気が重い(2)




 大西弘明は板倉忠男宅のサッシの玄関扉を叩いた。


「こんにちわー、福祉事務所の大西ですー」とあいさつをし、建付けの悪いサッシに指をかける。

 鍵はかかっていない。

 サッシ扉を開けて玄関の三和土に入ると、向かって左横の居間からTVの音が聞こえてくる。朝、電話をした時は出てくれたので生きているのは確認できている。

「板倉さん、電話で少しお伝えした件で伺いました、失礼しますね」

 大声でそう呼びかけて中に上がり込む。今でも慣れないが、こうしないと全く無視されてしまうのだ。電話で話をしても少しでも機嫌を損ねると話の途中だろうと切られてしまう。


 居間の障子を開けると、居間の中の空気はもわっと煙っていて、思わず大西は右手で顔の前を仰いだ。

 板倉忠男は居間のコタツで横寝をして肘枕をつきTVを見ていた。

 大西の真正面にあるTVの画面を見ていると思しき板倉忠男は、大西に背を向けて横になっている格好だ。

 肘枕をしている右腕とは反対の左腕は体の向こう側に隠れているが、左手のあると思しき辺りから紫煙がゆらりと立ち昇っていて、タバコを吸っているのがわかる。

 板倉忠男の両耳にかかった細い管がぐじゃぐじゃになりながら居間の隅に置いてある酸素濃縮器に繋がっていて、酸素を供給している。

 タバコの吸い過ぎで肺気腫になり在宅酸素療法を行っているのに、それでもタバコを吸うってのは、本当に理解できない。

 この姿を世間のインフルエンサーに見られでもしたら、だから今の社会は正しい、老人に金を掛けるなんて無駄だ、と騒ぎ立てられるに違いない。


「板倉さん、在宅酸素なのにタバコなんか吸ってちゃ駄目でしょ」

 言っても聞かないことは理解した上で、大西は板倉に軽い調子で注意しながら、板倉忠男から少し離れた畳の上に正座する。

 板倉は返事もせず、大西の方を向こうともしない。左腕を動かしタバコを口元に持って行く動きをし、白煙をTVに向かって吐き出している。

 板倉忠男は耳が遠い訳では無い。

 こちらを無視して話を聞かなければ済むっていうものでもないのに。

 大西は苦々しさを感じたが、精一杯、自分で出せる最上級の穏やかな声色で板倉忠男に本題を話しかけた。


「板倉さん、今日伺ったのは諸々の書類の手続きをしてもらうためなんですが、お願いしますよ。板倉さんのためでもあるんですから」

 板倉忠男は相変わらず大西に背を向けたまま、左手を動かし煙を吐き出している。

 仕方ない、言う事だけ言ってしまおう。

「まずですね、電気、ガス、水道、電話の解約届です。

 先日送付させていただいた通知でもうご存じだと思いますが、来月の24日に板倉さんは『社会定年』を迎えます」

 大西は自分の声が作り過ぎて上ずっているのを自覚している。

「『社会定年』と同時に、板倉さんの生活保護措置も終了となります。

 こちらの借家契約も『社会定年日』をもって解約となりますし、電気、ガス、水道その他諸々の契約も同様です。

 そうなる前に電気、ガス、水道などの契約を自発的に解約しておけば、その分お金は残せるんですよ。それに、『社会定年日』前なら保護費とは別に引っ越し費用もお出しできます。悪い話じゃないと思いますけど」

 実際のところ、悪い話じゃないどころか悪い話そのものだ。

 板倉忠男の近親者には福祉事務所から毎年支援の意思の有無を確認するための文書を送付しているが、殆ど返信は無い。数年前に板倉忠男の姉の子供から唯一返信があったが、当然のように殆ど会ったこともない叔父の面倒を見る意思は無いとの内容だった。

 つまり、板倉忠男にはこの借家を出たら行くアテなどない。

 『社会定年』になり、本人を証明することが出来ない人物に住居を貸してくれるような大家も居る訳がない。

 体のいい追い出しなのだ。

「今なら、坂中町近くの元温泉街だった『特地』に移れます。幾つか廃旅館が残っていますから雨風は凌げますし、温泉だってまだ出てるそうですよ。お金を掛けずに暮らすには十分な環境じゃないですか」

 先輩から教えられた『社会定年』間近の生活保護受給者の追い出しで使われる定番のフレーズをゆっくりと語り掛ける。語りかけることに集中すると、少しづつ目線が目の前の畳へと下がってしまう。

「それに、板倉さんは誕生日が2月24日でラッキーですよ。来月5日の保護費と、15日の年金も受け取ってから『社会定年』を迎えられるんですから。『特地』でも国営の売店はありますし、お金は多少はあった方が何かと、ねえ」


 大西がそう言い終わった時、大西の眼の隅に捉えていた板倉忠男が身動きしたのが見えた。

 板倉の表情を確認しようと顔を上げた大西の目の前には、青いラベルが貼られたガラスのビンがあった。

 大西が思っていた以上の素早い動きで、板倉忠男が灰皿替わりに使っていた空のワンカップを掴んで投げつけたのだ。

 大西は瞬時に理解し避けようとしたが遅く、ガツッと額にワンカップが当たった瞬間目から火花が飛んだ。


 両手で額を覆い、思わずうずくまる大西をよそに、持ちうる全力でワンカップを投げつけた板倉忠男は、ゴホンゴホン、ヒューヒューと咳込みつつ酸素濃縮器にゆっくり這い寄り、ボタンを操作して酸素の供給量を1.5ℓから最大の5ℓまで上げた。









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