祈祷師見習いと神の末裔
キウイ
第1話
雲は重く空にかかっている。
僕は朝、母さんから雨が降るかも知れないと聞いていたが、遅刻しそうな僕は、それを無視して家を飛び出した。
そして今、朝の自分を恨んでいた。
教室の窓から見る空の色は全面灰色に覆われており、水色の何かが無数に漂っているのが見える。
その何かは幼い頃から見えたが、精霊とでも言っておこう。
それが何なのか詳しくは分からないが、どうも自然現象と連動しているようだ。
精霊たちは他の人には見えすらしないらしい。
「朝はあんなにいなかったのにな……」
昼休憩、友達のいない僕、オオトリ タイヨウは机の上に佇む鳥型の火の精霊「ピィちゃん」とじゃれながら、空に吸い込まれるように集まっていく、水の精霊たちを見ていた。
この後、雨が降ることは間違いないだろう。
前までは天気予報など当てにならなかったのに、科学の進歩は目覚しい。何でも新しい人工衛星の打ち上げに成功したことにより、雨雲の動きを先まで把握することが可能になったようだ。
ピンポンパンポーン。
そんなことを考えていた僕の耳に、この時間には珍しいチャイムが聞こえた。
お知らせします……というお決まりの台詞から始まったのは、臨時休校の連絡だ。急激に低気圧が発達し、午後から大雨が予想されるためだそうだ。
まだ雨が降らない外を見やり、生徒たちは不意打ちを食らったような顔をする。
歓喜で湧き上がる教室内には、間もなく先生が訪れた。
先生はホワイトボードに連絡事項を書き、速やかにホームルームを終えて、生徒たちを学校から帰した。
もちろん、生徒の中には僕も含まれている。
学校から家へ帰るまで、自転車で四十分ほどかかるため、僕はバスで帰ることにした。
ぽつりぽつりと降り出した雨の中、自転車を漕いで帰れば家に着く頃にはずぶ濡れだろう……。
久々に乗るバスは、同じ方向へ帰る生徒たちで埋め尽くされていた。
市街地から離れていくバスが、最寄りのバス停に着くまでにはあまり時間はかからないだろう。
しかし、昼食後でウトウトする僕の意識は、いつの間にか途切れていた。
次第にバスの天井を叩く雨音が大きくなって行く中、不意にピィちゃんの大きな鳴き声が響く。眠っていた僕はすぐに目を覚まし、ピィちゃんの視線の先に目をやる。
すると、水の精霊たちが不自然なほどに一つの方向へと向かっていくのだ。
その方向へと、追いかけるように視線を送った瞬間、それはいた。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーー!!!!」
耳を劈く轟音。バスの前方に見えるのは、水の精霊たちが集合し、巨大化したものだった。
その巨人は林の中で縦横無尽に暴れ回っている。そして次第に巨人はバスの存在に気づき、こちらへ近づいてくる。
まずい……見た瞬間にそう思った。
あれほど巨大化した精霊の姿を、実際に見るのは初めてのことだった。
見たことがあるのはいつも、テレビやスマホの画面の向こう側。災害時などの映像で、壊れた家や流される土砂と共に映り込んでいた。
タイミングの悪いことに、今は帰路の中でも道幅が狭い崖道を進んでいるところだ。
左は法面、右は崖になっており、逃げ道がなくなってしまう。ボロボロのガードレールは実に頼りなく目に映った。
バスを止めなければ……そう思い立ち上がって叫ぶ。
「バスを止めてください! これより先に行くのは危険です!」
後ろの方で急に大声を上げる僕に、周りの視線は冷たく刺さる。そんな乗客の容赦のない対応に、僕は息をのんだ。
(またそんな目で見るのかよ……)
昔から精霊達が見えていた僕は、普通の人が取らないような行動を取っていた。普通では無い僕はまるで変人扱いで、いつも攻撃的な視線を向けられてきたのだ。
乗客たちの視線で嫌なことを思い出す僕は、自分を受け止めている足の力を抜いて、座ってしまいたいという衝動に駆られる。しかし、気持ちとは裏腹に自分の本能が危険だと警鐘を鳴らすのだ。
だから運転手を制止せずには居られなかった。
「早く、早く停めてください!」
見えない人にとっては、突然大声を上げる迷惑客、または不審者なのだろうか。
「安全運転を心がけますのでどうか静かにお待ちください」
鬼気迫る僕の声に車内には段々と緊張感が漂い始めるが、運転手は平然と払い除けた。
その間、進み続けていたバスはついに……。
ドンっ! と路肩が崩れ、前輪が脱輪しかける。バランスを崩したバスは、崖に落ちるかと思われたが、何とか持ちこたえて停車した。
「きゃーーーーーーー!!」
しかし、それが引き金となり車内に立ち込めていた緊張が一気に放出される。騒然となる車内には、悲鳴をあげ、泣きわめき、ドアをこじ開ける人々たち……。
僕は『見えていた』。目の前にいる脅威きょじんが、路肩を殴り崩したのを。
怖い……怖い怖い怖い怖い怖い怖い……!!
