第7話



「それでは、おやすみなさいませ。ミリアナ様」

「はいぃ。オリビアさんも、お疲れさまでしたぁ」

 部屋にハーブティーのワゴンを運び入れてくれたオリビアが退室し、一人になると、ミリアナはソファーからショールを手に取り、肩から羽織った。湯浴みしたばかりの体が冷えないように。

 照明を落とすと、ワゴンの上でティーポットとティーセットが月明かりを弾いた。

 眼鏡を外し、机の上に置く。コトリ、と小さな音が立った。分厚いガラスに遮られていた瞳が、夜の中で仄かに

 ミリアナは机上のランプにだけ明かりを灯し、椅子に腰かけると、アーティファクトから書き写した古代魔導式の紙の束に目を通しはじめた。

(式は長いですけど、資料さえ揃えば解析自体はかからなそうですぅ。でも、作業部屋にあるものだけでは間に合いそうにありませんから、殿下に図書室から本を持ち出す許可をいただかないといけませんねぇ)

 カップに注いだハーブティーに口をつける。カモマイルの澄んだ味が、凝り固まっている身体に沁みた。

(……解析前の書類を狙った、ということは、犯人は魔導の知識を持っている、ということですぅ)

 自力で解けるという自信がなければ、解析の終わっていないものを持ち出そうとはしないだろう。

 今頃相手は、自分の持ち出したものが書き損じの束であることに気づいているかもしれない。ミリアナたちの警戒が強まったことにも。

(知識があるのなら、解析済みで使用可能な古代魔導遺物アーティファクトを持っていてもおかしくありません。正面衝突することになったら、被害が大きくなるかも……)

 解析前のため、今回のアーティファクトの能力はまだ判明していない。

 その能力次第では、間違いなく取り返すために相手は強固な手段を使ってくるかもしれない。

「あんまり、大した能力じゃないといいですけどねぇ」

 ミリアナはハーブティーに口をつけつつ、苦笑した。

 進捗も伝えたいので、アロイスに謁見の時間を取ってもらえるよう、明日の朝にもギルバートに頼んでおくことにした。


   ***


 アロイスへの謁見は、翌日の午前に早々に叶った。

 盗難未遂の報告を受けてからすぐ、予定の調整に入ってくれていたそうだ。

 存在するかしないか曖昧だった「くせ者」が実際に現れたことで、アロイスの警戒心は高まっていた。

「解析前に手を出してきたか……。『相手』の目的は、やはりあのアーティファクトの起動のようだね」

 日頃は柔らかい眉間に深い皺が寄っている。

「だと思いますぅ。相手にお心当たりはないんですよねぇ?」

「うん。我が国にも地下組織はあるけれど、アーティファクトを主要に扱っているものは聞いたことがない。実害もないのに地下をつつくことはできないから、今の段階では静観するしかない。せめて、アーティファクトは起動方法とともにしかるべき機関で保管しなくてはいけない。解析はできそうか?」

「可能だと思いますぅ。ただ、そのための資料が不足しているので、王宮の図書室から本を借り出させていただきたいのですがぁ……」

「わかった。明日には自由にできるよう、話を通しておくよ。禁書も必要かな?」

 ミリアナは笑顔で首を横に振る。

「さすがに禁書までは必要ありません~。手続きも大変でしょうから、外に出ているものだけで結構ですぅ」

 禁書は図書室の奥深くで厳重に管理されている。王太子といえどもこれを外に持ち出せるようにするのは難しく、閲覧するだけでも複雑な手続きが必要となる。

 ミリアナは、それらをすべて理解したうえで断っている。

 アロイスは改めて彼女が優秀な研究者だということを理解し、笑みを浮かべた。

「わかった。早急に手配しよう」

「お願いいたしますぅ。本日はお時間をいただき、ありがとうございましたぁ」



 王太子の執務室から退室し、ギルバートとともに作業部屋へ引き返しながら、ミリアナは感心した様子で言った。

「アロイス殿下は優秀な方ですねぇ。ちゃんと先々のことを考えて、差配なさっているようですぅ。でも、お忙しそうですねぇ」

「はい。国王陛下の補佐役として多くの実務を担当していらっしゃいますから。しかし、来年にはシフルティア王女殿下が成人なさいます。兄殿下を支えてくださることでしょう」

 昨日知り合ったシフルティアは、どこかほんのりとあどけなさを残していた。

 それが成人前の幼さの名残だと言われると、納得できる。

「そうなんですかぁ。シフルティア様が加われば、国も安泰ですねぇ」

 すると、どこからともなく、くすくすと、軽やかな笑い声が聞こえてきた。

わたくしの噂話ですか?」

 シフルティアが近衛騎士のリリーシャとともに回廊へ現れた。

 いるだけでその場が洗われるような、清楚な美しさを持っている。ミリアナに気を許しはじめていることが、親しみやすさを増した微笑みから感じ取れた。

「おはようございますぅ、シフルティア王女殿下。殿下の成人が待ち遠しいですねぇ、というお話をしていたのですぅ」

「まあ、ありがとうございます。式典の際は、是非ミリアナ様にも参加していただきたいわ」

「それまで王宮にいることになったら、困ってしまいますけどねぇ」

 少なくとも、来月には王宮との縁が切れていないと困る。ミリアナにも仕事があるのだ。今回の件が片付いたら、リズの研究所にも戻らず、以前のように研究の旅に出るつもりだった。

