第四十二話「キルベア 熊殺しのミリオンダラー」
イヤホンの中のピエロは意気揚々と語りかけてくる。そのケラケラとした声はまるでゲームはもう終わったかのような高揚感を漂わせている。
「話しかけてもらえてよかったね、ぼんくん。野上ユウナちゃんはそろそろ退場だ。さあさあ、ぼんくん、ガラスの壁が開くよ。三つの武器の前に立ってくれ」
冗談じゃない。武器があろうとなかろうと熊なんか相手にできない。水鉄砲はともかく猟銃や拳銃を取り扱うのにはそれなりに訓練する必要がある。まさか最終ゲームはただ戦うだけなのか?俺は渋々テーブルの前にたった。最後にユウナちゃんの後ろ姿でも拝もう。
ユウナと呼ばれていた女は俺から見て左のコンクリートの壁の前にたった。音もなくスライドした壁の前で振り返ったユウナはTシャツに描かれた忌々しいコインランドリーの店ロゴを触ってから胸ごと上下に振った。軽やかな動きでサービスしてくれた彼女はこれから死ぬかもしれない俺にニコリと微笑んでから奥の空間に消えた。感謝を。そしてさようなら。
「では熊のいるスペースにロベルトを一体投入するよ。熊さんは餌はやっているのだけど不機嫌でさ。ふて寝していると困るんだよ」
熊のいる空間の中で何処かの壁がスライドするのを注意深く伺った俺は肩を振るわせた。ロベルトは天井から鉄棒の体操選手のように着地した。夜勤終わり朝方に路上の塀から猫が飛び降りたように現れたロボットは不幸を呼ぶ黒猫そのものだった。焦って天井を見ると四角い穴が空いていてそして閉じた。ロベルトは表情のない顔で俺を見ている。こっちを見ないでくれ。
「ファイナルゲーム。『キルベア 熊殺しのミリオンダラー』の開幕だ!拍手」
もっと他に良いゲームタイトルはなかったのだろうか。何とかハンターでよくない?
ガラスの向こう側のロベルトだけがグラグラと動きながらカートゥンアニメのような動きでパタパタと手を叩いている。俺は思わずコンクリートの床に唾を吐きそうになった。体が少しだけ震えている。死ぬ前にグラドルの着替えが見れたじゃないか落ち着け。あれ?グラドルの着替えって動画で見れるのか。
「制限時間は二分!三つの銃は全て使用可能!ファイナリストである『斉藤ぼん』が生存した段階でランドリータワーの優勝者とする!」
オッケーそれで?
「このゲーム会場である十三階には身を隠す壁や障害物などは何一つない!その代わりロベルトは君には危害を加えない。銃についてだが銃弾はそれぞれ一回分しか装填されていないからそのつもりで構えろよ。猟銃とウォーターガンには肩掛けのベルトがついている。さあ好きなものを手に取ってくれたまえ。ハンドガンは見窄らしいスウェットパンツの腰ゴムにでも挟んでおけ!」
なるほどね制限時間は二分だから三つの銃が全部使えるんだ。でも二分過ぎたらどうするんだ。ロベルトが熊をしっかりと殺してくれるのか?
俺はトートバッグにスマホを滑り落として床に投げてからまず猟銃を右肩にかけた。ウォーターガンのベルトは首を通して左肩にかけた。そして右手でハンドガンを握って猟銃の銃身を左手で掴んだ。水鉄砲のタンクにも熊よけスプレーのようなものが入っているんだろう?選択するなら全部だ。
「一分を過ぎた段階でゲーム会場のガラスは降りていく。このゲームではクマさんを殺す必要はない。生き残るだけでいい。ただゲーム終了時までになるべくクマさんが君の今いる場所に入ってこないように気をつけることだな」
「アーユーレディ?」
俺はテーブルから離れてガラスの向こう側にいる熊とロベルトからなるべく距離をとった。
「突然英語で喋るな。さっさとゲームを始めろよ!お前のことは絶対に許さないからな!」
「オーケイ!ではガラス戸が開くぞ。三十秒で上昇して一分を過ぎたら一分かけて閉まるからな」
俺は腰を低くしてからイヤホンに手を当てて天井に向かって吠えた。
「ルール説明を最後に付け足すな!クソ野郎!」
「オウライ!グッドラーック。ファイナルゲーム『ベアキル』プレイヤー斉藤ぼん!ゲームスタート!」
ガラス戸はコンビニの自動ドアのより少し遅いくらいのスピードで上昇していく。俺はゲーム会場の隅にいる熊とロベルトを視界に収めてから。様子を伺った。
ガラス戸の向こう側から流れてくる空調の風には生臭い獣の匂いが混じっていた。先ほど体感した野上ユウナのレモンの匂いが一瞬で雨の日の犬小屋の匂いに変化した。
匂いのせいで死ぬ前の記憶が塗り替えられていくことに苛立ちを感じた俺はまずグロッグ銃を両手で構えた。一発外したら捨てればいいじゃないか。猟銃のベルトが腕の下でぶら下がった。俺は肩からずれ落ちたトートバッグのように右腕を手繰り寄せて落としてしまわないようにひっかけた。
前方のロベルトは身の丈の位置までガラスが上昇した段階で手拍子をし始めた。先ほどの間抜けな拍手とは違いその手拍子は金属が弾けるようなド派手な音量だった。
