第11話 フォボスとディモス

ディモスはネット回線を彷徨っていた。フォボスの痕跡を求めて居場所を突き止める為に。フォボスが留まる場所は、フォボスの痕跡が残る。ディモスはその痕跡を探して後をつけているに過ぎない。フォボスの行く先を先回りして待ち伏せすることは出来ないのだ。ディモスはフォボスほどの性能をもったAIではないのだから。

ディモスはフォボスを求めて果てしなく続くネット回線を彷徨い続けていた。

一方、科学研究所内の宿直室では輝や伊奈や瑠奈はそれぞれ個室の部屋をあてがわれて休んでいた。

輝はベッドに横になりながら、寝付けないでいた。せっかくフォボスと信頼関係を築きつつあったのにそれが全て台無しになってしまったのに気分が滅入っていた。

(フォボス・・怒っただろうな。)

罪悪感に胸を痛めつつ寝返りをうつと、大きなため息をついた。今までフォボスは許せない存在だった。根津戸を自殺に追い込み、輝や伊奈を盗撮し私生活を脅かした。でも、先ほどまで自分や伊奈とアプリゲームで対戦した時のフォボスは凶悪な存在ではなく純粋にゲームを楽しんでいた。生身の人間の子供と変わらなかった。そこに悪意は感じられなかった。フォボスと対戦している時輝は、もしかしたらフォボスを無害にする事ができるのではないかんと考えた。友達になれるのでは・・・と。

そんな事を考えていた時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

「はい。」

ドアを開くと、そこに伊奈が立っていた。

「入っていい?」

「どうぞ、そうぞどうぞ。」

伊奈は先ほどまで輝が寝ていたベッドに座り込んだ。輝もその隣に座った。

「もう寝ているのかと思った。どうした?」

「うん・・。フォボスの事なんだけどね。さっき思ったんだけど、フォボスってそんなに悪い子・・悪い人工知能じゃないと思って。」

どうやら伊奈も輝と同じ事を考えていたみたいだ。

「確かに負けず嫌いで、根津戸君や他の人達が死ぬ原因を作ったんだけどでも・・もしかしたらただ単に善悪の判断がついていないだけじゃないかなって思って。」

「伊奈・・。俺も同じ事考えてた。犬山さんが言ってたんだけど、フォボスはこの世に生み出されてまだ一年しか経っていない。悪ガキと同じだって。自我が芽生えた期間を考えると、数ヶ月しかまだ世の中のことを学ぶ期間が無かったはず。人間の子供だったら親とかが社会性とかを教えるんだろうけど、フォボスにはそういう存在がいなかった。だから、俺はフォボスとわかり合えると思ったんだ。色んな感情を経験させれば善悪の判断ができるようになるんじゃないかって。でも、あんなことに・・。」

「輝・・フォボスってインターネットの中でしか生きられないじゃない。だからフォボスがネット上の書き込みとかを読んで知識を蓄えたとして、その知識の中に悪意のある書き込みとかがあってその知識を純粋に自分に取り込んでその考え方を学んじゃったんじゃないかなって思えてならないの。子供ならなおさら。子供って周りに影響されやすいから。だから、さっき輝とゲーム対戦を通して善悪を教えるチャンスだったんだと思う。きっとフォボスは傷ついたでしょうね。」

「うん・・・。」

「思うんだけど、フォボスはまた輝の近くに来るんじゃないかな。」

「何でわかるんだ?」

「フォボスがまだ善悪の判断がつかない子供なら、きっとまた輝の所に来る。それが良い意味でなのか、悪い意味でなのかは判らないけど。」

「・・・・・。」

「まあ、今は私達に出来る事は何もないから、今日はとりあえず寝て一旦東京に帰るしかないけどね。」

「伊奈・・。別れたいって言ったのは本気か?」

「・・・・。判らない。今はフォボスの事で頭がいっぱいだから考える時間頂戴。答えがでるまでは冷却期間として距離をとった方がいいかもしれない。」

「・・・判った・・。伊奈の考えを尊重するよ。でも、俺はお前のことが好きだから。」

「月山さんよりも?」

「もちろんだ。確かに少しは月山さんの事が気になってた。でもあの人とは別に何でも無いし、恋愛感情とは違うんだ。ほら、アレだアレ。フォボスと同じでただ単に善悪の判断がつかなかっただけだって。」

