赤い塗り絵

あべせい

赤い塗り絵


 

 住宅街にある10数人程度で満卓になる小さな喫茶店「赤い塗り絵」。おかしな店名だが、ランチタイムになると、店内はごった返す。

 この日も……。

「カレー、お願い」

「こっちも、カレーだ」

「マスター、カレーがおそいぞ」

 喫茶店なのに、お昼の注文はほとんどがカレーで埋まる。

 ところが、その40代半ばの男性客は、

「コーヒー、ブラックで」

 とオーダーして、キッチンにいるマスター古尾皮衣(ふるおかわい)の注意を引いた。

 その客は、10時の開店と同時にやって来た。やはり、初めにカレー、しかも、300円も高い大盛りを注文した。あれから、2時間以上、経っている。

 ウエイトレスの果菜(かな)が、カウンターの中にいる店主の前に置いた伝票を見ると、これが3杯目のコーヒーだとわかる。

 そのお客の席は店の奥の隅。2人掛けのテーブル席だが、入り口から最も遠く、入り口やキッチンが見える位置の椅子は、後ろにトイレのドアがあるためスペースにゆとりがなく、かなり窮屈な思いを強いられる。だからだろう、このテーブルを2人で利用する客は滅多にいない。

 いまこの男性客も、テーブルを少し前に押しやり、入り口が見える向きに、窮屈そうに腰掛けている。

 このため、マスターの位置からは、テーブルのようすや客の顔をよく見ることができない。

「果菜ちゃん、あがったよ」

 マスターに言われて、果菜がコーヒーをトレイに載せ、男性客のテーブルに行った。

「お待たせいたしました」

 果菜はそう言って、男性客の前にコーヒーを置いた。

 男性客はちょっと会釈しただけ。あとは無言、考え事をしている風だ。

「こちら、お下げしてよろしいでしょうか?」

 果菜はそう言って、返事を待たずに、空になっているカレーの容器に手を伸ばす。

「ダメだ! 残っているだろう!」

 男性客は、吠えることしか知らないバカ犬のように、突然果菜に食って掛かった。

「ハァ?」

 しかし、カレー容器には、スプーン1口分ほどしかカレーが残っていない。ご飯はきれいに平らげてある。

 しかも、注文を聞いてカレーを出してから2時間以上たっている。すっかり冷えて、食べられた代物ではないだろうに。

「失礼しました」

 果菜は、踝を返すと、こっそり口を尖らせて、マスターのいるキッチンカウンターの前に戻った。

「ヘンな客……」

「どうした、果菜ちゃん」

 マスターの古尾は、顔をしかめている果菜を見て、ハートにギュッとくるものがある。

 女房に逃げられて2年。ウエイトレスは果菜で3人目だが、彼女が最も気が利いて、よく働く。年は古尾より一回り下の28才だ。

「だって、あの奥のお客さん、もう空なのに、カレー容器を下げようとしたら、ダメだって」

 古尾は、手もとしか見えない男性客のほうにもう一度、目をやった。

「いろんなひとがいるよ。それより、もうそろそろだ」

「マスター、そうでしたね。わたし、化粧しとかなくちゃ」

 果菜はそう言って、カウンター横に付いている半畳ほどの更衣室兼事務所に消えた。

 時計を見ると、午後1時少し前。


 それから10数分後。男2人、女1人の3人連れが店に入ってきた。テレビカメラに録音機器、キャッチライトなどを手にしている。

 3人の中の先頭にいる中年男が、キッチンの中を覗き込んで話しかける。

「ディレクターの定宮です」

 カウンターの中から、古尾は首をひねりながら、

「この前の人は?」

「カレは家庭に不幸があって、急に来られなくなりました」

 不祝儀なら仕方ない。古尾は納得したが、約束が引き継がれているのか、不安が残る。

「それはいいけど、話したことは聞いているよね」

「勿論です。すべてマスターのおっしゃる通り取りはからいますから。お任せください」

 定宮は、芝居っけたっぷりに、拳で胸を叩いた。

 古尾はその仕草に、却って不安をかき立てられたのだが。

「厨房のほうはホールが空いてからということにして、先に混み合っているホールのようすを収録してはどうですか?」

 古尾の提案に対して、定宮は了解したのか、返事することもなく、アゴで女性カメラマンの栗咲と音声の梨木に指示、ホールの通路に移動した。

 この日、テレビ番組の取材があることは、入り口のドアに、次のような貼り紙でお客には前もって知らせてある。

「本日、午後1時から2時間余り、さくらテレビの人気情報バラエティ『とことん知っ得』の番組取材が入ります。その時間にご入店いただいたお客さまには、取材にご協力いただけるものと考えます。ご理解のうえ、よろしくお願いいたします。店主」

