第九話 「保健室にて」

「……いない……」

わたしは保健室の扉の前に立ち、ため息を吐きながら呟いた。

扉にはそんなわたしを嘲笑うかのように、ポップな字で「先生は今職員室か、どこかの教室にいるよ!」と書かれた紙が貼られていた。


「あー……蘭ちゃん、ちょっと待ってて。職員室に行って、先生がいるか確認してくるから」

わたしが気まずく思いながらそう言うと、蘭は扉に貼られた他の紙を指さした。

「これ……」

「ん?」

その紙を見ると、そこにはまたポップな字で「先生はいないけど鍵は開いているから、軽傷なら使用書に名前を書いて手当してね!」と書かれていた。

……これ、職務放棄なのでは?

「わたし、このくらいなら自分で手当できるから……。えっと、立花絵穹ちゃんだよね? 絵穹ちゃんが探しに行ってくれなくて大丈夫。ありがとう」

わたしがゲンナリとしながらその紙を睨んでいると、蘭がオドオドとしながらもハッキリそう言った。


わたしは目を見開いて、それからゆっくりと頷く。

「わかった。でも……一応まだ一緒にいるよ。わたしだけ授業に戻っても、先生に置いてきたのか? とか言われたくないし」

蘭はそれを聞くと頷き、保健室の扉に手をかけた。

わたし達は若干ギクシャクとしながら、一緒に保健室に入る。

そして蘭は手際良く、救急箱を持ってくると椅子に座り手当を始めた。

「上手だね」

思わず小さく呟くと、蘭がこちらを見て小さく笑う。

「わたしの家、病院なの。だから手当は慣れてるんだ」

「あ、そうなんだ。……って、え? 病院?」

蘭が笑みを浮かべたことに驚いて咄嗟に返事をしたが、かなり凄いことを言われ後から聞き返しポカンとする。

……病院って、めっちゃお金持ちじゃない!?


するとわたしの反応が面白かったのか、蘭はまたクスクスと笑った。

綺花や葵や美菜のする嫌な笑い方ではなく、純粋で可愛らしい笑顔だった。


「絵穹ちゃんも怪我しちゃったら、わたし手当するよ? ……なん、ちゃって」

「えーっ……そのときはよろしくお願いします」

「あっ、よろしくするんだ!?」

蘭は楽しそうにケラケラ笑う。わたしもつられて笑ってしまった。

その笑顔にわたしは喜びを感じると同時に、罪悪感も抱く。

……何故、こんなに良い子が虐められているんだろう。何故、わたしはもっと早く手を差し伸べられなかったのだろう。

チクリ、と胸が痛んだ。


「……あの、もし良かったら蘭って呼ん──」

蘭はそこまで言うと口をつぐんだ。

若干顔が青くなっている。

最初はどうしたのだろうと不思議に思ったが、すぐに気が付いた。


わたしが蘭と仲良くすれば、わたしも虐められてしまうかもしれない。


蘭はそれを危惧して、最後まで言わずに止めてくれたのだ。

手が震えているのを見ると、自分の友達を増やしたい欲と、自分のせいで他人が傷付くかもしれないという危険性が彼女を蝕んでいるのが分かる。


わたしは一呼吸、深く息を吸うと、蘭に微笑みかけた。

「蘭。もし良かったら、わたしのこと絵穹って呼んで。……よろしくね」

蘭は弾かれたように顔を上げ、わたしを見つめた。

そしてどんどんと目に涙を溜めると、コクリと小さく頷いた。


窓際のカーテンが揺れ、保健室は夏らしい暑さとクーラーの涼しさが入り交じった、複雑な雰囲気に包まれた。

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