第2話

 足をふらつかせながらも、家の近くまで帰ってきていた僕は、そのまま遠回りをして帰宅した。

 自宅のある集落は思ったよりも雨が酷くない。いや、恐らく通り雨だったのだろう。もしくは、あの男性が……。


 家に入る直前、空を見上げると少し晴れ間も覗いていた。

 この気候ならカナエさんも無事だろう。


 傘をささずひた走った僕はずぶ濡れになりながら、泥の着いたズボンのまま家に上がる。

 ペタペタとくつ下を脱いだ足で廊下を渡り、脱衣場へ向かう。


 学ランを脱いで私服に着替えた僕は、二階に上がって自分の部屋に入った。


 先ほど会った男性は、ピィちゃんの事が見えていた……。そんな人に会ったのは生まれてから十六年のあいだ、一度もなかった。


 いつの間にか横をパタパタと飛んでいるピィちゃんを、ちょんちょんとつっつき、話しかける。


「お前は一体、何者なんだよー?」


 しかし、ピィちゃんはくすぐったそうにするだけで何も話さない。

 自室のベッドに寝転がり、唸りながら考える。あの『見える』男性の変身……。今、自分の知らない事を知るチャンスなのではないだろうか。

 そんなことを思うが、だんだんと頭が回らなくなり、ついには考えることをやめていた。




「はっ!」

 と、一気に明るくなった目の前に、「夢か……」とポツリとこぼした。いつの間にか寝てしまっていた僕は、現実と夢の区別が出来ていなかった。

 薄暗い部屋に寝転んでいた僕は、今が朝なのか夜なのかすら寝ぼけていて分からない。


 目をこすりながら、カーテンを開ける。

「え」

 信じられない光景に、思わずカーテンを一度閉める。


 目をこすって、もう一度カーテンを開けた。見間違いじゃない。まだいる。

 屋根の上に仁王立ちして、こちらをまじまじと見てくる黒いワンピースを着た少女。歳は同じ程だろうか。

 夢の中で見た男と同様、彼女も透けているように見える。


 僕はまだ寝ぼけているのだろうか? 夢が僕に何かを訴えかけているのかもしれない。

 それにしても先ほどから気になって仕方がないことがある。

 僕はガラガラと窓を開けて、話しかけることにした。


「あ、あのー」

「あ、やっぱり。あなた私の事が見えてるのね! やっと見つけたわよ、大変だったんだから! もうこんな時間になっちゃったし。スズメちゃんに聞いてからもう三時間も。てか、こんな大変な時に……」


 怒涛の勢いで一方的に話しかけてくる夢の中の住人は、僕にはお構い無しだった。


「あ、あの……」

「なによ!!」


 先ほどから気になっていたもの。彼女のスカートの丈は短く、チラチラと白く輝くものが目に映る。

 女性慣れしていない僕にとって、それはとても眩しい。


 知らせようと僕は俯きながら指を指すと、指先の示す方向を見て、彼女は少し考えてから、凄い勢いでしゃがみ込む。


「ど、どこ見てんのよこの変態! もう最悪、せっかく役立ちそうな子見つけたのに、よりによってこんな変態だったなんて!」

「いやいや、誤解ですよ! というか、人ん家の屋根に勝手に上がり込んで何なんですか!」


 そこまで言って、反論している自分の事が急にバカらしくなる。

「そうだ、これは夢の中なんだ。何を熱くなってるんだ」

 はあ、と大きなため息をつく僕に、後ろから彼女が話しかけてくる。


「夢? あんた何言ってんの?」


 訝しげな顔をする彼女は、グイッと手を伸ばしてきて振り返りざまの僕の頬をつねってきた。


「いだだだだ!痛い、痛いって!」

「どう?これで現実だって分かったかしら?」

「分かった、分かったから!」


 ふふ、と鼻を鳴らして、蔑むようにニヤリと笑う彼女の顔は、何とも憎たらしい。


「ちょっとガッカリ、まさかあんたみたいのが素質を持ってるなんてねー。もっとスマートでカッコいい大人な男性が良かったなー」


 そう続けた少女は、「はあ」と大きなため息をつく。


「素質? なんの話をしてるんですか。というか、一体あなた何者なんですか?」


 そう問うと、しゃがんでいた彼女は、もういいやと立ち直した。すると、やはり彼女の下着が見えるため、自然と僕も屋根上に上がる事になった。


「挨拶が遅れたわね、私の名前はオオチ ミドリ。祈祷師兼NGO法人の職員って所かな?」


(この人は何を言ってるんだ……。祈祷師?)