自分も逃げ惑う人々と共にこの場から離れようと思い、立ち上がる。荷物を背負って流れる人混みに身を投げて、降りようとしていると……ふと、隣の席が目に入った。
慌てていた自分が、隣の人を気遣う余裕もない自分が、なぜかその時、彼女の事が気になって仕方がなかった。
怯える彼女の顔を見て、それでも我が身可愛さに、僕はバスを駆け下り……かけて足を止めた。
ひぐっ……という小さな嗚咽が、鮮明に聞こえてくるのだ。
「クソっ」
そのうちバスは崖から落ちていく。今逃げなければ、彼女の命が危ない。
(何やってんだよ、僕……)
見捨ててしまえば、後悔するのは自分だということは明白なのだ。歯を食いしばり出入口まで来ていた僕は、気づけば人の流れに逆流していた。
邪魔だの退けだの罵詈雑言の中を突き進む僕は、怯える彼女に手を差し伸べる。
先程の一瞬では気づかなかったが、見た事のある顔だ。おそらく同じクラスのルームメイトだった。彼女とは仲がいい訳では無いが、たしか名前はカナエ スズメさんだったか。
混乱していた僕は、なぜか彼女が気になって仕方がない。妹を抱きしめる腕の震え、目に浮かぶ涙……事細かに表情が読み取れた。
カナエさんは怯えていた。
「早く逃げるよ!」
「え、オオトリくん?」
顔を上げた彼女が、僕の事を知っていることに少し驚きつつ、彼女の手を握った。その瞬間、ギュッと少し強く握られて、落ち着きを取り戻したのか直ぐに力は抜けていった。
その手を引き、立ち上がった彼女はお礼の言葉を述べる。
「ありがとう、もう大丈夫。それよりノゾミをお願いしていい?」
そういう彼女の顔を見て、数瞬の後にカナエさんの妹であるノゾミちゃんを抱きかかえてバスを降りた。後からしっかり彼女も付いてきている。
バスから駆け下りると同時に、さらに路肩が崩れ落ちる。そして、ついにバスは崖の下に落ちていった。大きな音と共に吹き上がる炎が森を焼いていく。
背中にぶわっと冷や汗が湧き上がる感覚があった。あと少しでも降りるのが遅れていれば、今頃僕たちも奈落の底だった。
目の前にある、まるでこの世のものとは思えない光景に、僕の足はすくんでしまって動けない。
未だに暴れる巨人は崖を殴り、木を薙ぎ倒し、これでもかとばかりに雄叫びを上げる。
その怒号に咄嗟に耳を塞ぐ僕を見て、カナエさんは不思議そうにこちらを見てくる。
そうだった、彼女にはこれが見えていないんだ。彼女たちは、なんて幸せなのだろうか。
「あの、オオトリくん……助けてくれてありがと!」
カナエさんだけでなく、その妹も、そして先にバスから降りていた乗客たちもまた、崖から少し離れた場所で、安堵したかのように立ち止まっている。
「まだだ……みんな、もっと遠くへ」
恐怖から、声が出なくなってしまっている。ダメだ……誰にも僕の声は届いていない。
その時、巨人がギロっと僕の方を見た。しっかりと目が合った感覚があり、不意に目をそらす。
僕たちと巨人の距離はわずか五十メートルほど。
「カナエさん、他の人と一緒に避難して!」
「え、どういうこと?」
「ここは危険なんだ、早く!」
だんだんと近づいてくる巨人を前に、僕は彼女たちを突き放して逃げるように促した。
辺りを見回す彼女は何かを察したように、妹の手を取って駆け出した。
避難を促す彼女たちに釣られて、ほかの人たちもこの場から離れ始める。
「ほら、ピィちゃんもここは危険だよ」
最後に、ずっとそばでパタパタと飛んでいたピィちゃんに避難を促すと、ピィちゃんは少し僕の目を見て、カナエさんたちと同じ方向へと逃げていった。
あとは僕が、避難する時間を稼ぐだけだ……。
「どこを見てやがる!こっちだ!」
大声を上げて、水の巨人の視線を引く。
小さい頃から見えてしまった僕は、人に虐げられてきた。きっと僕が居なくなっても悲しむのはせいぜい母さんくらい。
「母さん、ごめんよ」
そう零した言葉と同時に、目から大量に涙が溢れてくる。
どうしてこうなってしまったのか。見える能力のせいか。くだらない正義感を持ってしまったせいか、はたまたこれが運命というものなのか。
そんなことどうでもいい……!
