ハニー・ゲーム2

 プロジェクター型カメラは、数歩移動するとしっかりついてくる。手が込んでいた。


 母グマは人形然として動かないホウソーの頭部に爪を立てたり、剥がれた頭皮に口をつけては、一度飲み込んだ髪を吐き出したりしている。


 どうすればいい――。


 金髪の少年は生唾を飲み込むことさえ忘れているのに、口内が干上がるのを感じた。


 かごは部屋の中央より、ややプロジェクターの方向にある。かごを中心にして逃げ回れば、クマは追って来られないのではないか。


 金髪の少年は子グマを刺激しないように、忍び足でかごに近づく。子グマは怖がっているとも、金髪の少年に興味があるともつかない不思議な顔をしている。クマの表情は読みにくい。何しろ、鼻をヒクつかせ明らかに金髪の少年の存在を認識している。


 クマに会ったら死んだふりなんか通用しない。あんなものは最終手段だ。襲われることを覚悟の上で、床に伏せ、急所である首や後頭部を手で守るのだ。そうなったら最後、まず助かることはない。


 ホウソーの骨が砕かれる咀嚼音が聞こえる。怖気おぞけを振るいながら、金髪の少年は昇降機のかごににじり寄る。子グマはかごの横で金髪の少年を凝視している。


 子グマが動く気配はないので、金髪の少年はかごに一歩一歩と歩み寄った。ほかに出口も見当たらない以上は、やるしかない。かごの中のスプレーにクマのマークが描かれているのが見える。あれは、もしやクマ避けスプレーではないか。あれを手にすれば少しはクマを退けることができるのかもしれないと、僅かな希望が差す。


 昇降機のかごは前後左右どこからでも乗車可能だ。何も子グマの目と鼻の先を通る必要はない。金髪の少年はゆっくりと迂回する。子グマは動かない。母グマはホウソーの手足を嚙み切って、口から血の糸を引いていた。


 金髪の少年は子グマを刺激しないように細心の注意を払って、かごの手すりを跨ぐ。天井はかごを吊るすワイヤーの穴を通す穴だけが開いており、今は閉まっている。


 先にスプレー缶を手に取った。やはりクマ避けスプレーだ。本当に役に立つのだろうか。テレビでは自分を大きく見せて決して怖がっている素振りを見せてはいけないとか、そもそも遭遇しないようにクマ避け鈴を身につけろとか――遭遇した後の最適解は報道されない。被害者の多くが、偶然により命からがら助かっているからだろう。


 なんにしろ、悩む暇はない。クマ避けスプレーをつなぎのポケットにしまう。それから、息を殺し、ハチミツの瓶を開く。子グマはこの瞬間も自分を見つめていると意識する。脈動する心音が手に震えを伝える。


 ハチミツに浸されたアクションカメラを取り出す。電源ボタンを押して動作を確認した。カメラはご丁寧に防水ケースが装着されており、動作に問題はない。


 このハチミツは野菜のような青臭さがあった。人間でも強烈に感じるほどの臭いにクマが寄ってきはしないかと、子グマを確認する。


 子グマがかごの小さな柵を子犬のような無邪気さで乗り越えてきた。金髪の少年は、慌ててカメラを向けながら、昇降機のかごから飛び降りる。あとは、このクマたちを撮影するだけだというのに、これでは八分も持つかどうか……。金髪の少年は子グマと対角線の位置関係になるように、小刻みに距離を取る。相手が動けばこちらも一歩動くといった感じに。


 八分何秒撮影すればよかったのか、金髪の少年は度忘れした。カメラは子グマの好奇心を刺激している。柵の周りを回るしかない。それぐらいしかお互いを隔てる障害物はない。カメラ片手に、クマ避けスプレーが一つでは心もとないが、スプレーは最後まで取っておかないといけない。


「クソ、まだ一分だ」


 金髪の少年は悪態をつく。本当に八分何秒撮影すればいいのかと、かごの天井を見上げる。出口がこの上なら、できるだけこのかごから離れたくはなかった。


 ハチミツ頭はどうして、中途半端な時間の撮影を命じてきたのか。


 ハチミツ滴るアクションカメラを子グマの鼻先がかすめる。速い。子グマであってもクマはクマだ。撮影はまだ三分を過ぎたところだ。まだ半分にも満たない。子グマは首を捻るようにして唸った。逃げる餌に苛立っているのは明らかだ。


 金髪の少年はクマ避けスプレーを頭上に掲げて、自分をできるだけ大きく見せる。子グマには急な動きに見えたのか、前に突進してきた。


「待て待て待て!」


 言うことなど聞くはずがない。子グマの熱い息が金髪の少年の前髪に吹きつける。犬の臭いと何日も風呂に入っていない人の体臭と、小便の混じったような悪臭だ。吐き気を催しながら、壁際まで後退する。すると、母グマが子グマの異変を察知して全速力で駆けてきた!


 終わった! そう思った金髪の少年はクマ避けスプレーを遮二しゃに無二むに撒き散らす。それはわずか十秒で空になってしまった。周辺に主成分のトウガラシの臭いが立ち込め、金髪の少年は涙ぐむ。腕を振り過ぎて、自分の目にもスプレーの成分が入ったのだ。


「ごほっ。こんなの!」


 役に立たない。クマ避けスプレーなんて――!


 子グマがアクションカメラを前脚で弾き飛ばした。それを拾おうと金髪の少年は全身を投げ打って腕を伸ばす。その腕を母グマが噛みついた。


 皮膚の裂けるカーテンのような音と、骨の折れる音。涙と血に濡れた少年の絶叫が白い部屋に響き渡る。


 撮影時間八分に達したアクションカメラは、少年の断裂していく腕やえぐられた胸部、はらわたの引きずり出された腹部を撮影し続けていた。

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