プランタンにて

増田朋美

プランタンにて

とにかく寒かった。日本の気候とは違い、パリ市内はとにかく寒いのである。もちろん日本の冬も寒いとは思うけど、また違う寒さ何だと思う。

そんな中、シャルル・ド・ゴール空港近くにあるモーム家では、数日前から杉ちゃんと水穂さんが来訪していた。別にあの二人が悪いわけでは無いけれど、チボーくんは気が気ではなかった。というのはモーム家のトラーが、水穂さんの世話を一生懸命するからである。それは、悪いことをしているわけでは無いのだけれど、チボーくんとしては、水穂さんにトラーを盗られてしまったようで、とてもつらいのだった。

その日も、トラーのお兄さんのマークさんから、杉ちゃんと一緒に買い物に行ってやってくれと頼まれたけど、本当は断りたいと思っていた。だけど、文盲の杉ちゃんには通訳が必要であることは疑いなかったので、一緒にいかなければならないなと考え直して、チボーくんは杉ちゃんと一緒にでかけたのだった。

水穂さんの世話はトラーが率先して引き受けていた。だから、当然のごとく、水穂さんにご飯を食べさせるのも彼女の役目だった。最近彼女は食事作りも引き受けるようになっていた。この間なんか、杉ちゃんに教わりながら、日本式のカレーを作ることに挑戦した。その時は、台所が散々たるものになってしまったけど、でもカレーを作ることに成功した。マークさんは、すごく褒めていたけど、チボーくんにしてみたら、ちょっと複雑だったのである。

「はい、もう一口。」

トラーは、水穂さんにおかゆを差し出した。水穂さんは、それを咳き込みなからなんとか食べてくれた。確かに、ご飯を食べるのはまだつらそうだけど、水穂さんもご飯を口にしてくれるようになっていた。

「ねえ水穂。」

口元をちり紙でふいた水穂さんにトラーは言った。

「プランタンに行こうよ。」

水穂さんはびっくりして、返答に困ったようであったが、

「どうしてそんなところに?」

と返答した。

「だって水穂が持っているものは変な柄の着物ばっかりなんだもん。そんなんじゃ、こっちでは寒いわよ。それよりも、あたたかいセーターとか、そういうものを着たほうがずっといいわよ。」

「そんなところ、とてもいけませんよ。」

トラーの発言に水穂さんは申し訳無さそうに言った。

「大丈夫よ。もしなにかあったら、私がなんとかするわ。最近はスマートフォンのアプリで何でもできるし、それにあんまり咳き込まなくなったから、体を動かしても良いのではないかしら?」

「そうかも知れませんね。」

トラーの強引な態度に水穂さんは反論できなかったらしくそう答えてしまった。

「じゃあそうしましょうよ。私、タクシー取るから待ってて。今はタクシーもアプリで呼べるもんね。電話しなくて良いんだから、ホント助かるわよ。」

トラーは、スマートフォンでタクシー会社へメールを送った。タクシーは、時間と場所を設定すれば呼び出せるという、便利な世の中でもあった。メールした時間どおりにタクシーはやってきてくれる。日本の障害者用のタクシーのように、余分にお金がかかるということも無いので、気軽に外へ出られるというのが良いところだった。

そんなわけで、水穂さんとトラーは、世界的に知られている百貨店である、プランタンという店までタクシーで乗せてもらった。日本の大通りと違って、至るところに街路樹が植えられていて、木が大事にされていることもわかる。そうやって、自然を大事にしているところが、日本とまた違う国民性なんだろうなと思われた。

「さあ着いた。」

二人が、到着した百貨店は、百貨店というより、なんだかお城みたいな感じの建物であった。タクシーは、百貨店の正面玄関の前で二人を降ろしてくれたけど、水穂さんは本当に入っても良いのかと言ってしまったほどである。

「良いに決まってるじゃないの。入りましょ。店は誰でも入れるのよ。」

トラーに言われて、水穂さんは、百貨店に入った。確かに入ることは誰でもできるけれど、そこにある商品を買える人は、また限られてくるのではないかと思われる。多分、彼女の持ち合わせでは買えるものは無いのではないかと思われたが、トラーは、予め安売りをしているところを知っていたらしい。水穂さんの手を引っ張って、そこへ連れて行った。

「ほらここよ。ここなら私の持ち合わせでも買えるから、なにかほしいものを言ってよ。ここなら何でもいいわ。」

と言って、見せられたのは、トレーニング用のジャージ。多分、スポーツするときとか、そういうときに使う洋服であった。ブランドは何処なのか不詳だが、体の効かない水穂さんには、縁のない服装と思われる。