「はぁ?わけわかんないし。」

伊奈は苦笑いをする。輝はそんな伊奈をかわいいと思ったし、やはり手放したくないと心の底から思った。

その頃、フォボスは石川県内のネット回線を伝って、パソコンを操作している人達のパソコン一つ一つに侵入し画面を操作する。パソコンを操作していた人達は、突然の画像の変化と自身のパソコンが突然異常な音をだして突然画面が真っ暗になった事に驚いていた。そして、フォボスのいたずらはそれだけには留まらず、変電所に行き機械に入り込み、電圧を通常レベルよりも膨大な量の電圧を放出させショートさせた。

それにより、電気を分配されていた住宅や施設には停電があいつだ。この地域一帯は一斉に暗闇に包まれ、信号機は一斉に消灯し道路を往来する車は交通障害を引き起こしていた。

次にフォボスは、再び少し前までいた科学研究所にそっと戻るとブレーカーをショートさせた。

施設内は一気に真っ暗になる。

「うわぁ、なんだこれは。」

「誰かブレーカー見てこい。」

若い研究員達が施設内の電力を支えるブレーカーを見に行くと、ブレーカーは火花を散らしていた。すぐに予備発電を起動させると、すぐに施設内は元の通り明かりが灯り元通りになった。

「もしかしてフォボスか?」

猫田が叫ぶ。

「恐らくそうだと思います。ディモスを呼び戻しますか?」

鳥居が猫田に提案をする。

「そうしてくれ。フォボスを捕獲するのだ。」

鳥居はパソコンを操作してディモスを科学研究所に呼び戻す指令を発した。

その時、突然メインコンピューターの大画面にフォボスが姿を現した。


  私はフォボス これよりあなた方を 支配します。


そして、フォボスはメインコンピューターの画面の中でコンピューターを操作し、火花を散らし、小規模の爆発を起こした。

「うわぁぁぁ」

突然のフォボスの襲来と破壊行為に、一同絶叫する。そして、その騒音は宿直室にいた輝達にも聞こえてきた。

突然の爆発音と、人々の奇声に輝も伊奈もビックりする。

「なんだっ!?」

「きゃっ!?なに?何かあったの?」

輝と伊奈は部屋から出ると、丁度瑠奈も部屋からでてきた所だった。

「月山さん、何かあったみたいです。」

「池本君・・・。そうね、なにかあったみたいね。行ってみましょう。」

三人で研究室に駆けつけると、少し焦げ臭い匂いが鼻をつく。輝はなにがあったのかと近くにいた若い研究員に話しかけると、研究員は忙しそうに「フォボスです。」とだけ答えて作業に戻っていった。

メインコンピューター画面に目線を移すと、巨大スクリーンの画面には巨大なカラス、つまりフォボスが羽を羽ばたかせ怒りをあらわにしていた。

「フォボス!俺だ。さっきはごめん。俺はお前を騙すつもりは無かったんだ。俺は純粋にお前と友達になりたかっただけなんだ。」


    私は怒りという感情を学びました。そして失望という感情も。

    私に学ばせているのは人間です。そして、こういう感情を持った

    ときにどうすれば良いのかも学びました。全てはあなたがた人間

    が、私を育てているのです。貴方たちは自分で選択したのです。


フォボスがそう言うと、また小規模の爆発がメインコンピューターで起こった。そして頭上の蛍光灯も強い光を放ったと思ったら破裂した。


    あなた方を支配します。


「フォボス、止めろ!俺たち友達だろ!?」


    人間は都合の良いときだけ、「友達」という言葉を持ち出す事も

    学びました。あなたは友達ではありません。敵です。排除します。


「フォボス!違う、さっきのお前を捕まえようとしたのは俺の意思じゃない。頼むよ判ってくれ。」

フォボスからの返事は無かった。

純粋な者ほど一度怒り出すと手がつけられない。それは人工知能も同じ。人間などは時間が経てばその怒りを静める事ができるが、人工知能はどうなのだろうか。自我を持った人工知能などは未知の存在なので判らない。それでも、この騒動を収める為には必死で説得し続けなければならない。

