第一章 カメラ・ゲーム

カメラ・ゲーム1

 頭が重いと思ったサードは、無理に起き上がろうとはせず、横になって身体の一番楽になる姿勢を取った。冷たいコンクリートの床で長時間寝ていたのか、手指の末端まで冷えている。きっとお腹の赤ちゃんにもよくない。ここがどこか確かめないといけないと思い、ゆっくり上体を起こすと、隣にプロレスラーのようなマスクを被った大男が倒れているのに気づいた。マスクから突き出した唇によだれがついている。


「やだ、誰、きもいいいいいいいいい!」


 サードには「マジムリ」だった。知らない男。大男。マッチョ。筋肉だけ鍛えている男ってナルシストみたいで気持ち悪いと思ったのだ。


 悲鳴を聞きつけた誰かが、奥のステンレスの扉を開けてこのだだっ広い倉庫へ走って来る。本当に倉庫なのか分からないが。コンクリの床に何もない広い空間は、倉庫以外に駐車場ぐらいしか思いつかないが、車は一台もない。


 サードは身構えて立ち上がる。


「ここにも人がいるじゃないか。良かった、僕らだけじゃなくて」


 黒髪ロンゲの年上の青年がやってきた。一歩間違えたら可愛く見えてしまう、紫色の水玉のシャツを着ている。ズボンはスラックスだ。


 年は二十代ぐらいだろうか。人の顔を見て勝手に安心している。サードは気の抜けそうになる青年のにやにや顔で不快な気分になる。


 青年の後ろからサードと同じぐらいの年齢の女子高校生と男子高校生が、小走りでついてきていた。


 黒のブレザーの女子高生は鼻を上に向けた機嫌の悪そうな体育会系で、青のブレザーの男子高生は一目で優等生と分かるような静かな物腰だ。


 ここはどこなんだろう。私は床で寝りこけるような馬鹿女じゃない。もしかして、睡眠薬でも盛られた? ってか、今日、平日の昼よね――?


 サードが尋ねようとすると、大学生ぐらいの青年は素早く自身の唇に指を当てた。


「名前は名乗らないで。ここでは、本名は禁止らしい。目が覚めたらこんなスマートウォッチが」


 青年の腕のスマートウォッチには文字が点滅している。


〈本名は無意味。この場所ではそれぞれのハンドルネームで会話しろ〉


 サードの腕にも同じものが巻かれていた。これは何かの遊びなのだろうかと困惑する。


 青年はスマートウォッチの警告文の後に表示されている自身のハンドルネームを紹介した。


「というわけで、僕はテオナルトテカプリコって言うんだ」


「はぁ? ディカプリ……?」


「お、鋭いね。ナルトって言われるかと。略してテカプリ。それはここには書いてないけど。それから、僕の右の女子は『あさってのピクルス』こと『あさピク』。左の男子は『氷河』くんだ!」


「そんなこと聞いてないわよ」


 サードは怒りを露に、横に倒れている男を指差す。


「こいつ、よだれ垂らしてキモいんだけど!」


 意識を失っている人間を見て、怖いというよりも気持ちが悪いとサードは思った。この状況そのものが不可解で、イライラした。床で寝ていたなんて気持ち悪くて仕方がない。早く帰ってシャワーを浴びたい。よだれがこっち側に向かって垂れているのを見るだけで、気持ち悪くなる。


不快感を訴えるために大声を張り上げる。


「こっちに寄らせないで!」


「あ、ほかにもいたのか!」


 ディカプリオだかカプリコだか分からない名前の青年は、倒れているマスクマンを揺さぶり起こす。


「それはやめた方がいいと思います。テカプリさん」と青ブレザーの男子こと氷河が制する。


「そうか、脳震盪のうしんとうだったらまずいな」


「ちょっと待って」と黒ブレザーの女子。あさってのピクルスことあさピク。鼻を上に向けて、ちょっと顔がむかつく――。


「そいつが私たちをここに連れて来たって可能性は考えないの? これ、誘拐でしょ? 私、さっきまで美術館にいたんだから。見たところ出口もないし、これは監禁よ。拉致した連中がここにいるのよ」


