第10話 すれ違う2人
6月の後半――1学期最後の日。
部室でのことだ。
「今日は私の家に来て欲しいの」
と楠さんはいう。
俺が体調を崩して学校を休んだ日から2週間ほど経っている。
その期間、楠さんが部活中の俺に会いにくる事はなく、今のように家に呼ばれることもなかった。
最初は何か俺がやらかしてしまったのではないかと思い一言言おうかと思ったが、何かしらの理由があって連絡してこないのだと判断し俺から連絡することはなかった。
そんな中でのこの誘い。
「うん、わかった」
と俺は答えて帰りの支度を始めた。
楠さんの家に着き、俺は部屋へと案内される。
その間、俺と楠さんの間に会話はない。
いつもなら演技が開始されているはずなのに、演技をする素振りを楠さんは見せない。
本当に今日の楠さんはどうしたのだろうかと俺は思う。
どんなに考えても、こういう時の楠さんが何を考え、何をしたくて、次にどのような行動に出るのかが全くわからなかった。
「今日は少しお話をしましょう」
と楠さんはいう。
やはり今日は演技をするつもりがないらしい。
「部屋に入っても、入り口で止まらなくていいから。私の反対側に座って」
「う、うん。わかった」
と俺は答える。
部屋に入り、言われた通り楠さんの反対側に俺は座る。
すでに、楠さんの顔色は悪い。
「最近会いに行かなかったことごめんなさいね」
と楠さんはいう。
その声は震えていて、やっぱり無理をしているのが伝わってきた。
「いや、それはいいからさ」
あまり無理しないで……と言おうとしたところ、
「手を繋いで欲しいの」
と楠さんに言葉を遮られる。
そして、楠さんは俺との間に置いてあるローテーブルに手を置く。
楠さんの手は、とても細く、とても白く、とても綺麗いで……震えていた。
俺は楠さんの顔を見る。
本当に握ってしまって大丈夫なのかと聞くように。
だが、楠さんから伝わってきたのは、早く握りなさいと言うような冷たい視線だった。
もうどうにでもなれと思った俺は、楠さんの手を握る。
初めて素の状態で触る楠さんの手はとても冷たかった。
およそ3秒。
結果として、3秒間俺は楠さんの手を握ることができた。
3秒を過ぎた時に楠さんは横を見て、あらかじめ用意していたゴミ箱に吐いていく。
いつもみたいにサポートをしようと手を離そうとしたが、楠さんは俺の手を思い切り握りしめ離すことを許さない。
そのまま、苦しそうに吐き続ける楠さん。
やがて治ったのか、一度空いている手でティシュを取り口を拭いてから俺の方へと視線を向ける。
「これで第一歩ね」
と楠さんはつぶやいた。
俺は何も答えない。
何に対して一歩なのかはわからないが、楠さんにとってこの行動が何かしらの意味を持つことはわかったから。
だが、楠さんの苦しそうな顔を見ると、どんなに意味があり必要なことであっても、良しとは言えない……と思った。
だから俺は何も答えない。
その後も、楠さんは自傷行為じみた事を続けた。
行為に及ぶ度、楠さんは苦しそうな顔をするし、手にかける力も強くする。顔の色までもどんどん白くなっていく。
明らかに体調を悪くしていく楠さんを前に、俺は未だ何も言わないでいた――いや、もう限界だった。
「もういい、やめろ」
と俺はいう。
俺が、楠さんにやめろということなんてまずあり得ない。
だが、今はそんな些細なこだわりなんて気にしてる暇なんて俺にはない。
俺には、楠さんの自傷行為が、お前が役に立たないからこうなってると言われているみたいなものでとても辛いことだったから。
そんなこと楠さんが思っているわけがないじゃないと、冷静な部分の俺が言っているが、そういう問題じゃない。
何度も言うように、俺と楠さんは全てを通じ合えるわけではないのだ。
自傷行為をするにしても、それを行うと決めた経緯や理由などは共有して欲しかった。
だって、楠さんのこう言った体質が楠さんにとって問題だと判断される時というのは、俺と恋人としての時間を作ろうとしている過程でのみ問題化するからだ。
普段の生活で楠さんはあえて自分の体質を治そうとはしていない。だから、こんなに吐くとことだって普段の生活ではないことなのだ。
そのことから、この自傷行為というのは全て俺との関係を良くするためのことであることがわかる。
俺が、楠さんと普通のカップルみたいなことができればいいなと願ってしまった時から始まった自傷行為なのだ。
そもそも普通とはなんだ。10組のカップルのうち、同じようなカップルが一体何組存在するのだというのだ。
10組中、全て違う人でカップルが形成されているのであれば、その時点で10通り、カップルとしての在り方が存在する。