 顔を写されて困るお客には、この日のランチタイムに限り、遠慮してもらう。古尾はそう考えている。

 取材を受けたのは、店を宣伝したいという気持ちからではない。宣伝しなければいけないほど、店は困ってはいない。本当は……。

「ミヤちゃん! こっちこっち」

 大きな声がした。古尾は考えを中断して、声のしたほうに顔を振り向けた。

 奥の2人席に腰掛けていた男性客が振り向いて、ディレクターの定宮を手招きしている。

「佐倉さん、ですよね」

 男性客は佐倉という名前のようだ。

「定宮さんでしょう。急に代わるって事務所から電話があって。事情は聞いています」

 佐倉は親しげに話す。定宮とは初対面だが、ミヤちゃんとちゃん付けして、親近感を示したのだ。

 しかし、定宮に通じているのか。

「佐倉さん。前乗りですか。探していたンですよ」

 定宮は、佐倉に歩み寄り、向かい側の椅子の前に立った。

「ごめん、ごめん。駅前集合と聞いていたけど、この店、前から気になっていたから、ちょっと早めに来てみたンです」

 佐倉は頭をかいてみせる。

 定宮は、佐倉の向かい側の椅子を引き、狭いスペースだが、窮屈そうに腰をおろすと、煙草に火をつけた。

「先に店の外観と店内のようすを撮って、それからレポートにしますから」

「定宮さん、左近と呼んでください。ぼくも、ミヤちゃんと呼ぶから」

 佐倉のフルネームは佐倉左近らしい。

「そう。じゃ、左近ちゃんは、それまではここにいてよ。後ろ向きに腰掛けていたらわからないから。声をかけるまでこのままでいいです」

 定宮は、うまそうに煙草をくゆらせながら、進行について話している。

 そのようすを眺めていた古尾は、果菜に目で合図した。勝手なことをほざく野郎だ。この時点で、こちらの思い通りに番組収録が行われることが期待できなくなった。

 果菜は、定宮のところに走り寄ると、険しい表情で、

「午後2時まで、店内禁煙です!」

 と告げ、手に持っていた灰皿を突き出す。

「そうなの? でも、いいじゃん。きょうは取材なンだからさ」

 定宮は煙草を消そうとしない。果菜は背伸びしてカウンターを振り返ると、大声で言った。

「マスター! このお客さん、言うことを聞きません!」

 古尾はカッときた。元々彼は短気だ。前の女房が逃げたのも、彼の短気がもとだった。

 古尾は腰に巻きつけているサロンを手早く外し、勢いよくカウンターから出た。

 彼は180センチを超える長身だ。背が高いだけではない。肩幅もあるから、巨漢といっていい。その男が、テーブルとカウンター席の間の細い通路を大きな足でゆっくりと歩いて行く。

