二回目の祭りの夜
糸木らしあ
二回目の祭りの夜
コウタは長い昼寝から目が覚めた。
社会人三年目になっても土曜出勤は慣れないし、行きたくもない。だからこそ絶対に仕事に行かなくていい日曜日が好きである。
こんなだらしない姿をあの頃のカオリが見たら、なんて言うだろうか?笑いながら起きろと蹴ってくるカオリの姿が目に浮かぶ。
「懐かしいな…」
ふと鼻の先がツンとした。
泣くほどではないが何とも言えない悲しさがある。
コウタはベッドから出て背伸びをした。目線を時計に向けるともう十七時を回っていた。
「やべ。さすがに寝すぎた」
この時間になるとそろそろ夕飯のことを考えないといけない。
冷蔵庫の中を確認してみるとほとんど食材がない。今日はスーパーに買い出しに行く必要がありそうだ。
コウタは一人暮らしを始めてから毎回この瞬間はなんか主婦になった感じがして、実家のお母さんの苦労を偲ぶようになっていた。
そして冷蔵庫を眺めながら、この後買う食材をメモしていると、さっきから部屋に差し込んでくる西日がうざく感じた。
カーテンを閉めようと窓に近づくと何か音が聞こえる。
「――何だ?太鼓?」
そのまま窓を開け下の通りに目をやると浴衣や甚平を着た人たちが駅前の大通り方面に向かって歩いていた。
今日は何の日だっけと思い、壁に掛かっているカレンダーを見る。
今日の日付に赤のペンで丸で印づけられていた。
――あぁ、そうだった。なんで忘れてたんだろ?
コウタはその誇張された赤丸を見ながら自分の情けなさに笑えてきた。
「なんでだろうな」
コウタの心の中にしまっていた思い出がこの瞬間に一気によみがえってきた。
「何やってんだよ。俺」
情けなさの笑みが悲しみへと変わる。
涙は出ようにも出なかった。何かが邪魔していたからではあるが、悪いものではない。むしろ希望だ。
コウタは作業デスク横の引き出しから手帳を取り出す。
自分の手帳ではない。猫のプリントシールが表に貼られた、明らかな女性もののカレンダー手帳である。
これはカオリの忘れ物だ。
三週間前、この部屋で彼女と口論になり、その結果別れた。正確にいえば連絡を取らなくなった。その時に彼女が忘れた手帳。
一瞬悪い気がしたが、コウタはその手帳を開く。
――やっぱり。
同じように今日の日付に大きく、ぐりぐりと丸がされていた。
なにせ今日は二人が楽しみにしていた町の祭りの日だったからだ。
「ねぇ、私たち最近デートどころか会うこともできてなくない?」
こんなカオリの一言から始まった気がする。
その日は彼女から仕事終わりに会えないかと連絡があったので、いつもより早めに仕事をこなし、帰路に就いた。
本来なら土曜日は彼女のように仕事が休みだが、今日も休みを削って働いていた。
彼女は僕よりも早く到着していたのか、ドアの前で僕を待っていたが、こちらに気づくと目をそらした。
「早く開けてちょうだい」
「分かった」
このときには何となく察していた。いつもの彼女と違う。
部屋に入るなり、二人は持っていた荷物を床に置いた。
少しの間何も話さなかった。
沈黙に耐えられなかった僕は、
「最近仕事はどんな感じ?ほら、前に先輩に上手く馴染めないって言ってたじゃん」
「別に。今は話せるようになったから大丈夫」
話が続かない。また静かになる。さすがに空気が重すぎる。
「カオリ。今日はなんの――」
「ねぇ、私たち最近デートどころか会うこともできてなくない?」
「えっ」
予想外の言葉だったが、今日に至るまでの状況を考えればおかしいものではない。
「最後にデートらしいことしたのいつ?三か月も前だよ。本当に私たち付き合ってるの?」
「確かに最近二人で出かけたりはしてないけど、ほら、毎月一回は必ずこうやって会ってるし、忙しいときでも電話してるじゃん」
「そうじゃない。そんなの友達でもできることだよ。私たちは恋人なんだよね?忙しいことを理由にしても月一回はありえないよ。ねぇ、もしかしてコウタはもう私のこと嫌いになった?」
「いや、そんなことは――」
「だってそうじゃん。互いの家なんて行く気になれば三十分もかからないのに。まぁ平日は互いに仕事があるから仕方ないとして、土日は?」
「土曜日はときどき仕事が入ったりするから」
「だったら日曜は空いてるじゃない。何なの?こっちがコウタのスケジュールをいちいち確認しながらデートに誘うの。で、毎回断られる。もう、私は限界なの」
このとき、僕が何を思ったのか、溜まっていた感情を暴発させてしまった。
「なんだよそれ。僕がカオリに悪いことしてるみたいじゃんか。僕は将来のために頑張ってただけなのに、そんな言い方すんなよっ!」
「は?意味分かんない」
