合病院呼吸器科受診で肺に新たな影があると言われたとケアマネジャーからの情報提供があった。

 詳しく調べるには細胞診などの検査が必要だということだったが、次回受診は板倉の『社会定年』後になってしまうため予約はせず終診となっており、去痰薬や酸素濃縮器の処方は『社会定年』前日分までとなっていた。


「板倉さん、苦しそうですけど、私にワンカップ投げつけて気持ちはスッキリしましたか?」

 大西は眼を板倉忠男からそらさずに言う。返答なんぞは期待していない。

「板倉さん、こんなことを言う私を軽蔑するかも知れませんけど、すいませんね。これも私の仕事なんで、はい。

『社会定年』前にインフラ契約解除してここから出て行けなんて酷いこと言ってるようですけど、このまま何もせずに『社会定年』日を迎えたら、板倉さん、あなた不法占拠ですよ」

 板倉忠男は呼吸を整えながらも大西をギロリと睨み返す。だが、言葉は出ない。

「不法占拠な上、電気ガス上下水道電話、全て『社会定年』日に止まります。まあ灯油が残ってるなら暖房は使えるかも知れませんがね、生きていける環境じゃなくなりますよ、電気が止まるから酸素濃縮器も使えなくなりますし」

 一旦大西は言葉を切り、少し間をおいてその先を続ける。

「それで不法占拠のあなたを警察が強制排除することになりますが、行きつく場所は留置場なんかじゃない。『社会定年』後のあなたは、留置場すら使わせてもらう権利はないんです。結局『特地』ですよ。タダで『特地』に行くなら生活保護で行くのと変わらない、どっちみち一緒だって思ってます? 違いますよ。あなたの手持ちの現金や価値が多少でもあるものは、全て排除手数料として没収されますから」

 大西は板倉忠男に対して優越感を感じながら言葉を紡ぐ。

「本当に身一つで『特地』に放り出されるのと、多少でも現金や使えるものを持って『特地』に移るのとでは、天と地ほどの違いがあると思いますけどね」

 そう言いながら大西は自分の鞄の中から書類を入れたクリアファイルを取り出し、板倉忠男の前のコタツの上に書類を広げ、ボールペンを添えた。

「今日書いていただけるなら、私が責任を持って各所に提出しておきますよ。どうします?」

 いつ瞬きをしたのかと思う程に、板倉忠男は大西をずっとギラギラとした鋭い眼光で睨み続けていたが、睨み続けたまま手を伸ばしボールペンを取った。

 大西は、まったく頑固なクソオヤジだなコイツは、とその動作を見ながら思った。

 ほら、また投げるぞ。

 思った瞬間、板倉忠男の手が動き大西にボールペンを投げつける。

 大西は、今度は予測していたし板倉忠男の動きをしっかり見ていたので難なくボールペンをかわすことができた。

 再びガハッ、ゴホッと咳込む板倉忠男を尻目に、大西は投げられたボールペンを拾う。

 そしてまた板倉忠男の前に広げた書類の横にボールペンを置いて言った。

「わかりました、板倉さんが今日はお書きになるつもりがないということがね。まあ、後で書き上げたらそれぞれの書類をそこの封筒に入れて投函してください。でも、月が替わったらもう手遅れですけどね。

 あ、ボールペンはあげますよ、餞別です。それと」

 大西はもう一つクリアファイルを取り出して、中の書類は出さずに解約届とは別にコタツの上に置いた。

「一応置いて行きますよ、権利回復選考会の参加申込書。これも封筒に入れて投函してくださいね。今年も4月に行われるみたいです。最も、板倉さんは果たして参加できるんでしょうかね」

 言外にそれまで生きてはいられまい、という皮肉を込めて大西は言った。


「では、今日はこれで失礼しますね。気が替わったら連絡してきてください」

 大西は鞄を持って立ち上がり、障子を開けて玄関に向かう。

 背後の板倉忠男が掠れた声で罵る。

「ふざけんな、なに様気取りだ若造が……こんなもん」

 大西の背後で紙をくしゃくしゃに丸める音がした。

 大西が後ろ手で障子を閉めると同時に、投げつけられた書類が障子に当たり、パンと乾いた音がした。






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