「あんたッ!」

 古尾は定宮の目の前に行くと、狭い喫茶店に響き渡る野太い大声でどなった。

 その瞬間、店内のざわめきが凍り付き、静寂が支配した。

 マスターの豹変ぶりに恐れをなしたのか、客が続々と席を立ち、レジィに行く。

「ウッ、なンですか」

 定宮が立ち上がった。

 左手の指に挟んでいる煙草が小刻みに揺れている。

「『禁煙』と書いとろうが。あれが、見えんか!」

 古尾は、A4の紙にパソコンで大きく印字した「禁煙」の張り紙を指差す。店内の壁3ヵ所に張ってある。

「ハイッ!」

 定宮は、古尾のいかつい顔で、上から覆い被されるようにして睨まれたため、直立不動になった。火の点いた煙草は、握り締めた左手の中だ。

「アッツッィー!」

「どうした。暑いか。冷房はしっかり入れてあるゾ」

「ハイ、ありがとうございます」

「早く収録して帰れ!」

「ハイ」

 定宮はようやく、仕事を思い出したようにカメラの栗咲と音声の梨木に指示。店内は、すでに潮が引いたように客の姿はなく、閑散としている。

「ここからはポイントだけ撮影するから。左近ちゃん、マスターに人気のカレーのレシピを聞いて。そのシーンから。クリちゃん、カメラいいね」

 定宮はようやく仕事のカンを取り戻し、体勢を立て直した。

「ミヤさん、いいですよ」

 クリちゃんと呼ばれたぽっちゃりタイプのカメラの栗咲が、マスターにカメラを向ける。

 それまで、定宮の前で硬直していた佐倉が音声の梨木からハンドマイクを手渡され、古尾の横に並んだ。

「ここじゃ、まずいだろう。おれはカウンターの中に入る」

 と古尾。

「そ、そうですよね。クリちゃん、そうしよう」

 と、定宮。

 こうして、喫茶「赤い塗り絵」の名物カレーの取材が始まった。

 左近が、カウンターの外からマイクを差しだし、

「マスター、この店は、コーヒーよりも何よりも、カレーを食べに来られるお客さんが多いと聞いています」

「あんたも、一緒にいたから見ただろう」

「は、はい。拝見しました。みなさん、おいしいおいしいと言って、召しあがっておられました」

「あんた、何年レポーターやってンだ」

「はァ?」

「はァ、じゃない。おいしいおいしいなんて言いながら食べるやつなンかいない。本当にうまいときは黙って食うもンだ。違うか」

「はッ、ハイ。そうです。お客さんは黙々と召しあがっておられました」

「あんた、俳優だって?」

「エッ!?」

 佐倉は想定外の質問に、うろたえた。

「エッ、じゃない。店に入ってきたとき、見覚えのある顔だと思ったンだ。あんたがその本人と気がつくまで、しばらく時間はかかったがな」

 佐倉は何が始まるのか、頭をフル回転させるが、何も思いつかない。

「おれは女房に逃げられてから、滅多にテレビを見ないから、最近のことはよく知らない。しかし、10年以上前は、あんたもときどきドラマに出ていたよな?」

「その頃はレギュラーが3本あって、パイロットと医者と、熱血刑事をやらせていただいておりました。なかでも、熱血刑事役は去年、ドラマの中で殺されるまで、13年やらせていただきました」

 左近は自慢気に、胸を張った。

「そうだ。刑事だ。やたら走り回るだけの、頭の悪そうな刑事。セリフは、眉間にシワを作って、なんでもないことでも勿体ぶってしゃべり、いい気になっている」

「エッ……」

「困ったことに。あんたのその刑事にうちの女房が夢中になったンだ。ファンレターを何通も出していた。覚えているか」

 佐倉はただならぬ気配に、口を閉じた。

「覚えていないだろッ。ちっとも返事が来ないと言って、あいつはぼやいていた。しかし、1年半ほど前になるか。あんた、うちのやつに、どういう風の吹きまわしか、手紙を寄越しただろう」

 佐倉の顔色が青ざめていく。

「マスター、ちょっと待ってください。クリちゃん。カメラ、いいから」

 定宮が栗咲に目配せをした。

 栗咲は肩からカメラを下ろし、音声の梨木は録音スイッチを切った。

「マスター、その話はいま必要ですか?」

 古尾は、キッと振り向いて定宮を睨む。

「もうすぐわかる。カメラは止めるな。余計なところはあとで編集すれぱいいだろうが!」

 その声で、栗咲と梨木は再び仕事の体勢に戻った。

「その頃から、うちのやつがおかしくなった。テレビであんたの顔を見ると、腑抜けのようになって、サコンちゃん、サコンちゃん、と寝言でも言うようになった。それからまもなくだ。あんたの話はピタリとしなくなった。テレビにあんたが出ても反応しない。ところが、しばらくして、同窓会だ、ともだちの結婚式だとか言って、やたら外出が多くなった。あとはわかるな。半年前、女房は『しばらく勝手をします』と書き置きだけを残して、家からいなくなった」

 佐倉は、つぶやくように、

「こちらが、彼女の……あなたが前のご主人。カレーの味が似ていたから、おかしいと思ったンだ……」

「今ごろ気がついたのか。あんた、ってテレビで見る以上に鈍いンだな」

 佐倉は渋い顔をして下を向く。

「左近ちゃん、この店のレポートを左近ちゃんに決めたのは、こちらのマスターのご指名があったからなンだ。仕事を引き継いだとき、そう教えられたよ」

 定宮が脇から口を添える。

「グルメレポートの仕事、ってやったことがなかったけれど、ドラマの仕事はどんどん減っているから、これからはレポーターで行ければと思って、受けたンだ、ミヤちゃん」

 左近はそう言い、すっかり萎れている。

「理江(りえ)は元気にしているか?」

 理江は、古尾から逃げた女房のようだ。

「エッ、はい。彼女、昔タレントをやっていたンです、って?」

「ポッと出の売れないタレントだった。おれは当時、そこにいる彼女と同じテレビカメラマンだった。10年やっていたが、ヤラセ問題にひっかかったのに嫌気がさして、理江と一緒にこの店を始めた」

「それで、テレビ取材のことをよくご存知なンですか……」

 定宮は、古尾に関心をもったようすで、尋ねる。

「マスターは、この左近に嫌味を言いたくて、こんどの取材を受けられたンですか?」

「定宮さん。おれはそんなケチなことであんたらを呼んだンじゃない。もっと大事なことのためだ。あんたらが必要なのは、カレーの情報だろう? なんでも聞いてくれ」

 定宮は、古尾の魂胆を怪しみながらも、

「では、ここから本来のグルメレポートに入ります」

 定宮は佐倉にキューを送る。

 佐倉は、引きつった顔を、無理やり笑顔に切り換える。

「マスター、コーヒーより人気のカレーについてうかがいます。メニューを見ますと、ただ『赤い塗り絵カレー』とあるだけで、カレーは1種類しかございませんが、どうしてですか?」