 隣で、人知らずギルバートが残念そうな顔になっていた。

 役目を終えたら、ミリアナは王宮から去ってしまう。わかっていたことだが……。

「今回のことで功績をあげれば、王宮の魔導研究室に召し抱えていただけるのではないかしら。そうしたらずっと一緒だわ」

「うふふ、それ、お兄様に進言なさらないでくださいねぇ」

「あら、どうしようかしら」

 シフルティアは余程ミリアナが気に入ったようで、冗談ともつかない顔で言って笑う。そんなこの国の姫君を、ミリアナも可愛く思いつつあった。

「――そこで何をしている」

 低く硬質な声が、突如として娘たちの会話を遮った。

 その言葉は、ミリアナに向けられていた。

 振り返ると、官僚然とした身なりの男が、ミリアナに怪訝な顔を向けていた。

 その男を、ミリアナは知っている。

 国の重鎮。国王陛下の懐刀と呼ばれている――ヴラル宰相。

 灰色の髪を後ろに撫でつけ、眉間に厳めしい皺を浮かべている。ただ一人だけに纏うことを許された藍色の宰相服に包まれた背は、文官としては高い。ギルバートと同じくらいありそうだ。年は二回りくらい違いそうだが。

 ヴラルは胡乱な目でミリアナを見下ろした。

「見かけない顔だな。魔導研究室の者か? 王女殿下に何をしている」

 怪しまれるのも無理はなかった。高貴なる王女殿下に見慣れない人間が接触していたら、宰相としては確認せずにいられないだろう。

「お待ちください、ヴラル宰相。わたくしとミリアナ様はお話をしていただけ。何かをされていたわけではございませんわ」

「……王女殿下。殿下がそこまでおっしゃる人物なのですか」

 王女であるシフルティアが敬称をつけるほどの相手なのか、ということだろう。再びヴラルの目がミリアナを捉えた。

 ここで挨拶を間違えたら、アロイスにも迷惑がかかりそうだ。ミリアナはうやうやしくローブの裾を持ち上げた。

古代魔導遺物アーティファクト解析のため、アロイス殿下に一時的に登用されました、魔導研究者のミリアナと申しますぅ。以後、お見知りおきくださいませぇ」

「アーティファクト……? アロイス殿下に一任された例の――?」

 登用したことは知っていても、当人は見ていなかったため、当該の研究者とは思わなかったのだろう。ミリアナの外見を考えると、すぐ結びつかなかったことは責められない。

 だが、理解できてしまえば、ヴラルの先の態度は失礼にあたる。

 そのことを恥じ、ヴラルは小さく頭を下げた。

「……知らぬこととはいえ、国のため尽力してくれている者に失礼を言った」

「いえいえ、とんでもありません~。自国の王女殿下が見知らぬ人間と接していたら、怪しむのは当然のことですぅ。お気になさらないでくださいぃ」

 むしろ、一国の宰相に頭を下げられるほうが心臓に悪いので止めてもらいたい。ミリアナは珍しく本心から焦った。

 頭を上げたヴラルの目とミリアナの目が、グルグル眼鏡越しに合った。

「――……?」

 その瞬間、ヴラルの目に先ほどとはまた違う怪訝の色が過ぎった。

「貴殿とは、どこかでお会いした気が……?」

「えっ? き、気のせいではぁ? わたしは王宮に来たことなんてありませんしぃ」

「いや、確かにどこかで……」

「あっ、そろそろ仕事に戻らないといけませぇん。それでは、シフルティア殿下、ヴラル宰相閣下。御前失礼いたしますですぅ~!」

 ミリアナはギルバートを忘れずに引っ張りながら、脱兎のごとくその場から去っていった。

「確かに、どこかで……」

 記憶の奥まったところにある影を捕えようと、その場で考え込む宰相。

 そんな珍しい姿を目にして、シフルティアは声をかけずにいられなかった。

「あ、あの。ヴラル様は……ミリアナ様のことをご存知なのでしょうか?」

「は……いえ、気のせいでしょう。私も御前を失礼いたします、殿下」

「あ……っ」

 先ほどは自分の身を案じてミリアナに厳しい眼を向けてくれたヴラルが、今度は素っ気なく背を向けて去ってしまった。それが無性に寂しく、シフルティアは国の薔薇にも喩えられる美しいかんばせを萎れさせた。

「ヴラル様……」

 主の背後で、近衛騎士のリリーシャも眉を曇らせていた。






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