第8話
それから一週間近く、ミリアナは作業部屋に缶詰め状態になった。
散歩に出る時間も惜しみ、朝から晩まで書斎机から離れない。
部屋から出るのは、図書室に資料を取りに行くときだけ。その際も、目的の本が見つかったら取って返し、庭の花にさえ目を向けない。すべての神経が解読に注がれ、顔つきさえも違って見えるほどだった。
ミリアナにとっては「普通」のことだったが、ギルバートやイドット、オリビアは当然のごとく心配した。
「もぐ……、もぐ……」
作業と作業の合間、ミリアナは船を漕ぎながら焼き菓子を食べていた。休憩用のソファーに行く時間も惜しいというように、書斎机についたまま。
(((寝ながら食べている……)))
ギルバートもイドットもオリビアも、その姿にやるせないものを感じた。
「もぐぅ……、……はっ! 式が一つ解けました! メモ、メモぉ!」
そのうえ、解読作業も並行していたようだ。
「こちらに」
オリビアは、すかさずまっさらな羊皮紙を差し出した。
書斎机の足元には、びっしりと文字で埋め尽くされた紙が無数に散らばっている。
ギルバートはそれらを踏まないように気をつけながら、机に近づいた。
「差し支えなければ、足元の書類をまとめましょうか」
「あぁ~、お願いできますかぁ? すみませぇん。騎士様にしていただくことではないんですが……」
「いえ。この程度のことしか、我々はできませんから」
「そんなことありません~。おかげでだいぶはかどっていますぅ」
しかし、そう言われても、ギルバートは安心できなかった。
この調子でもう一週間近く。古代魔導式の解読が終わる前にミリアナが倒れるのではないかと、正直なところ気が気でない。本当にこれが「普通」なのだろうか。
「魔導の研究とは、いつもここまで大変なものなのでしょうか?」
「う~ん、確かにここまで難しいものは珍しいですけど、作業自体はよくありますよぉ? 一つで済んでいる分、今回は楽なほうですぅ」
あっけらかんと笑い飛ばされたが、この作業が複数重なった場合とは……。考えただけでゾッとする。
「あ、あの、ギルバート先輩」
イドットがそろそろとギルバートに声をかけてきた。
「自分は、そろそろ騎士団のほうに行く時間で……」
「ああ、そうだったな。ミリアナ様には私がついているから大丈夫だ。行ってこい」
「はい! 申し訳ありません、ミリアナ様。行ってまいります」
恐縮するイドットにミリアナは笑いかける。
「はいぃ。夜会の警備の準備、頑張ってくださいねぇ」
イドットが頭を下げ、部屋を出て行く。これには理由があった。
三日後、王宮で定例の夜会が開かれる。警備は基本的に衛兵たちが行うが、精鋭部隊の黒獅子騎士団も要所で警備に当たる予定だ。
常に人手が不足するため、このときばかりは要人でもないミリアナに二人も騎士をつけるわけにはいかない。イドットは夜会警備の準備のために、都度騎士団に戻ることになったのだった。
「申し訳ありません。ミリアナ様の警護が手薄になってしまい……」
「仕方ありませんよぉ。多くの貴族がたが出席する場ですものぉ。わたしのほうこそ、ギルバート様をつけていただいてなんだか申し訳ないですぅ。騎士団的には、ギルバート様にも戻っていただきたいでしょうに……」
それには、ギルバートも表情を硬くした。
実際、団長らはイドットではなくギルバートを警備のほうに戻すつもりだったからだ。
王宮で定期的に行われる夜会には、多くの貴族令嬢が参加する。そして、黒獅子騎士団は王宮組織の花形。彼女たちが好む、見栄えする者が多い。
ギルバートはその中でも特に令嬢たちから人気が高かった。彼が会場にいないとわかったら、落胆する令嬢が続出して夜会が盛り下がるかもしれない。
かといって、まだ従騎士であるイドット一人では警備が心許ない。
そこで、団長らは夜会のあいだだけ別の正騎士をミリアナにつける案を出したのだが、それをギルバートに拒まれてしまった。
『ミリアナ様の警護は、私が王太子殿下より賜った任務です。他の者に任せるわけにはまいりません』
日頃聞き分けのいいギルバートにそこまで言われては、団長らも無理強いすることはできなかった。
「ギルバート様も、夜会を楽しみになさっていたのではぁ?」
「そのようなことはありません。以前も申し上げましたが、上の方々の空気には馴染めませんので……」
言いながら、ギルバートはそれが真実だと心の中で繰り返した。
夜会は華やかな一方で、奇妙な緊張感と見栄で満ちている。歩けば当たる腹の探り合い、
押しつけるような形になってしまったイドットには悪いと思うが、あの場にいるよりは余程、ミリアナが真剣な眼差しで魔導式と向き合っている姿を見ていたいと思った。