「よそでは、チキンカレーとか、ポークカレーとか言っているが、うちはこれしかない」

「レシピはマスターが?」

 古尾はニヤッとして、

「逃げた女房が作ったカレーだ」

「ゲェ、理江が……」

 佐倉は何も言えなくなる。

「左近ちゃん、こんなところで、個人の名前を出したら使えないだろッ。やりなおし」

 佐倉は気を取り直して、

「すいません。……出ていかれた奥さまがお作りなったカレーですか?」

「あいつが残して行った唯一の価値あるものだ」

「レシピの中身は?」

「野菜は、ジャガイモ、玉ねぎ、人参、セロリー、アスパラ、キャベツ、ほかに、旬のものならなんでも使う。ただし、全て細かく砕いてからだがな」

「お肉は?」

「それは企業秘密だ、なンてことはおれは言いたくない。秘密は何もない。ないが……テレビでは言えないものだ」

「言えない、って、どういうことですか?」

「言ったら、テレビで放送できない、ってことだ」

「そんなお肉ってありますか? 爬虫類とか昆虫、ですか?」

「爬虫類や昆虫なら、大威張りで言える。だから、ヤモリでもゴキブリでもない」

「それじゃ?」

「家に帰ってから、あんたの大事な女房に聞いてみな。もっとも、最近はなかなか手に入らない。おれが困っているって、言ってな」

「レポートを始める前に、こちらの人気のカレーをいただきましたが、ぼくがふだん家で食べるカレーにそっくりなので、不思議な気がしていました」

「当たりまえだ。あいつが考え出したカレーだからな」

「彼女、カレーに使う肉は、いまは、なかなか手に入らないとこぼしています。でも、何の肉か、教えてくれない」

 定宮が口を挟む。

「左近ちゃん、お肉は企業秘密にして、ここはまとめてしまおう。あとは編集でうまく処理するから。マスター、もう一度振りますから、企業秘密ということにしてください。左近ちゃん、続けて……」

 佐倉が気合いを入れ直して、

「マスター、カレーにお使いのお肉は何ですか?」

「その前に、うちの優秀なウエイトレスを紹介する。果菜ちゃん、こっちに来て」

 古尾は突然、果菜を手招きした。

 それまで、カウンター横の壁に張りつけてある小さな鏡と何度もにらめっこしていた果菜が、飛びっきりの笑顔をつくり、キッチンの中の古尾の横にピタリと並んだ。

「逃げた女房に言いたいことがある」

 定宮と佐倉が、古尾の改まった言い方に緊張する。

「理江、よォく聞け。こんど、この果菜と一緒になる。若いが、おまえのような尻軽じゃない。これから離婚用紙をおまえの同居人に持たせるから、そこに署名捺印して送り返せ。それだけだ」

 定宮は、ここにきて、古尾が番組取材を受けた理由をようやく理解することができた。

 果菜がニッコリして、

「奥さま。そういうことです。わたし、若いけれど、カレを深く愛しています。それに、奥さまが考案なさったカレーの作り方も、教わりました。お肉のことも。でも、わたしは奥さまとは違います。お肉は市販のお肉を、これから少しづつ足して、その割合をふやし、近い将来は市販のお肉だけにするつもりです。人気のカレーでなくなるかも知れません。お客さまは減るでしょう。でも、いいンです。このまま、奥さまのおっしゃるお肉にこだわっていたら、たいへんなことになってしまいますから……」 

 定宮はハッとする。

 佐倉は、突然吐き気を覚える。

「その肉、っていうのは……」

 古尾は、果菜のことばを引き継ぐ。

「そうだ。その肉は、東京のどこにでもいる……」

「それ以上、いわないでください。放送できなくなります」

 定宮が制止する。

 しかし、古尾はやめない。

「定宮さん。カラスやネズミの肉じゃないよ。安心しろッ」

「じゃ、その肉って?」

「ひとつヒントをやる。うちの喫茶店の名前を考えればわかる。あとは、企業秘密ということにしておくか」

 すると、佐倉が、

「それが、企業秘密ですか」

 果菜が、笑って、

「企業秘密というのは、本当は言えるンだけど、それを言ってしまうと、迷惑のかかる人がいるときに使うの」

「カレーの肉がわからない」

「まだ、わからないの。うちのお店の名前をひらかなにしてみて……」

「『あかいぬりえ』でしょ……!」

 佐倉は答えにたどりつくなり、口を抑えてその場にうずくまった。

                 (了)

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