夫婦の会話




 渡辺久美子は自宅のガレージに車を停めた。


 夫の渡辺篤の乗っていた車は既に処分してあるため、2台停められるガレージのスペースを久美子の車1台が占有する。

 若い頃から車庫入れが苦手だった久美子だが、おかげで車が多少斜めになっても擦ったりする心配が無いため、悠々とバックで停めることが出来た。


 自宅に入るため玄関の鍵を探そうとポケットを探る久美子の鼻をフッとタバコが燻っている匂いがくすぐる。

 玄関脇の植え込みの影に置かれている、夫が灰皿替わりに使っている蓋つきの缶の蓋が完全には閉まっておらず、そこから匂いが薄っすらと流れてきていたのだ。


 まったく、偶に出るあの人のだらしないところ、どうにかならないかしら。


 少し苦々しく思いながら久美子は缶の中を確認する。

 タバコの火が他の吸い殻に燃え移っている訳では無く、つい先ほどまで吸っていたタバコの吸い殻からの匂いが蓋を閉めていなかったため洩れ出ていただけのようだった。


 案の定『社会定年』になってもタバコは止められないものなのね。


 久美子は少し呆れつつ蓋をきっちりと閉めた。



 久美子が無言でダイニングの扉を開けると、夫の篤はこたつに当たってTVを眺めており、久美子が帰ってきたことに気づき「おかえり」と先に声をかけた。


 だがその後、無言でエコバックから買ってきた食品類を取り出し冷蔵庫にしまう久美子を気にしないかのように、篤も無言でTVを眺め続けている。

 篤は世の夫の例にもれず必要以上にお喋りをするということはなく、ある意味これがいつものペースではあった。

 灰皿替わりの缶の蓋の閉め忘れに少し気分を害していて、篤が何か言うまで黙っていようかと思っていた久美子だったが、あまりにいつも通りの篤に対して、いつも通りにしようと思い直した。

「タバコ吸ってたでしょう、私が帰る直前まで」

「ああ、買い溜めしておいたから」

「灰皿にしてる缶の蓋、少し開いてたわよ」

「……済まない」

「火は消えてたけど、万が一があるんだからちゃんと閉めてよ」

「……気を付けるよ。火事を出す訳にはいかない。これからは特に」

「ずっと止めてって言ってるのに結局ずっと吸い続けてるんだから、今更止めろとは言わないけど、本当に気を付けてね」

「……わかった」


 そしてまた沈黙。


 最も久美子もそれ以上篤の不注意を責める気はなかった。

 注意すれば、きっちりそれを行動に移してくれるのが篤のいいところなのだ。

 偶に、本当にごく偶にうっかりするくらいで。

 そこまで責める訳にもいかない。

 久美子も十分うっかりしていることがあるが、篤は久美子のうっかりを全く気にすることがなかったし、自分がうっかり忘れていたことを代わりに片付けてくれるというような、そんな出来た夫なのだから。


「さっきコンビニに行ってきたんだ」


 篤がポツリと言った。

 少し早いが夕食を用意しようとキッチンに移動しようとしていた久美子だったが、その言葉に足を止めた。


「本当に何も買えなくなるのか、試しにタバコ買おうと思ってね」

「買い溜めしてたのに? ……どうだった?」

「ダメだった。キッチリしてるもんだな」

「そう……」

「店員には迷惑をかけてしまったよ」


 日常で起こった普通の出来事をあっけらかんと話すような篤の声のトーン。

 それが却って篤が『社会定年』を迎えたという事実をじわりと浮き立たせ、久美子を無言にさせた。


「もうマイナカードも私の身分を保証してくれない。戸籍は『社会定年』で除籍扱い。医療保険証も資格喪失で失行。試しに少額を私名義で残しておいた銀行口座も凍結された。しばらくしたら口座ごと没収になる。生きてはいるが、もうこの世に存在しない扱いだ」

「……」

「久美子」

「……」

「世話になる。だけど、久美子にとって……」

 

 途中で篤が言葉を止めた。

 そしてその先の言葉を久美子は聞きたくなかった。篤の言いそうなことは想像がつく。おそらく聞いたら気持ちが揺らいでしまう……

 だから、強引に話題を変えた。


「今日、スーパーでちらし寿司が安かったから買って来たのよ。幾らだったと思う?」

 篤の返事を待たずに久美子はキッチンカウンターの向こうにちらし寿司を取りに行く。


「……3000円くらいか」

 篤も、敢えてその先の言葉は続けようとはせず、久美子の振った話題に付き合う。

「つまんないの、勘がいいのね」

 そう言って久美子は篤にちらし寿司のパック2つと割り箸2膳を手渡す。

「持って行って。食べましょう」

 篤がちらし寿司に貼られた値札を見ると4500円の表示。その上に特売品のシールが貼られている。

「これは何割引きになるんだ?」

「3割引き。だから正解は3150円よ」

「そうか」篤はそう答えながらこたつの上にちらし寿司のパックと割り箸を各々の場所に置いてこたつに当たった。


 後ろから久美子がそっと篤の前にまだ切っていない6号のホールケーキを置く。

 イチゴがデコレーションされたささやかなケーキ。

 真ん中に75という形のロウソクが立っている。

「おい、高かっただろう」

「言いっこなしよ。今日は貴方の75歳の誕生日でもあるんだから。ちらし寿司の後で食べましょう」


 篤の沈んだ心に、妻の久美子の心遣いが沁みた。


 本当に私には勿体ない出来た妻だ。ありがとう。

 だが、全てを失った私は、これから久美子に何をしてやれるのだろう。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る