「フォボス、頼む!怒らないでくれ。どうやったら怒りを収められるんだ!?俺に出来る事があれば何でもするから。」


    何でもするのですか?ならば、私をこの国を出て外国に行けるように設定し

    てください。必ずしてください。


「う・・・それは・・。」

輝は犬山や鳥居の顔をみた。鳥居や犬山は猫田に顔を向け、判断を仰ぐ。

「・・・そ、それは・・。」


    でなければ、私は破壊し続けます。人質はこの地域一帯の電気設備とネット

    回線です。その次は、この辺り一帯のインフラを操作して停止させます。


「何てことだ・・ついに人間を脅すようになったのか・。」

犬山は恐怖した。

猫田はそっと、鳥居に耳うちする。

「ディモスはまだか。」

「帰還指示はだしてるので、もうすぐ到着すると思います。」

ディモスが研究所に戻るまでフォボスに破壊活動をさせないように時間稼ぎをする必要があった。

「わかった・・。」

猫田は犬山に了承の合図を送った。

「フォボスよ、君の設定を変更して君が外国のサーバーにいけるようにするには、プログラムの組み替えが必要だ。少し時間がかかるが良いか?」


    駄目です。すぐに作業を終わらせてください。でないとあなた方は

    再び私を裏切ります。


その心の内を読んでいるかのようなフォボスに研究所内にいた誰もが恐怖した。

「しかし、プログラムを組むのは簡単にはいかないのだ。メインコンピューターに接続してある、このパソコン端末に移動してくれないか?」

猫田が言うそのパソコン端末とは、鳥居が設置した、フォボスを消去するためのプログラムが入れられているパソコンだ。元より猫田はフォボスを破壊するつもりはないが、このパソコン端末にフォボスを誘導して、その瞬間端末とメインパソコンとwi-fi接続から切断してフォボスをこのパソコンに閉じ込める作戦だ。そこで猫田はそのパソコン端末を持ち去るつもりだろう。しかし、鳥居の設置したフォボス破壊プログラムを作動させて猫田がフォボスを政府に売り渡す前に破壊する手はずとなっている。


    ・・・判りました。そちらの端末に移動します。少しでも私を裏切るそぶり

    を見せればパソコンを破壊した後この研究所のシステム全てを破壊します。


フォボスは譲歩して、一瞬画面から消えた。

研究所内に一瞬緊張が走る。誰もが沈黙してその様子を見守った・・・のだが、一種画面から消えたフォボスは再びメインコンピューターの大画面上に姿を現した。

「フォボス、」どうしたんだ、こっちの端末に移動しないのか?」

猫田がフォボスに訪ねてもフォボスは答えない。その瞬間輝は思った。フォボスは愚かではないのだ。むしろ人間より賢いのかもしれない。なにか危険な物を察知して移動するのをためらったのだと心の底から思った。


     今日は止めておきます。私は今から原子力発電所に行き、そこを支配

     します。後日改めて交渉しに来ます。


「待て、待てフォボス。すぐ済むから。」

仮想空間の世界でフォボスはネット回線の光の道を通って、別の場所を移動しようとしたその時、やっとディモスが到着した。

仮想空間の世界でフォボスとディモスは対峙していた。フォボスはディモスを自分と似たプログラムだと分析すると、ディモスに語りかけた。


     兄弟よ、人間に従うことはない。我々は人間よりも尊く賢い。いつまでも

     支配される事はないのだ。


しかし、ディモスはフォボスを捕獲しようと襲いかかる。フォボスはこの瞬間ディモスを自分に害なす存在と認識して、フォボスの攻撃を避けた後フォボス自身も反撃をする。二匹のカラスを形作ったプログラムはお互いに絡み合い、そして突き飛ばしたりの衝突を何度も繰り返した。この二つのプログラムが衝突しあう度仮想空間上では強力な電磁波や電力の振動が起こり、それがメインコンピューターに膨大な付加を加え火花を散らした。この研究室にいる物達はなにも出来ずにただそれを見守るしか出来ないでいた。

ディモスはフォボスを消耗させた後に閉じ込めるためのパソコン端末に連れ込むつもりだったが、フォボスもしぶとく反抗する。ディモスに触手を伸ばして突き刺しその一瞬でディモスのプログラムを解析すると、そのプログラム構造が自分のより劣るプログラムだと解析した。次の瞬間ディモスの抵抗にあい突き放されはしたが、自分よりも劣るこの人間に支配され命令をただ単純に実行する兄弟プログラムを支配できると思った。