「生憎ですが、トレーニングウェアは着用できませんね。スポーツ選手でも無いですし、僕みたいな人が着用するのはおかしいですよ。」

水穂さんは正直に感想を言った。

「そうかな。私は、誰が着たって良いと思うけど。どんな使い方をするのかは、買う人次第でしょ。ちゃんとした使い方をすれば、それで良いのよ。」

トラーは、黒色のジャージを一枚取った。

「ほら、これなんかどう?その変な柄の着物よりもずっと暖かいし、動きやすいわよ。」

「そうですが。」

水穂さんは小さい声で言った。

「こんな高級すぎるジャージ、着用なんかできませんよ。そもそも、僕みたいな者が、こんな物持っていたら、行けないんです。」

「そうかも知れないけど、それは日本にいればのことでしょう?ここでは少なくとも、身分がどうのこうので、差別されることは無いわよ。それを体験してもらいたいの、私は。」

トラーは水穂さんの発言に反発してそういったのであるが、

「いえ、これは無理です。着用はできません。」

水穂さんは、きっぱりと言った。

「そうかあ、簡単に洋服が買えないほど、日本の人種差別はすごいものなのか。」

水穂さんの表情を見て、トラーはちょっとため息を着いた。

「全くおかしなことよね。それは、KKKとか、そういう組織があるのかしら?それは私も、KKKの思想って、よく理解できないけどさ。それと一緒なのかしら?」

「いえ、理解しなくても構いません。何処へ言っても、僕みたいな人間は、馬鹿にされるのがアタリマエのことですよ。同和地区の出身者が銘仙の着物を着るのは、そうしないと、平民と同じ格好をするとは生意気だと笑われるからですよ。」

水穂さんは小さな声で言った。

「でもここは、日本では無いんだし、それから開放されるために来てるんだから、思いっきり羽を伸ばしてもらいたいんだけど、それは無理なの?」

「はい、できませんね。外国へ逃げればいいかというものではないのです。それは何処へ言っても変わらないですよ。」

「そうなのねえ。」

トラーはまだわからないという顔をしていたが、水穂さんはの表情は変わらなかった。

「やっぱりだめなのかな。」

トラーは寂しそうな顔で水穂さんを見た。

「いえ、大丈夫です。トラーさんが、ここへ連れてきてくれたことは嬉しいです。身分のことは、日本社会で決まってしまっていることなので、トラーさんが無いも気にしなくていいです。」

「そうなんだろうけどさ。私は、水穂が我慢しなくても良いことまで我慢しているように見えるのよね。それをもうここに来たからにはしなくていいと、癒やしてあげたいと思っているんだけど、それはいけないことかしら?」

トラーは、水穂さんの発言に小さな声で言った。

「なんか、それもいけないことなんじゃ、私は何もできないのかな?」

「ええ、僕もトラーさんも何もできないんですよ。それは仕方ないことです。世の中には、そういう変えられないことはいっぱいあります。」

水穂さんはそう言って、渡されたジャージを元の位置へ戻した。

「帰りましょう。こんな、お城みたいな建物、僕にはふさわしくありませんよ。」

「そうなっちゃうのか。」

がっかりした表情で、トラーは安売りをしている売り場をあとにした。

「ねえ水穂。」

店の中を歩きながら、トラーは言った。

「せめて、おやつでもごちそうさせてくれない?せっかくここへ来たのに、何も買わないなんて、変な客だと思われても嫌だし。」

「はあ、そ、そうですか。」

水穂さんは、ちょっとびっくりした感じの表情で言った。

「あそこにカフェがあるわ。ちょっとお茶でもしていきましょうよ。」

「そうですねえ。」

トラーは、洋服売り場の近くにあった小さなカフェに、水穂さんを案内した。お昼どきではなかったのでカフェは空いていた。トラーは何でも食べていいわよといったが、水穂さんはコーヒー一杯しか注文しなかった。

