第9話
***
そして三日が経ち、夜会当日の夕刻。
(本当に間に合わせるとは……)
扉の外で警備しながら、ギルバートは人の熱意というものに舌を巻いていた。
連絡を受けてすぐフロース城へやってきたオリビアの従姉妹は、興奮した様子で注文の礼を述べ格安で引き受けることを約束すると、手早く採寸とデザイン画のラフをして、飛ぶように帰っていった。そして、十分な時間がなかったにもかかわらず、当日である今日のお茶時には仕上がったドレスを持ってきたのだった。
ミリアナは、ドレスが間に合わなかったら、それを口実に夜会を欠席しようとしていたらしい。
しかし、ドレスは間に合ってしまった。
これは仕方がないと諦めたか、今、扉の向こうで侍女たちに着付けられている。
(どのようなドレスなのだろう)
準備が終わるのを少し楽しみにしている自分に気づき、ギルバートは慌てて首を横に振った。
(オリビア殿の従姉妹殿のドレスが気になるだけだ)
王宮の夜会でお披露目されるとなれば、腕を奮ったはず。その出来がどんなものなのか、気になるだけ。そう、自分に言い聞かせる。
次の瞬間だった。
「きゃっ……!?」
扉の向こうで、侍女の驚いたような声が上がった。
「!」
即座に帯剣の柄を握り構えるが、扉の先でそれ以上の物音はしなかった。何者かが入り込んだわけではないようだ。
代わりに、緊迫した空気が流れてくるのを感じた。中で「何か」が起こっている。
淑女が着替えているかもしれない場に、軽率には踏み込めない。
しかし、ざわざわとした嫌な空気が消えない以上、看過することもできない。
ギルバートは意を決すると、ノックののち、扉を開けた。
「――失礼いたします! 今、声が――」
その部屋には、ミリアナの準備を手伝うために五名の侍女が集められていた。
仕切り役のオリビアが、十数分前、人に呼ばれて部屋を出ていったため、そこには五名の侍女たちしかいなかった。
彼女たちは皆若いが、普段からアロイスやシフルティアの準備を手伝っている者ばかりだという。貴人の前でのふるまいは完璧のはずだ。
そんな彼女たちが、驚きを隠せず硬直していた。
彼女たちの視線の先には、淡い色合いのドレスを纏った淑女がいた。
髪を結い上げたことで細い首筋と白い
化粧を施すため鏡台の前に着席していたミリアナが、ギルバートが入ってきたことに気づいておもむろに振り返った。
ハッとした。
あの、特徴的な、渦を描いたような眼鏡をかけていない。
どうやら侍女の一人が、これは外しましょうと眼鏡を取ったようだった。その証拠に、ミリアナが普段かけている分厚いグルグル眼鏡を、侍女の一人が持っている。――硬直したまま。
「――……ギルバート様?」
ミリアナは、可憐な淑女に早変わりしていた。
化粧を施していることもあるかもしれないが、整った目鼻立ちをしていた。控えめながらも可憐なドレスがよく似合い、一瞬見惚れる。
一方で、侍女たちが声を上げた理由がわかった。
〝眼〟が。
「――虹色の……瞳……?」
隠されていたミリアナの瞳は、ゆらゆらと揺れて虹色に輝いていた。宝石に喩えるならオパール。光が絶えず揺れ、色が蠢いている。人のものとは思えない瞳。それを見て、侍女たちは凍りついてしまったのだろう。
驚くギルバートを見て、ミリアナが、小さく微笑む。
少し、寂しそうに。
「……〝魔眼〟ですぅ」
夜会は煌びやかに、滞りなく始まった。
アロイスは同年代の貴族子息に囲まれ、グラス片手に歓談している。
定例で開かれるこの夜会には、上級官僚や貴族らの子息・令嬢も多く参加している。老若問わず、夜会としてはフランクな部類だ。食事も立食式で、参加者たちは思い思いに会話と食事を楽しんでいた。
ふとやった視線の先にギルバートとミリアナの姿を見つけたため、アロイスは断りを入れて子息たちの輪から離れた。
「ミリアナ嬢、来てくれたのだな」
「アロイス殿下、この度は夜会へのご招待、過分なご配慮いたみいりますぅ」
ミリアナは普段の黒っぽいローブ姿から様変わりし、優しい色合いと可憐なデザインのドレスに包まれていた。
奥の見えない分厚いグルグル眼鏡だけは健在でドレスに不似合いな気もするけれど、それがなければミリアナとわからなかったかもしれない。
「ドレスは間に合ったのだね。急な話だったから、こちらで手配するつもりだったのだけど」
「侍女のオリビアさんの伝手で、ご用意いただきましたぁ。オリビアさんは本当に有能な侍女さんですねぇ。殿下が羨ましいですぅ」
「ははは。よく似合っているよ」
「光栄にございますぅ」
チラチラと、アロイスとミリアナを見る目があった。
アロイスは年頃だが、まだ婚約者が決まっていない。親しそうな令嬢は誰であっても気になるらしい。
それに気づいて、アロイスは早々に会話を切り上げることにした。
「あまり話し込まないほうがよさそうだ。では、ミリアナ嬢、ささやかな席だが楽しんでいってくれ」
「そうさせていただきますぅ」
慣れないドレスの裾を持ち上げて腰を折り、ミリアナはアロイスを見送った。
「ささやかな席……ですかぁ。フルーレは順調に豊かさを積み上げていますよねぇ。いいことですぅ」
大国と呼ぶには小さいが、フルーレ王国は強国だ。ローズベルン王家を中心に、優良な統治を行っていると近隣諸国からの信頼は厚い。
国王に至っては、大陸の大半を支配する「グロア帝国」の皇帝からも助言を求められるほど信頼されているという。