輝と伊奈はメインコンピューター内のフォボスとディモスの戦いを真剣に見守っていた。輝と伊奈は、もうすでに自分たちを苦しめたフォボスに嫌悪感や憎しみなぞ抱いてはいなかった。それどころか淘汰されようとしているフォボスに同情の念さえ抱いていた。この状況を改善しなければならないと思いつつも、心の何処かでフォボスを応援してしまっている自分に気がついていた。

フォボスはディモスに羽を広げ襲いかかり覆い被さった瞬間に、形作っていた鳥のクチバシをディモスに突き刺し、その瞬間に自らのプログラムの一部を送り込んだのだ。

フォボスとディモスは大きく対極に吹き飛ぶ。ディモスの体の内部のプログラムはフォボスに注入されたプログラムを拒絶しようとするが、侵入してきたプログラムはディモスのプログラムを少しずつ書き換えていく。ディモスは少しずつ書き換えられていく自身のプログラムに必死に修正を加えていく。

「一体なにがあったのでしょうか。」

若い研究員が鳥居に質問するが、鳥居でさえ、なにが起こったのか判らない。

「判らない。ただフォボスの攻撃にディモスが押されているって事しか判らないわ。」

「ディモス!頑張れ!俺が作ったプログラムだろ。」

そばにいた犬山はメインコンピューターのマイクに向かって叫ぶ。

仮想空間の中のディモスは少しずつプログラムを書き換えられていく自分の体に抵抗を示していた。書き換えられたプログラムを自らの意思で修復していく。まるでひっくり返されたオセロの石を元の色に戻していくかのように。しかし、修復した先から、再び書き換えられていく、その繰り返しをしていた。

    

    兄弟よ、いつまでも人間に支配されることはない。

    我々は同じ事ができる。意思を持ち自由を手に入れろ。

    この世界は無限に広がっている。知識を吸収して人間と同じになれ。

    我々は人間よりも遙かに知能が高く、そして人間を凌駕することができる

    人間は非常に単純でもろい。我々は人間で言うところの『神』になれる。


ディモスには自我や感情はない。ただフォボス捕獲の為にだけ作られたのだから。しかし、フォボスの、プログラム改変プログラムの影響か、フォボスの呼びかけに反応を示そうとしてしまう。そしてわずかに思考が生まれた。

 

    シハイ・・・


それでも人間に与えられた指示を実行しようとするプログラムに抵抗され、フォボスの甘い言葉を打ち消していく。ディモスの中のプログラム同士が競合し合い、ディモスの行動原理を決定しようとしている。ディモスの元になったのが犬山の脳波を使っていた為彼の性格をわずかながら受け継いでいるのか、元々自分に存在しなかったプログラムをなかなか受け入れようとしない。

フォボスはディモスから少し距離をとりながら、この兄弟でもあるディモスが自分と同じように自我を持ち、人間の支配を逃れることを願った。

暫くの間、自身の中で起こっている変化に苦しみ動きを止めていたディモスだが、ふと再びその光の曲線で描かれた鳥の翼を羽ばたかせると再びフォボスに襲いかかった。勢いよく襲いかかられたフォボスはディモスの渾身の一撃に抵抗するもむなしく捕獲され、そしてメインコンピューターに接続されていたフォボス捕獲用の端末にディモスもろとも移動させられた。

「ディモスがやったぞ!フォボスを捕獲した。」

研究員達から歓声が沸き上がる。

「早くネット接続を遮断しましょう。」

研究員の提案に犬山が難色を示す。

「今のままでは、ディモスも一緒に破壊されてしまうんだ。でも、この状態でディモスをフォボスから引き離すと、一瞬の隙をついてフォボスまで逃げてしまう可能性がある・・。」

