第3話 楠さんとの関係
俺は前川さんに言っていないことがある。
最初の時点で、
だが、伝えられていない――それが現実であり、俺が俺自身を最低なクズ男だと認めざる負えないことであった。
――――
土曜日――楠さんと会う日を迎えた。
俺は目的地へと向かって歩いている。
その道中にあるコンビニを通り過ぎた時だった。
「やっときた。5分も待ったのだけど」
はぁ〜まったく……と一方的かつ独断で待ち合わせをした挙句、楠さんは文句を口にした。
「さっきLINEで家出るよと送った時、家で待ってるって言ってたけど」
俺は証拠にとLINEの内容を見せようとするも、すでにそのメッセージは送信取り消しがされていた。
「まったく……素直に謝ることもできないのね」
まぁ、気にしてないけど、といつもの口癖を楠さんはいう。
なんだか、俺が嘘をついているみたいになってしまっているが、こんなことは日常茶飯なのでスクショを撮ってフォルダーに保管してある。
だから俺が嘘をついていない証拠は十分にあるのだが、あえて言う必要はないだろう。
「ごめんなさい、代わりに何かデザートでも買って行こう。俺奢るから」
「なんでも謝ればいいってものでもないし、餌付けすればいいと言う問題でもないわ……」
ハーゲンダッツの苺で、と楠さんはコンビニの中へ入っていった。
思わずため息が出そうになるが、最初から俺にアイスを買って欲しくてこの茶番をしていたことはわかっていたので、おとなしく俺はコンビニの中へと入った。
――――
「お邪魔します」
と俺は薄暗い家の中へ声をかける――返事はこない。
「誰もいないわよ。お茶とか持っていくから私の部屋で待ってて」
いつも通りでよろしくね、と楠さんはいう。
「わかってるよ
と俺は楠さんの部屋へと先に向かった。
楠さんの家は、俺の家から徒歩圏内にあるこの辺りで一番高層で、綺麗なマンションの最上階で2階建て。
一軒家の俺と比べると天と地ほどの差があり、毎回俺なんかがここにくるのは、場違いなのではないかと思ってしまう。
だが、楠さんにそう言ったことを気にするような素振りもなければ、楠さんの家族に俺は大変良くしてもらっていた。
部屋に入ると俺はいつもの定位置に座る。
羽織っていた薄めのカーディガンを脱ぎ、鞄の上に置く。
そのタイミングで楠さんが部屋へと入ってきた。
「お待たせ、咲くん!」
ととても明るい声で楠さんはいう。
「いや、そんな待ってないよ渚」
ほらここに座りな、と俺は横を叩いた。
それはいつも部室で俺が楠さんに聞くような質問形とは異なり、ここに座ることが当たり前だと言うような命令形であった。
対して楠さんも、俺から逃げたり部屋を出ていったりすることはせず、
「うん!!」
と満面な笑みで俺の横に座った。
そして……
楠さんは俺の肩に頭を乗せ、俺は楠さんの頭を手で撫でる。
その瞬間確かに、俺と楠さんは触れ合ったのだった。
――――
改めて、楠さんの夢は女優になること。
その夢は小学生の時から楠さんが語っている夢であった。
なぜそこまで女優になりたがるのか――それは家族の影響を受けているというのが理由の一つに挙げられるだろう。
そんな楠さんは中学2年生の時、芸能事務所に所属をした。
楠さんのお父さんが社長をやっている芸能事務所だ。
楠さんは夢への第一歩を踏み出したのと同時に、最初の難関である、楠さんの人に近づけないという体質を理解してもらうという問題を難なく解決した。
さらに、楠さんのお母さんは元々その事務所の女優として所属していたらしく(そこまで売れることはなかったと言っていたが)、有名なドラマに出ることもあったそうだ。
楠さんのお父さんが病気で他界してからは、お母さんが社長兼楠さんのマネージャーとして楠さんの仕事を支えている。
そして、初めて楠さんや楠さんの家族は知ることができた。
演技の中でなら、楠渚は他人に近づくことができるということを……。
それこそ、俺が前川さんに言っていない、
俺は楠さんと幼稚園から高校までずっと一緒である――要は幼馴染。
俺はずっと楠さんのことを好きだったし、多分楠さんも俺のことが好きだった。
それでも高校になって付き合ったのは、楠さんの抱える問題について解決策が見えたのが、高校生に入り初めて女優としての経験を積んだからであった。
――――
「渚、なんかこの部屋暑くないか?」
と俺は聞く。
夏が近づいているため暑いのは仕方ないにしても、部屋で汗が止まらないのはどう考えてもおかしい。
「暑いよね?なんでだろ、」
暖房つけているからかな?、と何気ない顔で演技をしたまま楠さんはいう。
なんて器用な……と思いながら、暖房をつけている理由を俺は聞くこうとした――が、「咲くんなんで……って顔をしてる、可愛い。今日はこの作品のここを再現したいなって思ったの!」
と、楠さんに先読みされてしまった。
流石としか言いようがない。
そんな流石な楠さんが俺に見してきた内容は、少女漫画のとあるシーン。蒸し暑い部屋の中、暑さで頭がどうにかなってしまった2人が、暑い中で熱いキスをするというシーン。