 聞き慣れない単語に僕は首を傾げる。その様子を見て、オオチさんはうーんと唸った。


「おーい、オオチちゃん! 一人で行動するのは危険だって……」


 唸っていた彼女の後ろからもう一人、半透明な男が屋根上に現れる。オオチさんを親しげに呼ぶ彼もまた、祈祷師とやらの一員なのだろうか?

 オオチさんに優しく注意する彼に、オオチさん本人は言い訳をしていた。


「あ、ヒラヤマさん、大丈夫ですよ。なぜかここだけ雨の勢い弱いみたいですし……」


 そこまで言って、はっとする彼女は、「いい事考えた!」と、ヒラヤマと呼ばれた男の腕に手を伸ばす。


「ヒラヤマさん、ちょっとコレ貸して!」

「え、あ! ちょっと」


 そうして、オオチさんがヒラヤマさんの腕からミサンガのようなものをほどき取ると、みるみるうちに透けていた身体は普通に戻り、服装もまた私服へと変化した。

 彼は驚き、おっとっとと屋根上でバランスを崩している。そんなヒラヤマさんを横目に、にべもなくオオチさんは僕に話しかけてくる。


「案ずるより産むが易しってね。ほら、これ付けて」


 そして、ヒラヤマさんから取り上げたソレを、オオチさんはポイと雑に放り投げる。手に取ったものは、一見ヒモに見えるが、意外とザラザラとした触感で、色もまた使い古した雑巾のようで少し気持ち悪さを覚えた。


「よくこんなもの付けれますね」

「いいからさっさと付けなさいよ!」


 嫌々ソレを手首に結びつけると、彼女がソレに手を合わせるジェスチャーを僕に送る。僕もマネするようにソレに触れた瞬間……。


 目の前が真っ白になり、まるで自分の身体が溶けていくかのような感覚を覚える。浮遊感のある空間で、赤く染まる何かがギロリとこちらを見つめてくる。

 怯える僕は、ギュッと目を瞑りそのまま時間が過ぎるのを待っていると、次は僕を叱責する声が聞こえてくる。


「何してるの、さっさと目を開けなさいよ! ったく、鈍くさいわね」

「い、今のは!?」

「ん、今の?」


 目を丸くしているオオチさんは、もしかしたらこの現象を知らないのかもしれない。また、屋根に四つん這いになって堪えているヒラヤマさんは、応えることが困難なようだ。


「なんだか違う世界に飛ばされたような感覚で、そこには何かがいて……」

「そんな話聞いたことないわよ。ふふ、また”夢”でも見てんじゃないの」


 僕の顔を見て嘲笑う彼女の顔は、やはり憎らしい。


「さて、じゃあ付いて来なさい」

 そう言って、屋根上から飛び降りる彼女は凄まじい速さで道を駆けて行く。そんなスピード、誰が付いていけると言うのだ。

 唖然としていると、隣でどうにか落ちないように堪えているヒラヤマさんが苦笑しながら言う。


「今の君なら大丈夫、見てごらん」


 そういって指さすのは僕の身体。見ると身体は、黒を基調とした衣服に包まれていた。中指の先が隠れるほど大きな袖と、袴のようにゆったりとしたズボンを纏っており、一見動きにくいようで、腕や足の可動域が広く取れるため意外と動きやすい。

 そして、やはり半透明になっていた。


 やはり、彼女の異常な身体能力はこの不思議な力によるものなのだろう。

 僕は、オオチさんが去った方向を見据えて、思いっきり屋根から飛び降りた。身体の質量が減ったような感覚で、ふわっと浮き上がり、大きな距離を移動する。風のようにスッと走り、障害物も難なく躱していくことすら出来た。

 これなら、すぐにオオチさんに追いつけそうだ。


 初めての感覚が心地よく、僕は最高速度でひた走った。




「はあ、行っちゃった。どうやって帰ろうかな……」

 というのは、取り残されたヒラヤマの言葉である。

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