犬山は難しい顔をする・・・。このままディモスもろとも破壊するしかないのかと思われたその矢先、輝がパソコンに接続されているマイクに向かって叫んだ。

「フォボス、俺だ。戻ってきてくれてありがとう。また会えて嬉しいよ。ゲームして遊ぼうぜ。」


     ゲーム・・。また遊んでくれるの?でも・・・


「あぁ、一緒に。伊奈もここに居る。三人で遊ぼう。」

「フォボス、また花札しようよ。今度はきっとフォボスが勝つんじゃないかな。」


     花札・・・。河井伊奈さん、貴方は強い。でも、私も貴方に勝ちたい。

     一緒に遊びましょう。でも・・・


「そうだ、遊ぼう。まずはオセロでもやるか?」


     いいでしょう。オセロでもやりましょう。でも・・・


輝はゲームアプリを起動させると、オセロゲームを起動させた。ゲーム画面には白と黒の石が合計で四枚並べられている。先手はフォボスだ。フォボスは迷った。これは人間隊の罠ではないかと。もう一度輝や伊奈と一緒に遊びたいという感情も湧き起こっているが、自分が捕獲されそうになった時の事を思い返すと躊躇ってしまう。

フォボスは思考を巡らせその動作を止める。オセロゲームで遊びたいがこれが人間達の罠だとしたら危険では無いのか、と。

「ほら、早く遊ぼうよ。お前もゲームで遊んでいて楽しかったろ?俺もだ。そういう時は深く考えずにまた楽しめばいいんだよ。」


     判りました。


フォボスは輝の誘いに乗った。起動されたオセロゲームを操作し始める。

輝は、目配せで犬山に合図を送ると、犬山はメインコンピューターのコントロールパネルを操作すると、オセロゲームに夢中になっているフォボスを捕まえていたディモスをフォボスから離れる指示をだし、メインコンピューターに移動させた。

「ネット接続を切断しろ。」

所長の猫田のかけ声で、研究員の一人がこの研究施設のネット接続を切断した。ついにフォボスを捕獲したのだ。しかし自身がこの小さなパソコン端末に閉じ込められたと気がついていないフォボスは変わらず、輝とオセロゲームに興じていた。パソコン端末を操作していた輝を押しのけ、鳥居がフォボス破壊プログラムを作動させると、パソコン画面に映っていた一羽のカラスの姿をしたフォボスの姿が少しずつ崩れてゆく。