「そのまんまの意味だよ。今後二人で生活するかもしれないからその時に困らないように稼いでただけ。土曜出勤もそう。僕が嫌な思いしながらも頑張って君のために稼いでたんだ。それが悪いのか?」
「それで私を蔑ろにしたってわけ?最低」
「なんで分かってくれないかなぁ!」
「そうやって自分の考えを押し付けるだ。ほんと、そういうところが嫌い」
「もういい!帰ってくれ!」
「そう。お望み通り出てくわ。…さようなら」
そう言うとカオリは置いてあったバッグを持って帰ろうとした。
ところが、持ち上げながら動いたせいか彼女は手を滑らせバッグを落とした。
中身が散乱する。
携帯、財布、本、ポーチを拾い上げるとこちらを見ることなく、出て行った。
手帳を忘れていることに気づかずに。
コウタは後悔の気持ちでいっぱいだった。
今でもカオリに対しての好きという想いは変わらない。
でも、あの日以来カオリとは会ってもいないし、電話もメッセージも送れていない。
喧嘩別れした日の夜にお酒に酔った勢いでスマホを海に投げてしまったからだ。
翌朝、海に飛び込んで探したが、流石に見つからなかった。
コウタはもう一度壁に掛かったカレンダーの赤丸を見つめる。
これは五月上旬の連休、つまり最後のデートの帰りに彼女が僕の部屋に来たときに、祭りに行こうと約束し、忘れないようにと彼女は手帳に、僕はこのカレンダーに印をした。
彼女が、
「今年も二人で絶対行こうね」
と、楽しみにしていたのを思い出す。
僕も楽しみにしていたし、今日の日を待ちわびていた。
しかし、あのとき想像もしなかった今を迎えてしまった事実がここにある。
コウタの心の中は喧嘩別れをした三週間前の自分に対しての怒りはもちろん、それ以上にこうして何も行動を起こせず、ただあの約束をなかったことにしようとする”今”の自分に無性に腹が立っていた。
ふと、開けっ放しの窓の外の音が先ほどよりも大きくなっていることに気づいた。
人の声も混じって祭り特有の喧騒が、このときの僕にとってはあまりに魅力的なものに感じた。
そして、コウタはざわめきに誘われたかのように部屋を飛び出した。
「――こんなとこ一人で来ても意味ないのにな」
コウタはそう言いながら多くの人で溢れた歩道を行く当てもなく歩き続けていた。
この賑わいの中ではコウタのジーパンと白T一枚の格好は浮いているように思えた。
周りにはカップルや浴衣女子のグループが笑いながら通り過ぎていく。
去年は自分はあっち側だったのに。
もうため息さえも出ない。情けない。
前を向いていると眩しい人たちが目に入ってくるので、コウタは目線を下に移した。
「俺は、どこに行こうとしてるんだ?」
涙で視界がぼやける。行き違う人と肩がぶつかる。
何もかもが最悪に思えた。
――もう嫌だ。帰ろう。
そう心の中でつぶやいたその時だった。
今すれ違った人たちの中にカオリがいたような感じがし、急いで顔を上げて振り返る。
一瞬だった。でも、間違いなかった。彼女の後ろ姿だ。
コウタは引き返そうとしたが、思った以上に流れの押しが強く、すぐに追いかけるのは無理だと悟った。
そこで大きな通りを避け、横の路地に入る。
この町に土地勘があるあるとはいえ、ここの路地には初めて来た。
薄暗く、どこに繋がっているか分からない道は流石に怖い。
それでもこの機会を逃せばもうカオリと関わることはないと直感的に思えた。
だからこの想いが無くなる前に彼女に会いたかった。
「カオリ。諦めの悪い男でごめんな」
そうポツリとつぶやいた。
ただ会いたいという衝動を胸にコウタは走る。
暗がりで熱いキスを交わすカップルが視界に入る。
カオリとの最後のキスがリアルに切なくよぎったが、振り払って路地を抜ける。
見た感じではこちらの通りは比較的人が多くない。
「どこにいるんだ?」
彼女の特徴はあの一瞬で何となく捉えていた。
青色の浴衣に茶色のボブヘア。最後に会った時とほとんど変わっていなかった。
コウタはそれに似た人を見つけては顔を確認し、徹底してカオリを見つけ出そうとしていた。
「カオリ~っ。いたら返事してくれ~っ」
その声は多くの人が振り向くほどには大きなものであった。
だが、この五万人の人の中から一人を探すのはあまりにも無謀だった。
「まもなく、フィナーレとなる打ち上げ花火が始まります」
そんなアナウンスが聞こえてきた。
もう、しらみつぶしに探すのでは間に合わない。
焦りを感じているのか、息遣いが荒く、周りを冷静に見れなくなっていた。
「落ち着け」
そう自分に言い聞かせ、混乱する脳にゆっくり考える時間を与える。
彼女が花火を見ると仮定して、どこで花火を見るだろうか?