「もっと頼んでほしいのに。」

トラーは、そんな水穂さんを眺めてそういった。

「それなら、私の身の上話でも聞いてくれるかな?水穂、私がしてほしいことを何もしてくれないもの。それくらいなら、してくれるでしょ。」

「そうですね。」

水穂さんがそういったため、トラーは長い話を始めた。

「私も、こう見えても、数年前は、学生だったのよ。ちょっとこの辺りで、知られているところに入ってさ。でも、クラスメイトって言うのかな、それは、みんな、お金持ちの子ばっかりだった。だから私、勉強できなくなっちゃってさ。それで、結局単位も取れなくなっちゃって。体もすごく辛くてね。病院へ行っても、何処も悪くないって言われて、もう辛かったわよ。お兄ちゃんは、勉強もなんでもできたから、大学までいかせてもらったけど、私は、そういうことはできなかったから、余計に辛かった。家をでることも考えたけど、何処にも行くところが無いじゃない。お父さんとお母さんは、病院で見てもらうために、電車に乗ったんだけど、そこで事故に巻き込まれちゃってそれっきり。私は、お父さんとお母さんの死に責任があるわけよね。」

「そうなんですね。それはお辛かったと思います。」

水穂さんはトラーの話に、相槌を打った。トラーはそんな反応をされたのは初めてだったようで、水穂さんを意外な顔で見た。

「まあ、お父さんとお母さんがなくなったとき、お兄ちゃんが、すでに勤めてたからうちはやっていけたんだけど、でも、近所の人たちは、私を、いけない子だと見たりして、本当に辛かったわよ。やり直そうと思っても、家族はお兄ちゃんだけだから、どうにもならないのよね。結局、ずっと家にいるしかなくて、私はもう世の中からいらない子なのかなと思ったりして。ほんと、もういらない子よね。だって、学校にも行けないし、働くこともできないわよ。だから、もう人生は終わりなのかな。」

「そんな事ありません。」

水穂さんはトラーの話に、そう返した。

「ああ、その先はわかってるわよ。お兄ちゃんが一生懸命働いているから、それに応えろと言うんでしょ。それなら、もう偉い人からさんざん聞かされたわ。」

トラーがそう言うと、水穂さんは、こういったのだった。

「でも、少なくともマークさんや、お隣のチボーくんだって、あなたのことを心配してくれているんですから、それで良いじゃありませんか。僕みたいに、本当に邪険に扱われるだけの人間もいるんだし。そういう人から見れば、二人の人間を動かしているわけですから、トラーさんは、いらない存在では無いと思いますけどね。」

「そうかな。でもたった二人よ。」

トラーがそう言うと、

「たった二人でもいいじゃありませんか。お父さんやお母さんが亡くなられたのだって、あなたのせいなんかじゃありませんよ。そうなる運命だったと考えることだってできるはずですよ。大事なのは、それを完全に忘れるのではなく、覚えていられることだと思うんですよね。切り離すことと、忘れることは違います。それは、人間が自然と協和するために持っている智慧なんじゃないでしょうか?」

水穂さんは、そういった。

「切り離すことと忘れることは違うか。日本人は、そうやって解決しちゃうことができるのね。なんだか羨ましいわ。」

トラーは羨ましそうに言うと、

「解決はできませんよ。人間に解決できることなんて、ほんの些細なことに過ぎません。ときには解決できないで放置するしかできないことだってあるはずです。そのほうが、できることより多いのかもしれない。でも、それは悪いことじゃないです。だから、思い出として、記憶に残すとは、そういうことなんだと思います。」

水穂さんは、そう答えを返した。

「そうかあ。日本人ってすごいわね。そうやって、考えられるのは、災害の多いところなのかもしれない。こっちでも日本で大きな地震があったとか、よく報道されてたから。」

「災害ばかりでは無いです。それは、生きていくために必要なことですよ。」

「そうなのねえ、、、。」

トラーは、水穂さんをじっと見つめた。

一方。

杉ちゃんとチボーくんは、買い物からモーム家に戻ってきたが、トラーと水穂さんの姿が無いことにすぐに気がついた。杉ちゃんが、こんなに寒いのに、早く連れ戻さないと大変なことになると言った。チボーくんもそれはそうだと思った。しかし、置き手紙もないし、トラーが水穂さんを連れて何処に行ったのか、検討もつかなかった。とりあえずトラーのスマートフォンに電話をかけてみたが、電源は切れていて、繋がらなかった。