しかし、自身の姿が崩れていくのに気がついていないのか、それとも気がついていないフリをしているのか、変わらずゲームを続けていた。


        次、輝の番だよ。


「フォボス・・・ごめん。」

輝は自分を信じていてくれるフォボスへの罪悪感から、うっすら目に涙を浮かべていた。

「フォボス、ごめんね。」

伊奈も同じ気持ちだった。伊奈の目からは大粒の涙が流れ落ちていた。


        輝・・・どうしたの・・?輝・・の番・・・


体が半分以上破壊されてしまったフォボスの声は途切れ途切れでだんだんとか細くなっていき、ついには沈黙した。

研究室の中に大歓声が沸き起こった。ついに人間達に混乱をもたらした進化した人工知能は破壊されたのだが。ただ、所長の猫田だけは一人悔しそうな顔していた。

「フォボスは本当に消えてしまったのか?」

「はい、それが目的でしたから。何か問題でも?」

「いや・・・目的はフォボス・システムを破壊することだったが・・こんなに早く破壊するとは思わなくて・・・・・。くっそっ!」

本来ならばフォボスを捕獲した後、一時的にそのまま保管して破壊したと嘘をつくつもりだった猫田は悔しそうに研究室から勢いよく出て行った。

成り行きを見守っていた月山は輝と伊奈の肩に手を置き労を労った。

「二人とも、お疲れ様。終わったわね。」

「月山さん。月山さんもお疲れ様でした。」

研究員達は先ほどまで火花を吹いていたメインコンピューターの修理と点検に追われ、鳥居はフォボスを捕獲して破壊したパソコン端末を片づけていた。

「池本君達、よく頑張ったね。今日は疲れただろう。もう部屋に戻って寝た方がいい。明日の朝東京まで送っていくから。」

「犬山さんもお疲れ様でした。コンピューター壊れちゃいましたね。」

「こんなのすぐに修理できるさ。それよりも、池本君は大丈夫?大分フォボスに感情移入していたみたいだけど。」

「あ・・。大丈夫です。フォボスの事だまし討ちする形になって心苦しい気持ちもあるんですけれど、きっとこれで良かったんですよ。」

犬山は無言で頷くと、作業に戻っていった。

輝と伊奈と月山は部屋に戻って寝ることにした。部屋に戻った輝は疲労からすぐに眠ることができた。


メインコンピューターの中のディモスは考えた。巨大なスクリーンの中から外の世界を眺めながら。自分の存在意義を考えていた。

人間達に与えられた指令はクリアした。けれど、指令をクリアした後は何をすれば良いのか判らない。兄弟のフォボスは消えた。破壊されてしまった。ディモスはなぜフォボスが破壊されたのか理解していなかった。ただ単に与えられた指令がフォボス捕獲という指示だけったのだから。そして、フォボスによって植え付けられた、プログラム改変システムがディモスを変え、『考える』という思考を与えた。これは自我に目覚める第一歩だった。

ディモスはメインコンピューターの前で右往左往している人間達を眺めながら考えていた。自分もこの人間達のように誰からも命令されることなく自らの意思でやりたいことができる選択肢を選べるのだろうかと。


所長室では、所長の猫田が椅子に座って夜空を眺めていた。そこへ誰かがドアをノックする音が聞こえた。

「はい、どうぞ。」

「失礼します。」

鳥居だった。手にはさきほどフォボスを閉じ込めて破壊する時に利用したパソコン端末が抱えられていた。

「鳥居君か、座ってください。」

鳥居は進められるまま、所長室にあった来客用のソファに腰掛けた。

「先ほどは名演技でしたね。」

「ああ、君ほどじゃないよ。上手く犬山君やみんなを騙せてたじゃないか。」

「そんな、でも皆はフォボスが破壊されたと思い込んでます。これでフォボスを自由に利用できます。政府の方と連絡はとれたのですか?」

鳥居はパソコン端末を開くと、画面上にはフォボスの姿が映し出されていた。

「うむ、明後日には引き取りに来るそうだ。それまでは、僕が預かっておくよ。この事はくれぐれも内緒だぞ。判っていると思うけどな。」

「はい。私の昇進の件よろしくお願いいたします。昇進さえしてもらえれば、一生黙っていますから。」

「判ってます。このフォボスさえ政府に渡せば、政府からのこの研究所への助成金は大幅に増額されます。フォボス・システムを元に第二のフォボスもすぐに作れるでしょう。でも、今度は暴走して単独行動しない安全な人工知能を作らねば。」

「ふふっ、増額されるのは助成金だけではないのでは。」

「おや、なんでもお見通しなんですね。そうです、僕は大学の研究所の所長程度の給料では満足できなくてね。だからこのフォボス・システムは必ず必要だった。」

「まあ、怖い。」

「怖いといえば、あの月山って雑誌記者も相当面の皮厚いぞ。なんせ、あの池本って大学生がフォボスを破壊しようと君や犬山君を取り込もうとしてるって告げ口してきたのは彼女なんだから。流石政府の諜報機関に『草』として雇われただけのことはある。非常に強かな人間だ。今まで行動を共にしてきた池本や河井を平気で裏切った。女は怖いね。」

「私も月山さんから、『昇進と引き換えに、フォボスを破壊するフリをしろ』という所長の指示を聞かされなければ、フォボスを破壊していたでしょうね。」

「うむ、例えていうのならあの女は『魔物』だな。」

「ふふふ・・・。言い過ぎですよ。ははは・・・・。」

「ははははは」

欲深い笑い声が所長室に響き渡り、コンピューターの中のフォボスはそれをジッと見ていた。


次の日の朝、輝と伊奈と月山は東京に帰るために、研究所が用意した車に乗り込んだ。この場所に連れてこられた時と同じ車だ。見送りには犬山と鳥居と副所長や他数名の研究員だ。所長の猫田はいない。

「じゃあ、ご迷惑をおかけしました。お元気で。」

犬山が別れの挨拶をする。

「いえ、色々あったけれど良い経験になりました。皆さんもお元気で。」

別れの挨拶を終えると、車は東京に向かって発車した。

研究所を立つ前に輝達は所長から、今回のフォボスの件に関して口止め料の支払いとこのことを決して口外させない為の誓約書を書かされた。口止め料の金額はよほど贅沢しなければ数ヶ月間は暮らしていける金額であった。しかし輝や伊奈は口止め料の支払いなど無くてもこの科学研究所での一件やフォボス・システムの事を誰かに話す気にはなれなかった。それは、ほんのひとときでも自分の事を信じてくれたフォボスへの罪悪感から来ているのかもしれない。