正騎士は、警備中でも請われれば令嬢たちと踊ることが許されている。会場に出れば、ギルバートはおそらくご令嬢たちの熱い視線に負けて誰かにダンスを申し込むことになっていただろう。
その相手がミリアナであれば、やぶさかではないのだが――……。
「――……」
脳裏にふと浮かんだ考えが、ギルバートをサァッと青褪めさせた。
ミリアナが気づいて小首を傾げる。
「ギルバート様? どうかなさいましたかぁ? 顔色が悪いですよぉ」
「い、いえ! ……なんでもありません」
「そうですかぁ……?」
思索の果てに、とんでもないことを考えてしまった。
(ミリアナ様が相手なら、踊ってもいい? どうしてそんなことを考えたんだ? この方は任務のためにいらした研究者で、警護対象というだけなのに――)
けれど、ドレスで着飾ったミリアナはきっと可愛らしいことだろう。
パステルカラーの優しい色合いに、花びらのように裾がふわりと広がるドレスが似合うと思う。レースで飾り、さながら親指姫のような……。
そんな姿を思い浮かべていることに気づいた瞬間、血の気が引いた頬が今度は赤みを帯びてきた。
「ギルバート様ぁ……?」
「……お気になさらないでください……」
(今度は血色が良くなってきましたぁ。体調不良でなければいいんですけどぉ)
黒衣の騎士の心の
コンコン。
ノックの音が聞こえた。
「はい? どうぞぉ」
「――失礼いたします」
見覚えのある若い正騎士が入室してきた。名前は知らないが、確かアロイスの近衛騎士だ。
ブルーグレーの髪を品よく切り揃え、生真面目そうな顔立ちをしている。
「アロイス殿下の近衛騎士様ですねぇ。何かご用ですかぁ?」
「はい。殿下より、お届け物をお持ちしました」
「お届け物ぉ?」
差し出されたそれは、一通の手紙だった。
「確かにお渡ししました。では、失礼いたします」
実直な近衛騎士は、それだけ言うとお辞儀をして帰っていった。
「お手紙ですねぇ」
ローズベルン王家の紋章で封蝋のされた封筒を開けると、厚い紙質のカードが入っていた。
「これは……招待状でしょうかぁ?」
「え? ――失礼します」
ギルバートがカードを受け取って確かめる。
それは、三日後に開かれる夜会への招待状だった。
招待者はアロイスになっている。その筆跡も、間違いなくアロイスのものだ。
「あ、一緒にお手紙も入っていますねぇ」
同封されていた手紙を開くと、つまりはこういうことらしい。
『頑張ってくれているミリアナ嬢を、慰労をこめて夜会に招待したい。気晴らしに王宮の夜会を楽しんでほしい』
ギルバートはなるほどと得心した。
「殿下らしいお心遣いですね。ミリアナ様が休みなく研究にかかりきりなことを、気にしているご様子でしたから」
二、三日前、廊下で遭った際、そんな様子だったことをギルバートは思い出した。自分が依頼したこととはいえ、ミリアナの極端な研究姿勢が気になったのだろう。
「そうでしたかぁ。う~ん、リズちゃんも、わたしが研究に没頭していると、やけに心配してくれるんですよねぇ。わたしは普通にしているつもりなのですがぁ」
ほぼ半日、まるで机から離れないことを、普通とは言わない。
彼女の同僚と思われる天才魔導研究者のリズ・トワイライトが心配するのも、無理はないとギルバートは思った。
「出席なさいますか?」
「う~ん、華やかな席は苦手なんですよねぇ……。ドレスも持っていませんしぃ。とはいえ、殿下のご厚意を無下にするのもはばかられますぅ……」
すると、傍に控えながら話を聞いていたオリビアが、にわかに口を開いた。
「ドレスでしたら、いい案がございますよ」
「へ?」
見ると、クールな侍女が珍しくドヤ顔になっている。
「実は、私の従姉妹がデザイナーをしておりまして。駆け出しのため、ひとつでも多くのドレスを作りたがっております。王宮の夜会でお披露目できると聞けば、格安で引き受けてくれるはずです」
「で、でもぉ、夜会は三日後ですよぉ。とても間に合うとは……」
「今日中に連絡がつけば、可能でございます」
ズイッ、と圧のある笑顔を近づけてくるオリビア。
デザインさえ決まってしまえば、人海戦術などを使って無理を通す、ということなのかもしれない。
ミリアナは、あまり乗り気になれなかった。
けれど、王太子殿下からの招待ということと、何よりもオリビアの迫力に負け、ひきつった笑顔で言ったのだった。
「お……お願いしますぅ……」
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