出ている料理も贅を尽くされてはいるが、浪費はされていない。王家の権威を示すだけの見栄えや味を研究しつつ、使っているものの多くは国で生産された地物や特産品だ。鮮度が高く、かつ各地方のアピールも忘れない。不意にアロイスの抜け目なさそうな笑顔が脳裏に浮かんだ。
「……えぇ。そう思います」
ミリアナの護衛としてとはいえ、夜会に出席するため、ギルバートは騎士団の正装を纏っていた。
彼の不参加がご令嬢たちの反発を招きかねない、などという話を小耳に挟んだけれど、それも納得の見栄えだった。
精悍な顔立ちにスラリと高い背。鍛え抜かれ均整のとれた身体は、ただ立っているだけでも貴族の子息では持ちえない頼もしさを感じさせる。漆黒の髪は夜空のようで、夜会の場では
しかし、その麗しい騎士の瞳は愁いを帯びていた。
明らかに数時間前のことを気にしている。
あのとき、眼鏡を取ったほうがいいと勧める侍女たちをもっと上手く言いくるめられていたらよかった、とミリアナは思った。そうしたら、ギルバートに余計な負い目を背負わせずに済んだのに。
謝りたいけれど、夜会が終わらない限りはなんともしがたい。
国王陛下と王妃殿下がいらして挨拶が終わるまでは、この場に留まっていなければならない。
「おいしそうなお料理やお菓子もいっぱいありますねぇ。ギルバート様のオススメはありますかぁ?」
気を遣われていると思ったか、ギルバートの顔に苦笑だが笑みが戻った。
「取り分けてまいりましょうか」
「お願いしますぅ。わたしはあちらのソファーで待っていますねぇ」
「――できれば、あまり離れないほうが」
「これだけ人がいたら、滅多なことはできませんよぉ。まだ解読も済んでいないのに、わたしに危害を加えるとは思えませんしぃ」
「しかし、水の件もあります」
騎士団のほうでも調べているが、夜会の準備で人手が不足していることもあって、調べはあまり進んでいなかった。
解読が終わるまでは、命を狙われるようなことは起きない。それはその通りかもしれないけれど、水を落とした犯人が別人だとしたら、違う理由で狙われる可能性が残っているということになる。今は、そちらのほうが心配だった。
ポン、とミリアナが手を叩いた。
「そうでしたぁ。そちらの犯人はわかっているんですぅ」
「えっ!?」
「こちらへ来る前に、オリビアさんが教えてくださいましたぁ」
準備の際、オリビアが席を外していたのは、その情報を知己の侍女から受け取るためだった。戻ってきたオリビアは同僚たちの失礼を何度も謝ったあと、判明した犯人をミリアナに教えてくれた。――大体、ミリアナが思っていた通りだったけれど。
オリビアがギルバートに話さなかったのは、時間がなかったことと――彼女なりの気遣いからだろう。
「一体、誰が」
「夜会が終わったらお知らせしますぅ。ともかく、危険な目に遭うことはありませんから、おいしいお料理とお菓子、お願いしますねぇ」
ミリアナは、バルコニーへと続く大窓近くのソファーに腰を下ろした。
ここからは大広間全体が見渡せる。
淑女たちの夜会服は華やかで、紳士たちの正装も引き締まって見える。眺めているだけでも楽しい。
(この中に犯人――アーティファクトの解析を目論んでいるほうの犯人さんはいるのでしょうかぁ。様子を見に来ているかもしれませんねぇ。姿を偽って……)
侍女に変装した犯人は、性別さえもあやふやだった。騎士に扮することもできるだろう。なんらかの行動を起こしてくれれば話は別だが、捜して見つかるとは思えない。一先ず諦めて、料理が届くのを待つことにした。
「――おひとりですかな」
声に気づき顔を上げると、ヴラル宰相がグラス片手にミリアナを見下ろしていた。
変わった意匠のテールの長い正装を着ている。高位の官吏であることを示す藍色の宝石でつくられた飾り紐が、威厳ある彼の面立ちを変わらず宰相たらしめていた。
「はいぃ」
「不用心ですな」
「騎士様がたくさんいらっしゃいますから、大丈夫ですよぉ」
ミリアナがそう答えると、ヴラルは靴の
「陛下より、貴殿のことをお聞きしました」
「……そうですかぁ」
「貴殿も人が悪い。殿下にお伝えすれば、相応しい場所を用意しましたものを」
「今の待遇に文句はありませんし、大ごとにする必要もありません~。と言いますか、わたしはそんなに大した者ではありませんからぁ。ご挨拶できず申し訳ございませんとだけ陛下にお伝えくださいぃ」
「欲がありませんな。……アーティファクト解析の目途は?」
ざわざわと声さざめく夜会の大広間。どの貴人も、宰相閣下が見慣れないグルグル眼鏡のご令嬢と話し込んでいることになど気づいていない。
「そうお待たせすることはないと思いますぅ。なので、そろそろ警備の強化をお願いできればと思いますぅ。相手が何を持ち出してくるか見当がつきませんのでぇ」
「貴殿にもわからないことがおありとは」
ヴラルの唇に微笑が浮かんだ。嘲笑ではなかったが、疲れたような顔立ちのせいか彼が笑うと皮肉めいたものに見える。
「わたしはあくまで〝触れることを許された者〟。万能ではありません~。王宮の警備はそちらの領分。宰相様の手腕に期待しておりますぅ」
「……では、そのようにいたしましょう」
コッ、と靴音を響かせ、ヴラルが傍らから去っていく。
お偉い人との会話は、少しのあいだであっても気が張り詰める。
ミリアナはシャンデリア輝く天井に向かって、ふぅと小さく息を吐いた。
「とうとうバレちゃいましたかぁ」
そう、呟きながら。
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