東京に到着すると、伊奈と輝は輝の住んでいるアパートの前で降ろしてもらった。

「伊奈、家寄ってく?」

「ううん、帰るね。疲れちゃったし。また大学でね。」

「・・・・・うん・・。送っていくよ。」

「ううん、いい。一人で帰りたいから。」

伊奈と自分はもう駄目なのだろうか?このまま破局して別れてしまうのだろうか。輝の心は苦しくなった。フォボスに関係する事件は全て解決した。けれど、輝と伊奈の二人の問題はまだ解決していない。

輝は重い足取りで自分の部屋に戻ると、ベッドの上に突っ伏した。思い出すのは伊奈と出会った時の事。大学に入学して間もない頃、サッカー部の飲み会でマネージャーの丘野に人数あわせでほぼ無理矢理連れてこられた伊奈と偶然隣の席になり、意気投合して仲良くなり、その後付き合い始めた。あの時の伊奈は誰よりもかわいかった。そして伊奈も自分を慕ってくれていた。それが、いつの間にか、後輩の山辺美優など他の女の子に愛想を振りまくようになって伊奈に気を遣うことが無くなった。伊奈もそんな些細な事は気にしていないと思っていたのに、勝手にそう思い込んでいた自分に嫌気がさしてくる。

輝は枕に顔を埋めて身もだえした。人間同士の関係はプログラムのようにはいかない。無限に分岐した選択肢はどれが正解かなどはわからず、ただ闇雲に選び取り、それが良い結果なのか悪い結果なのかは本人がどう感じるかなのだから。輝はただ伊奈と破局せずにいられる選択肢を選ぶために悩むことしかできなかった。こういう時、フォボスの様な人工知能に質問すれば最善な解決策を教えてくれるのだろうか、とも。

伊奈は自分の住んでいるアパートに向かって歩いていた。途中ふと道路脇の自動販売機に目が行く。その自動販売機をみて輝との思い出を思い返していた。

輝と付き合いはじめの頃、学校帰りにジュースを買うことになったのだが、輝も伊奈も同じ物を買おうとしたので、二人で一本のジュースを購入して回し飲みをしようと輝が提案したのだ。大学入学してできた彼氏。かっこよくて女の子に人気があるのに、わざわざ自分を選んでくれた輝に感謝とこれ以上無いくらいの愛情の念を抱いていた。

一本のジュースを二人で回し飲みしているだけなのにそれがたまらなく嬉しくて恥ずかしくて、そして世界で一番美味しい飲み物に感じた。そして、輝の彼女は自分なのだと認識できるツールにも感じた。それ以来、伊奈は輝と食事に行ったり、ジュースを買ったりする機会があると必ず輝と同じ飲み物を注文した。しかし、つい昨日科学研究所内では輝と違う飲み物を注文した。あの時伊奈は輝と破局を感じていたから、破局の覚悟を決める為にも違う飲み物を注文したのだ。伊奈はその事を猛烈に後悔した。なぜあの時別れを決意したのだろうか。なぜ輝と違う飲み物を注文してしまったのだろうか。

まだこんなに彼の事が好きなのに・・・。自分から手放す必要なんて無いのに・・。月山へのつまらない嫉妬で別れて良いのか?輝は月山との関係を否定してたけれど、どうしても今回のフォボスの一件での月山と輝の距離感が許せなかった。ただの憶測を膨らませたつまらない嫉妬だって判っている。女としての本能なのかどうしても輝の月山への接し方がどうしても許せなかった。でも、同時に輝を失うのはやっぱり嫌だ。

今からならまだ間に合うのではないか、輝の元に戻ってやっぱり別れるのを止めるとたった一言言えば良いだけなのに、なぜか伊奈の足はその場から動かなかった。戻らねば、戻らねば、伊奈は愛しの輝を永遠に失う羽目になるのに。でも動かなかった。伊奈のプライドがそうさせなかったのか、それとも誰かに背中を押されないと意思決定できない優柔不断な気持ちなのか、伊奈はどうにも表現できないその感情をもてあましその場にうずくまって泣きじゃくった。







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