「まだ、まだ死にたくないよお!!」
最後の悪あがきくらい、しても誰にも咎められないだろう。降りかかる巨人の拳を、思い切り飛んで回避する。先程いた場所は、足場が崩れ崖の下へと落ちていった。その様子を見ながら走り出すが、再び巨人の手が降りかかる。
またそれを回避し、何度か同じ攻防を繰り返していると、既にみんなの避難が完了したようだった。
それを見て、逃げようとする僕にまた巨人の手が降りかかる。握りつぶされそうになった僕は、それを躱すことを諦めた。そしてこの時、僕は生きることも諦めたのだ。
頭を腕で覆って防御の姿勢をとるが、なんの意味も為さないだろう。
バンッという音と共に僕の意識は無くなる。と、思っていたのだが閉じていた目を恐る恐る開いて顔を上げると、巨人の透けた手に覆われているだけで、何のダメージも受けていなかった。
もしかするとこの巨人は僕には触れないのか? そこに好機が見い出せるかと思ったが、それを察したのは僕だけではないようだ。
巨人は僕を掴むことを諦め、足元を壊しにかかる。
ゴンッ、ドダダダ……!!
砂煙が舞って視界の悪い中、僕は必死に逃げることだけを考えていた。
しかし、疲れきっていた僕は、方向感覚を失い……。
あれ?
気づけば崖の路肩まで来ていたようだった。片足が思いっきり空を舞い、その勢いのままに落下しかけた。
その時だった。
「大丈夫かい?」
「へぐっ」
誰かが僕の制服の襟元を引っ張ったことによって、体勢を立て直す事ができた。なんとか落下せずに済んだが、首が絞まって変な声が出てしまう。
ゲホゲホと咳き込む僕に、彼は申し訳なさそうに謝ってきた。
「おっと、ごめんごめん。つい急いでたもんで! この子が俺を導いてくれたんだ」
彼の隣には、パタパタとピィちゃんが飛んでいる。
「ピィちゃん、逃げたんじゃなかったのか」
そう言って僕は、ピィちゃんをゆっくり胸に抱きしめる。
ただ、それより気になるのは彼の存在だ。ピィちゃんの事が見えるこの人は、一体何者なのだろうか。そんなことを考える僕が、この人を見た時の第一印象は……。
何だか頼りないな、だった。
(トレーナー、後ろ前に着てるしな)
そんなことを考えている場合ではないが、とても気になってしまった。
「あとは俺に任せて、さあ逃げるんだ」
そんな彼だったが、左腕に付けたミサンガのようなものに触れると、みるみるうちに姿が変わっていく。
彼は全身、黒で統一された服装に変わった。かなり軽装で動きやすさを重視したものなのだろう。
そして、僕の目を引くのは服装の変化だけではない。
まるで僕が見ている精霊のように、彼の姿も少し透けて見えるのだ。
初めて見るその姿に、驚くとともにもっと話したいとも思った。もしかしたら僕が見ているものの正体もこの人なら分かるかも……とも。
しかし、まずは命を優先すべきであるということは判断できた。巨人と闘う力を持たない僕は、ひとまず彼を信じることに決めた。
頼りない背中を信じたいと思ったのだ。
何も言わず、振り返った僕は走り出した。それが彼との最初で最後の会話となったのは後々知ることとなる。
逃げ出す途中、一瞬見えた彼の手には小さなヒビが無数に入っているように見えた。そのヒビ割れた手に、どこから出したのか分からないライフルを握り、銃口は巨人へと向けられていた。
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