だから、俺らが目指す普通のカップルというのは、演技をしてでも充実していると感じられる時間を過ごすということなのではないのだろうか。
それが他の人から見たら特殊なことであったとしても、当人である俺たちが、これが俺たちの普通ですと言えばそれは普通になるのだ。
そう思いやめろと俺は言った。
なぜ、ここまでする必要があるのかと思い、やめろと言った。
だが、楠さんは違っていた。
「なんで離したの……なんで、なんで、なんで?」
と楠さんはいう。
いつもの淡々とした話し方とは違い、焦り、動揺し、混乱したように楠さんはいう。
呼吸も荒くなっており、若干過呼吸のようにもなっている。
今のやり取りが楠さんの中でそれほど大切なことだったのだろうか。
俺と手を繋ぐことと引き換えに、自分を痛めつける事を良しとするぐらい大切なことなのだろうか。
俺は俺のために誰かが傷つくのが嫌で嫌でしょうがない。
前川さんの関係をもってしまっている俺が言えたことではないが、俺はいつもそれを気にして生きている。
だからこそわからない。本当にわからない。
俺は楠さんの考えていることがわからない。
俺は彼女であるはずの楠さんのことがわからない。
「どうして咲人くんはいつもそうやって私との距離を縮めようとしてくれないの?」
楠さんからの発言に俺は言葉を失う。
俺は楠さんとの距離を縮めようとしていないのか?
楠さんにはそう見えていたのか?
「いや、俺は縮めようと努力してるつもりだよ。俺は俺たちのペースでやってこうって話し合いだってしたじゃないか」
と俺はいう。
「それじゃダメだってなんで気が付かないの?咲人くんの言ってることでは私を傷つけているだけなの!!」
演技ですら見たことがないほど楠さんは感情を露わにして叫ぶ。
「咲人くんは私と触れ合いたくないの?私と恋人のようなことをしたいと思わないの?」
楠さんの発言に俺も段々と腹を立てていくのがわかった。
だって、俺も思ってるから。
もっと楠さんと触れ合いたい。
もっと楠さんと近くで話していたい。
何も話さないでただ2人並んで同じ時間を過ごしてみたい。
だから思ってないんじゃないだよ、思ってるんだよ。
でも、そんなのどうしようもないじゃないか……。
だって君は、君は……
「演技ですらまともに恋人を演じられない君がどうやって……」
完全に失言だったと俺はここまで言って気が付いた。
本気で言っているわけではなかった。
いつもはそんなこと、これっぽっちも思ってないはずなのに、少し頭に血が登っただけで俺は言ってしまった。
もう言ってしまったからには、LINEのようには取り消せない。
俺は黙ることしかできなかった。
「……やっぱりそう思ってたんだ。しょうがないじゃん。私だってこんな体になりたくてなってるわけじゃない」
わかってる、わかってるんだよ楠さん。
それは楠さんの次に俺が理解していると宣言してもいいほどわかっているんだよ。
「咲人くんの言うように、演技で恋人を完璧に演じられるようになってから徐々にって言う方法でも私は悪くないと思う。咲人くんらしいもん。でもそれじゃ……それじゃダメなの!!そんなの遠回りにしかならない。だっていくら演技をしたとしても本当の恋人の距離なんて一生縮まらない。縮められない。それならどんなに吐いても、辛くても、咲人くんになれるしかない。この人なら私に触れていても大丈夫だと、脳と体に刻み込むまで私は触り続けるしかないの。それしかないの、私にはそれしかないの!!」
と楠さんはいう。
そして、荒い呼吸を一旦整うと、静かに楠さんは言った。
「もし、それが咲人くんのとって辛くて耐えられないものなのであれば、私はこれ以上咲人くんとの関係を続けることはできない。私は今すぐ触りたい、触れ合いたいの。こんな距離に好きな人が、愛している人がいるというのに、本当の私で触れないのはもう耐えられないわ。だからもう一度だけ言う。咲人くんにとって私がしようとしていることが辛いのであるのなら、私たちは別れた方がいいわ……いや、別れましょう」
と今にも泣きそうな顔で楠さんはいう。
すぐに別れる事を否定しようと思った。
それならそっちでいいから、と俺にとっての妥協案を選ぼうと思った。
だが、俺は答えを出すことができなかった。
「少し考えさせてくれ。そして、また連絡する。その時またここで答えを言わせてくれ」
と俺はその場を逃げるという選択肢をとった。
「わかった、連絡待ってる」
と楠さんはいう。
俺はすぐに楠さんの家を後にした。
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