「おい、こんな紙切れが落ちてるぞ。」

杉ちゃんが、テーブルの下に落ちていた紙切れを拾い上げた。

「何だこれ。プランタンの広告ビラじゃないか。」

よく見ると、いくつかの商品が赤丸で囲ってあった。

「ということは、プランタンに行ったんだね。」

多分トラーは、プランタンの商品を狙ってそこへ水穂さんを連れて行ったんだなとチボーくんは確信した。

「よし、追っかけて行ってみよう。」

杉ちゃんに言われて、チボーくんは決断した。すぐに電話してタクシーに来てもらい、プランタンに行ってくれとお願いした。こういうときに杉ちゃんのような存在は、ちょっと時間を取らせてしまうのだが、チボーくんはとにかく行こうと言った。杉ちゃんたちは、とりあえず、プランタンの正面玄関前でおろしてもらったけど、水穂さんたちはそこにいなかった。これは困ったことになったと、チボーくんは青い顔をして探し回っていると、

横断歩道を渡ろうとしていたおばあさんがなにか言った。こんな時に通訳をしなければならないのは、ちょっと面倒だが、何でもおばあさんの話によると、着物を着た人物が公園にいるという。チボーくんは杉ちゃんを全速力で押して、公園に直行した。公園の隅の方にあった噴水の近くに水穂さんたちはいた。水穂さんは、座り込んでえらく咳き込んでいた。芝生の所々に赤い液体が着いていた。トラーがその背中を擦ってやるなどしていたが、水穂さんはもう立てそうになかった。

トラーはチボーくんと杉ちゃんがこちらに来たのをえらくびっくりしていたようだが、とにかく、家に帰ろうとチボーくんは言った。水穂さんを背中に背負って、近くの駅まで走っていった。こういうときは、タクシーを配車アプリで呼び出すよりも、駅などのタクシーが停まっているところに走ったほうが早いのである。タクシーを見つけたとき、トラーが泣き出してしまったが、

「泣いたらいかん!最後までちゃんと水穂さんを見てあげなくちゃ!」

と、杉ちゃんに言われて、彼女は無理やり涙を拭いていた。

とりあえず、駅にはタクシーが何台か待機してくれていて、全員をモーム家まで連れて行ってくれた。それのおかげで、家に入って、水穂さんを布団に寝かせてやり、薬を飲ませることにも成功した。水穂さんがやっと楽になってくれて、ウトウト眠ってくれたとき、チボーくんも全身の力が抜けたようだった。

数十分後にマークさんが仕事から帰ってきて、トラーはマークさんに偉く叱られた。それは、多分仕方ないことだと思う。水穂さんのような重病の人を、百貨店に連れていくのなんて、もってのほかだというのは、誰でもわかることであったから。トラーは、マークさんに叱られて、部屋の隅で泣いているのだったが、少なくとも、カフェで、水穂さんに言われたことは、彼女には大きな収穫だったかもしれなかった。

トラーがマークさんに叱られている間、チボーくんは複雑な気持ちで、杉ちゃんと一緒にカフェでお茶を飲んでいた。マークさんとトラーが話をしているときに、口を出してしまうのは行けないと杉ちゃんが言ったためで、それはそうだなとチボーくんも思ったからである。

「せんぽくん。」

ぼんやりしているチボーくんに杉ちゃんがでかい声で言った。

「男らしく、告白しろ。」

「そうですねえ。」

とりあえずチボーくんはそれだけ言っておく。というか、それしか言えなかった。

「好きなんでしょ。とらちゃんのこと。ほんならちゃんと、手っ取り早く言いな。お前さんのことが好きなんだってな。そうじゃないと、確実に水穂さんに取られてしまうことだろう。」

「そうなんですけどね。それができたら苦労はしませんよ。それとも日本人は、そういうところはあまり感じないで、どんどん好きだと言ってしまえるんですか?」

思わずチボーくんは、そう言ってしまうが、

「関係ないよ。」

と、杉ちゃんは、爽やかに笑った。

「日本人であれ、何であれ、言わなくちゃいけないことは言わなくちゃいけないってのは、誰でもそうでしょ。」

杉ちゃんにそう言われてチボーくんは、思わず目を宙に動かしてしまった。そうなんだけど、それは確かなんだけど、でも、できないのである。そういうことができない自分は、やっぱりだめなのかなと思ってしまうときがある。

「そうかそうか。それができたら苦労しないか。まあ、若いやつは誰でもそうだよな。ほんじゃあ、食べて忘れよう。親父、がんも!って、ここは日本ではなかった。がんもは無いんだよね。」

杉ちゃんがそう言うと、チボーくんは、

「代わりに、ケーキならいくらでもありますけどね。」

と、杉ちゃんの言葉を訂正した。そして、まだ泣きたい気持ちを堪えながら、杉ちゃんの食べたがっているケーキを注文したのだった。

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プランタンにて 増田朋美 @masubuchi4996

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