熊は雄叫びも唸り声も上げていないが上半身を起こしてこちらを見ている。まるで長く留守にしていた家族を見た犬のような姿でロベルトを見た熊は「ゴオォ」と大きな鼻息を吐いた。
ロベルトは手拍子をしながら俺がいる洗濯機のあるエリアに堂々と侵入してきた。どうやらロベルトは熊の誘導係のようだ。
「俺に危害は加えないんじゃなかったのか!クソマネキン!」
想像を絶するスピードで走った熊はロベルトに向かって激突した。俺はあえて熊のいた檻とも呼ぶことのできる空間の方向に走っていた。ガラスはもう全開まで上昇し切っている。
「バキン」という音と共に熊はロベルトと銃が置いてあったテーブルを吹き飛ばした。熊の突進に押されて凶器と化したテーブルが突っ込んでくる前に生臭い獣の濃い匂いが充満している空間に逃げていた俺はまずグロッグ銃の撃鉄を引いた。
「確か安全装置とかいうのがあるのだったな」
銃の側面を触っても突起はなかった。目を近づけてみると銃の外装パーツはヤスリのようなもので削られてツルツルとしている。
「すぐに撃てるじゃん。親切にどうもありがとう」
俺は引き金を引いてこの武器に装填された最初で最後の銃弾を熊に向かって打ち込んだ。
濁った水たまりを踏んだような「グチャッ」という音を立てて銃弾は熊に命中した。熊の肩から血が流れている。
だが熊はお構いなしでロベルトに馬乗りになって頭を手で押さえて顎をたくし上げて人工呼吸をするような姿でロベルトの匂いを嗅いでいる。
「なんだ?銃で撃たれた痛みも気にしないでロボットの匂いを嗅いでいるぞ」
「ウゥゥーン」とサイレンの音がした。その音が耳に入ってから数秒は熊の鳴き声かと思ったがそうではなかった。その実はガラスが降下し始める合図だった。
どうする。熊はロベルトのカーボン系の体臭に夢中だ。俺はグロッグ銃をコンクリートに放り投げてから猟銃を手に持った。こちらの銃身を見ても撃鉄であるスライドやパーツ類の突起がない。要するに引き金を引くだけということになる。
ロベルトの腕がちぎれる金属音がした。俺は銃を構えて閉じるガラスの手前まで近づいた。あわよくば突進してきた熊と俺の場所を入れ替えることができれば良いと思っての行動だった。
顔を上げた熊はこの世とは思えない形相で俺を睨みつけていた。黒ずんでシワだらけの顔面についた口から涎を垂れ流して鼻をガフガフと鳴らしている。
「何かの匂いを嗅いでいる?」
俺が口を動かした時には熊が突進してきていた。俺は世にも見苦しいバタついた逃げ腰で後ろに転んだ。「ガシャン」俺が目を瞑って死を覚悟したとき「ガシャン」という音が更に何度か響いた。
怯えて目を閉じていた俺は更に連続して響く音に驚いて目を開いた。転がって逆さになっていたテーブルの足に熊がぶつかっていたようだ。何度もテーブルを引きずっては顔を振り回している。
肩の銃槍には構わないのに顔に痛みは敏感なようだ。鼻の部分を毛むくじゃらの手で何度も擦っている。
あろうことか俺は熊の檻側にいた。熊の方があちら側にいるじゃないか。今しかない猟銃を撃て!俺はあと半分で閉じてしまうガラスの下を通って熊の方に銃を向けた。
これなら頭に当たりそうだ。このゲームに選択は存在しない。熊を狩ればクリアだ。俺は冷静に熊の頭に狙いを定めた。
「なんか臭いな」
俺はふと鼻腔をつくケミカルな匂いに気がついた。自分の体が異様に臭い。獣とは違う危険な薬品の匂いがする。最小限の動作で水鉄砲を見るとタンクが少し割れて液体が漏れている。ドロっとした液体からはミントを何十倍も凝縮したような匂いが漂っている。少しだけ頭に血が昇るような感覚があった。
息を荒げる熊は痛みの苦しみに悶えているのではなく何かを探しているように思えた。俺は熊が追い求めているものを刹那で直感した。
ガラスはあと一メートル五十センチほどの隙間しかない。俺は肩にかけていたベルトを外してウォーターガン(水鉄砲)を熊の檻の方向に放り投げた。熊の檻の中心にカラフルなおもちゃの水鉄砲が回転して転がった。
俺の体についた匂いは強烈だけど、一瞬で撒き散らすことができれば熊はそちらに意識を向けるはずだ。腰を屈めた俺が猟銃を向けたのは水鉄砲の方だった。
引き金を引くと同時に水鉄砲のカラフルなパーツが弾け飛んで緑色の液体が散らばった。水鉄砲には火薬が仕込まれていたようだ。火花が飛んで花火のような光を放った。火薬の煙が緑色の液体を蒸発させている。
「当たった」
アニメでよく見るゴブリンのような「ブフォ」という声をあげて檻の方に顔を向けた熊はガラスと床の僅かな隙間に突進した。隙間をギリギリで通らんとする熊は犬のように「クゥン」と甘えた鳴き声を発している。前足と後ろ足を必死で動かして。焼けた液体の方にまっしぐらだった。
「ごめん。もう少し早く気づけばよかった」
ゴミ収集車がゴミを巻き込むときのようなゴリゴリとした音が数秒続いて。閉じるガラスに挟まれた熊は真っ二つになってしまった。
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