――そういえば、初デートは去年のこの祭りだったな。
ふと去年の思い出が浮かんできた。
そしてこの瞬間、カオリの居場所が分かり、コウタは走り出す。
町の中心部から少し離れた公園にカオリは来ていた。
辺りは住宅街となっていて、さっきまでいた大通りと違って人も灯りもほとんど感じない。
ここに来た理由はただ一つ、
「もしかしたらコウタに会えるかも」
という僅かな希望を信じてみたいと思ったからだ。
この公園は二人の初デートの終着点だった場所であると同時に、コウタから告白を受け、交際が始まった場所でもある。
去年の春、二人は共通の友人の紹介により知り合い、それからはメールを通じて仲を深めていった。
どちらも自分からなかなかデートに誘えず、気づけば夏を迎えていた。
ある日、カオリは駅で見かけた祭りのポスターの話をした。
コウタはこれをいい機会に彼女をデートに誘い、初めての約束を結ぶことができた。
祭り当日は序盤の緊張感を途中で忘れるくらい楽しんだ。
だが、終盤の花火の打ち上げの時間が近づくにつれて人が増えていき、その多さにカオリは疲れてしまった。
そのため花火を見るのは諦め、コウタのアパートのある住宅街へと向かった。
途中で公園があったので一旦そこのベンチで休むことになるのだが、その公園が彼女が今いる公園である。
「もう花火の時間かな…」
カオリはボソッとつぶやき、上を見る。
雲一つなく、完璧な星空が広がっていた。去年の空もこんな感じだった気がする。
あの時感情を上手くコントロールできていれば喧嘩も大きくならなかっただろうし、今回の祭りも二人で来るはずだったのにと後悔が胸に残る。
「――ここに来たって一人じゃ意味ないのにね」
ベンチに座ろうとしたが、座ったらもう立ち上がれなくなると思い、そのまま帰ることにした。
「コウタ。もう会えないのかな?あんな別れ方は嫌だよ」
ポロポロ涙が出てることには気づいていたが、止める術が分からなくなっていた。
遠くからドーンと花火の音が鼓膜に響くが、見たくない。
顔を下に向けたまま、帰ろうとと歩き始めた時だった。
「カオリ!」
聞き覚えのある声、いや、待ち望んだ声が聞こえてきて前を向くとやはり彼がいた。
コウタは走ってカオリを抱きしめる。
「どうしてここが分かったの?」
「そう言うお前こそここに来ると信じてたからここにいるんだろ?」
「あーあ。私コウタがそばにいないとダメみたい」
この時にはカオリの涙も止まっていた。
二人は長い抱擁から体を離すと互いの顔を見てニコッと笑った。
「あーそうだ。ほら、花火。見てみて」
コウタはそう言いながら指をさす。
その方向にカオリが目を向けると、さっきまで見たくもなかった花火が市街地の中層ビルの間から綺麗に見える。
「この公園は会場から離れているのに、十分なくらいよく見えるな」
「そうだね。…わぁー。去年と変わらず綺麗だねー」
「いや、去年と違うと僕は思うよ」
「えっ?」
「去年は初めてカオリと一緒に見た花火だけど、今日の花火はカオリと見た二回目の花火だから違って見える。この先僕たちが年を取って変わっていくように花火の見え方も変わっていくと思うんだ。それでも、僕の隣に変わらずカオリにいてもらいたい。ダメかな?」
「――ダメなわけないじゃん。これからも一緒に見ようね」
そう言われて照れそうになり、コウタは視線を花火に戻す。
カオリはそんなコウタを見て嬉しそうに彼の頬にキスをした。
二回目の祭りの夜 糸木らしあ @itoki_rashia
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