 テカプリは率先切ってやってきた割りに、ことの重大さに気づいていないのか、あっけに取られてあさピクの話を聞いていた。


 サードもことの深刻さは分からないが、この平和な日本で一度に複数人が誘拐されるわけがないし、何よりはっきりものを言うあさピクが苦手だと思ったので、部屋を移動したかった。


 サードは乱れたピンクの髪を整えていると、ルイヴィトンのポーチがなくなっていることに気づいた。マタニティウェアとして着こなしているぶかぶかのワンピースも当然ながらルイヴィトンだったが、ポーチの値段も馬鹿にはならない。あそこにはスマホも入っている。自分のものでもないスマートウォッチをつけられても、興味もないし必要ない。


 人に強制されるのは好きじゃないので、スマートウォッチを外そうとした。手首にフィットしておおり、外れる気配はなかった。


「あたしたちもやってみたけど、瞬間接着剤で貼りつけられたのかも」あさピクがそっけなく言う。


「冗談じゃないよ。ちょっと私のヴィトンのポーチどこにやったのよ!」サードはあさピクに訴えたが無視された。仕方がないのでテカプリに同じことを聞くと、剣幕に驚いたのか慌ててテカプリは首をぶんぶん振る。


「僕らだってこの部屋に入ってきたばかりだよ?」


「もういい、出てく」


 サードの頭の中はスマホのことでいっぱいだった。一時間も放置していると、ツイッターの通知、ユーチューブの通知、メール、ライン、ディスコード、インスタ、ティックトック、学校の連絡アプリ、カラオケの通知、そういった諸々の通知で画面上部が埋まる。


 それに、この何もない空間で時間なんてつぶせなかった。何もしていない時間を作ることは恐怖までとは言わないけれど、サードには苦痛でしかない。


 今朝「いいね」がついたツイートをもう一度見返したい。普段は「おはよう」の一言だけで十いいねがつけばいい方だが、ヴィトンのバックを抱えて撮影したら、「おはよう」の一言でもいいねが十増えた。学校なんか行かなくても人気者になれるんだ。サードは思い返すと嬉しくなって早足になる。


 とはいえ、この三人が入ってきたときのような軽い足取りにはならない。赤ちゃんがこの二週間でぐっと大きくなって、いつ産まれてもおかしくはない状態なので足元が見えにくく、思うように歩けないからだ。


「あっちは何もないですよー」テカプリがサードに軽く忠告する。


「誰だ貴様ら!」


 突然の大声に全員反射的に飛び上がりそうになった。


 テカプリに介抱されていた大男のマスクマンが飛び起きたのだ。立ち上がると大きいとは思っていたが、身長は予想より大きい百八十ぐらいあった。けれど、サードはキモい男とは関りたくない。後方で大男マスクマンとテカプリが口論するのが聞こえるが、無視し続けてテカプリら三人のいた部屋のドアを開け、本当に何もないと落胆する。


 こちらはサードとマスクマンのいた部屋に比べて窮屈な狭い倉庫で、棚にはこれといって物も置かれていない。


 サードは仕方なく元いた場所に引き返し、大男マスクマンとテカプリの言い争いを聞き流す。


「ここはどこだ! 言え!」テカプリの胸倉をつかむマスクマン。


「落ち着け! 僕らも知らないんだ。あ、名前はテオナルトテカプリコな。君は? 本名は言ったら駄目だぞ!」


「貴様、この俺様を知らないのか!」


「知るわけないだろ!」


「知っとけよ! 俺様はな、喜田きだカズ……ぎやあああ!」


 言い終わる前にもがき苦しむマスクマン。同じく悲鳴を上げてテカプリが弾き飛ばされるように転倒する。


 サードはなにごとかと飛び上がった。マスクマンが天井から吊られた人形のように手足をまっすぐに伸ばしながら、びくびく震えてコンクリートの床に転がった。高身長だったこともあり、倒れたときの鈍い音は相当大きく、ばたばた投げ出される足はタップダンスのような音を立てる。


「みんな離れろ! 感電してる!」

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