車での帰路




 渡辺久美子は、銀行へ手続きに行った帰りにスーパーに寄り買い物をして帰ろうと思った。


 行きつけのスーパーに車を向ける。

 道を走る車の台数は、10年前に比べると随分と少なくなった。

 以前は多かった老人が運転する軽トラックや軽自動車が殆ど無くなったためだ。

『社会定年』制度が施行され、75歳の誕生日を迎えた時点で運転免許証は失行する。『社会定年』者は定年を迎える75歳の誕生日前までに所有している自動車を速やかに売却或いは廃棄しなければならないと義務付けられ、制度が徹底されるようになった今、片側一車線の道をのろのろと走る車がなくなったおかげで、随分と快適に運転できるようになった。

 ただ、今度は自分の運転が、周りから以前自分が思っていた年寄りの運転のように思われているのではないか、と久美子は運転していて変に緊張してしまう。

 年と共に反射神経や判断力の衰えははっきり自覚できるほどであり、他のことに気を取られていると、ついうっかり曲がるべき所を通り過ぎてしまうということも結構ある。

 久美子は現在72歳。『社会定年』まではあと3年弱ある。


 だが、久美子の夫の渡辺篤はまさに今日『社会定年』を迎えた。

 役所、銀行などからの『社会定年』の通知は半年前から届いていたし、この制度が施行されてから既に7年経っているので、篤と久美子は篤の『社会定年』に備えて不動産登記の変更や、篤の口座資金の移動、各契約の名義変更などは事前に行った上で今日を迎えていたので当面の生活上大きな問題はない。

 ただ、夫の篤は今後収入が完全に無くなる。

 篤の社会年金は厚生年金、国民年金ともに『社会定年』により資格喪失。これまで任意加入期間も含め47年間きちんと支払い続けてきたが、今後一切支払われることはない。

 元気だった頃に掛けていた個人年金も『社会定年』制度が施行されるのに伴い損保会社や信託会社の契約変更により受け取れなくなった。


 夫婦の生活を支えるものは篤と久美子の蓄えと久美子の年金、それに篤が親から引継いでいた古い家屋を人に貸している、その家賃収入が頼りだ。

 当然家屋の土地建物の登記は久美子名義に変更している。田舎町のため土地、建物の路線価は然程でもないが、それなりの贈与税が掛ったのは計算の内とは言え痛い。


 篤と久美子の一人息子の高志は東京で世帯を持っており、老いつつある両親に仕送りするまでの余裕はない。

 こどもに手厚い政策を掲げる現政府が「こども出生交付金」「こども養育交付金」「こども学習支援金」等こども一人当たりに対してトータルで1000万円を超えようかという手厚い支援をしているが、それでも今後の高等教育などに掛かる費用を考えるととても老親の援助は出来ないと妻が言ってて、と篤の『社会定年』を相談した時に申し訳なさそうに答えた高志の声を久美子は昨日のことのように覚えていた。


 本当に、これからどうなってしまうんだろう。


 夫のことは当然自分が支えるつもりでいる。

 宮内さんのお宅のように、『社会定年』に備えて夫の資産を自分名義に変更した後で全てを売り払い、夫を残して東京の息子の近くのマンションに移るなんてことは、するつもりもない。

 ただ、自分自身もあと3年弱で『社会定年』を迎える。

 夫婦二人とも『社会定年』を迎えた後の生活……これまで見聞いてきた知人らの末路を一瞬思い出しそうになり、必死でそのことを頭から振り払った。


「……いけない」


 久美子は曲がるべきスーパーの入口を通り過ぎていたことに気づいた。

 行きつけのガソリンスタンドの手前まで来てしまっている。

 ガソリンスタンドの価格表示はレギュラー1ℓ485円。

 車のフュエルメーターはまだ3分の2程度の減りだが、また値上がりする前に給油して行こうか? 

 一瞬迷ったが給油は諦め、ガソリンスタンドの敷地内のコンビニ駐車場で車をUターンさせてスーパーに再度向かう。


 年を取れば取るほど、嫌な、出口が無い思考をふとしたきっかけで延々と考えてしまう。

 駄目、運転に集中しなければ。





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