普通の恋人なら、わざわざ暑い空間を再現しなくても熱いキスなんてものは簡単にできると思う……多分。
だが、俺たちの関係はそう言った行為を簡単にできるわけではない。
だからこそ、楠さんが積極的にこういったシーンを再現したいと言ってくれるのはとても嬉しいことだった。
にやけそうになるのを必死に堪えつつ、「しょうがない渚の頼みだ、やってあげる」と答えた。
「やった〜咲くんありがとう!」
と楠さんは喜び、そのまま目を瞑る。
先程チラッと見せてもらった漫画のシーンでは女の子の方からキスをしていたように思う。
それなのに何故か楠さんは目を瞑った。
さて、何故か――すでに答えはわかっている。
そう、何を隠そう彼女の恋愛脳は小学生並みなのだ。
もちろんキスなんか自分からやらない、わからない。
キスの何がわからないのか逆にわからないが、いつもこうなのだ。
そして、毎回結末も同じものとなる。
「まったく、しょうがないな……」
と俺は楠さんに顔を近づける。
どんどんその距離は近づき、あとほんの少し前に行けばキスができると言う距離まで近づいた。
楠さんの呼吸が早くなるのがわかった。
俺の心臓の音も大きくなる。
俺は尚も楠さんに近づく――と同時に手も動かした、机の下に。
よし、できる。そう思ったその時、「待って無理、」と先程までとは違う素の楠さんが声を発した。
これは合図だ。
楠さんの演技が終わりを告げた合図だ。
では、終わりを迎えた俺たちはどうなるのか――人に近づくことができない楠さんの近くに人がいる場合どうなるのか。
こうなる
「オェーーーー」
楠さんは盛大に吐いた。
俺が机の下から引っ張り出してきたビニール袋の中に吐いた。そして、ビニール袋を楠さんに渡し、速やかに俺は楠さんの部屋の入り口付近まで下がる。
「相変わらず準備がいいのね……」
と吐きつつ、合間で楠さんは言葉を投げかけてくる。
これまた器用なものだと俺は思った。
「まぁ、
と何の気なしに俺は答える。
「
私だってなりたくてこうなったわけじゃないの、と楠さんはいう。
しまったと俺は思った。
今のでは俺が皮肉を言っているみたいなものである。
本当に伝えたいことはそう言うことではない。
「ごめん言い方が悪かった。嫌とか思ってるわけじゃないから。楠さんが頑張ってくれているし、それを助けることなんて俺としては当たり前だし、むしろ積極的に助けたいと思うよ」
「そう、別に気にしてない」
と言う楠さんの顔は嬉しそうだった。
「咲人くん。私はこれでも貴方に触れたいと思っているのよ」
と楠さんが急に呟いた。
先程の一件があってから俺たちの距離は変わらず、演技をすることなく過ごしている。
「それはわかっているよ。だから演技してでもって考えてくれているんだろ」
と俺は答える。
「そう、わかってくれているのならそれでいいわ」
と楠さんはいう。
だが、言葉とは対照的に楠さんの顔がすぐれないこと、小さい声で、演技をしなくても触れるようになりたいのよ……と言う本音に、俺が気がつくことはなかった。
――――
「じゃ、俺は帰るよ。また月曜日学校でね」
と俺は立ち上がる。
「う、うん……またね咲人くん」
と下を見ながら楠さんはいう。
2階へと向かう階段の途中あたりから見送られ、俺は楠家を後にした。
帰り際、俺は思う。
前川さんの関係を抜きにして、俺と楠さんはうまくいっていないと……。
今日の楠さんは明からにいつもと違った。
違ったと言っても、俺たちのデートは毎回こういった形だ。楠さんの家へ俺が行き、恋人としての時間を演技をしながら過ごす。
この関係が、俺の思い描く恋人としての関係に程遠かったとしても、楠さんの横に居られるだけで俺は何も不満はない。
いやなかったはずだった。
最近は違った。
前川さんと関係を持つようになってからは違っていた。
楠さんとの関係に、俺は物足りなさを覚えていたのだ。
決して楠さんが変わったとか、俺が手を抜いているとかそんなことではない。
単純に前川さんとの関係が俺には刺激的すぎるのだ。
俺自身が前川さんとの関係にハマってしまっているのだ。
それを実感する度に、楠さんへの罪悪感で胸が潰されそうになる。
それでもやめようとは思えなかった。
前川さんのことを知ってしまって、楠さんのことが大好きだけどこのような関係で、この中でどちらかを選ぶなんてことは俺にはできなかった。
それこそ、前川さんのいう通りで今のこの状態は俺にとって、とても都合のいい状況だったのだ。
大好きな人と恋人でいられる――だが、恋人としての関係は築けない。
恋人にはなれない――だが、恋人同様の関係を築ける。
本当に最悪で最高な、ウィンウィン関係だよ。
俺はオレンジ色に染まる空を見ながら呟く。
「本当にクソだよ、月島咲人」
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