第5話



 それから三日後のこと。

「――終わりましたあ!」

 ずっと書斎机に齧りついていたミリアナが、万歳をしながら喜びの声をあげた。

「書き取りが終わったんですか? おめでとうございます!」

 ずっと扉口から見守る形になっていたイドットも、自分事じぶんごとのように喜んだ。

「これで次の段階に入れますぅ」

 古代魔導式を書き取った紙束は、冊子のような厚さになっていた。詩集くらいはありそうだ。

「あのぉ……ミリアナ様。古代魔導式ってどんなものなのか、見せてもらうことはできますか?」

 そろそろと、イドットが訊ねた。

「イドット」

「すっ、すみませんギルバート先輩! どんなものなのか気になってしまって……」

「かまいませんよぉ。面白いかどうかはわかりませんがぁ」

「あ、ありがとうございます!」

 差し出された紙束を、イドットは稀少本のように大切に受け取って眺めた。

 使われている文字は、そもそも言語に見えなかった。巷にある魔導コンロなどの魔導具に似たような記号が刻まれていた気がする。

 それらの記号のような文字が、紙にぎっしりと書き込まれていた。ミリアナの技術がそうさせるのか、行は曲がらず文字はきっちりと同じ大きさだ。それが重みを感じさせるくらい何枚もある。ミリアナが数日間かけた成果だ。

「学者さんってすごいっすね……。自分にはとてもマネできません」

 紙束を返してもらいながら、ミリアナは微笑む。

「やり方が違うだけですぅ。イドットくんもギルバート様も、毎朝鍛錬をしていますよねぇ? わたしは朝が弱いので、すごいと思いますぅ。それと同じで、やり方は違っても皆同じように頑張っています。比べる必要なんてないと思いますよぉ」

 イドットもギルバートも驚いた。自分たちが朝の鍛錬を行っていると、ミリアナが知っているとは思わなかったからだ。

 現在、二人はミリアナの警護についている。そのあいだは黒獅子騎士団の一員としての鍛錬が免除されている。しかし、鍛錬を怠ってはいざというときの行動が鈍る。そこで二人は、ミリアナがまだ寝入っている早朝に交代で自己鍛錬を行っていた。

「ご存知でしたか……」

「もちろん私は眠っていますから、直接見たわけではありませんけどねぇ。部屋の外で警護しているお二人が、早朝だけ交代でどこかに行っていることに気づいたんですぅ。お会いするときにはお二人とも小ざっぱりしていましたから、鍛錬のあと、水浴びしてきたんでしょう? 警護対象の前で汗くさい格好をしているわけにはいきませんからねぇ」

 密かによく観察されていたのだとわかり、気恥しいやら、驚くやら。

「お疲れさまですぅ」

 ぶ厚い眼鏡に覆われていてはっきりとは見えないが、ミリアナの目には他者を見守る優しさがある。そんな気が、ギルバートにはした。

 少女のような見かけなのに、彼女が微笑むと、遥か天上から春の陽光が注がれたかのような、あたたかな気持ちになる。大きな何かで包まれ、安堵する。彼女の知性と懐の深さがそうさせるのだろうか。

「さてぇ、早速解読をはじめたいところですが……さすがにちょっと疲れましたぁ。解読の前にお散歩がしたいんですが……よろしいですか? ギルバート様」

 ここ数日で、王宮内の散歩はミリアナの日課になりつつあった。

 気を遣っているわけではなく、本心から散歩を楽しみにしているようだ。

 勧めて良かったと、ギルバートの口元にも笑みが浮かぶ。

「もちろんです。ご案内いたします」




「綺麗なお花がたくさん咲いていますねぇ」

 柱廊に面した庭はどこも春の花が盛りだった。垣根でもトピアリーの周囲の花壇でも、色とりどりの花が競うように咲いている。黄色のディスカス、ピンク色のフランティーナ、紫色のヴィオレッタ、涼しげな白の鈴輪花リーリース

 ミリアナは庭に出ると、花壇の前にしゃがみ込んで花を眺めはじめた。にこにこ顔で花と戯れる姿は、街にいる普通の少女と変わらないように見える。

「ギルバート様は、お花はお好きですかぁ?」

 振り返って訊ねられ、ギルバートは花壇に近寄った。

「さあ……こういった花は、あまり詳しくないもので。森や野原に咲いているものは、知っているのですが」

「森や野原? 意外ですねぇ。若年じゃくねんで騎士ということは、お家は貴族では?」

 フルーレ王国では、騎士になるためには騎士学校に入る必要がある。イドットのように庶民でも、基礎学力と騎士になれるだけの技量が認められれば、騎士学校に入ることができる。

 だが庶民の場合、正式に騎士になるためには、卒業後に従騎士エスクワイアの期間を経なければならない。イドットが現在、従騎士なのはそのためだ。

 それに対して貴族は、騎士学校を出たらすぐ騎士になれる。ギルバートの年を考えると、騎士学校卒業と同時に騎士位を得たとしか思えないだろう。

「家は伯爵位ですが、私自身は継承権を持たない傍流です。剣の技量を認められ本家に迎えられましたが、それも物心ついて大分経ってからでしたので、貴族の家よりは庶民の生活のほうに慣れています」

 ミリアナは、ギルバートはてっきり貴族だと思っていたようで、申し訳なさそうに眉を下げた。

「そうだったんですかぁ……。すみません、込み入ったことを聞いてしまってぇ」

「気にしていません。……王宮にいらっしゃる貴族の方々の考えには、なじまないので」

 ギルバートはアロイスと同い年だ。ベオグラム家に入ってしばらくしてから、王子の話相手にと引き会わされた。アロイスと馬が合ったのは、どちらも身分の割に考え方がフランクだったからだと思う。

「そうですねぇ……。偉くなると、その世界しか見えなくなったりするんですよねぇ」

 まるで自分事のように言うのが不思議に思えて、その横顔を斜め上から見ると、ミリアナはすくっと立ちあがって、庭の向こう側に見える建物群を指さした。

「あちらはなんですかぁ?」

「黒獅子騎士団の宿舎と演習場です。私とイドットは、最近は戻っていませんが、普段はあちらで寝起きしています」

「黒獅子の紋章が見えますねぇ。わたし、初めて見ますぅ」

 沈みかけていた空気が、少しずつ元に戻っていく。

 ギルバートはどこかほっとして言った。

「ご案内しましょう」




 石でできたアーチをくぐると、砂地を固めた演習場に出る。

 ちょうど使用がなく無人で、ミリアナとギルバートは横長に広い演習場の中央を突っ切るように歩いた。

 アーチの直線上、向こう岸の位置に、ひときわ高く伸びた壁があった。騎士たちの休憩所や宿舎にも繋がる建物全体の中央で、偉容を見せている。

 その壁の最上に、黒獅子が剣に尾を巻きつける大きな紋章が掲げられていた。

 ミリアナは、首を最大限上げてそれを見上げた。

「……あれが……」

「我々、黒獅子騎士団の紋章です。フルーレ王国の守護獣である黒獅子を描いています」

「『聖なる乙女』に忠誠を誓い、国を守ると約束した黒獅子のことですねぇ。武を司り、とても強かったと伝説にありますぅ」

 かつてフルーレ王国が乱れていたとき、神にすべてを捧げた聖なる乙女に、神は黒獅子を遣わした。乙女に忠誠を誓った黒獅子は、あらゆる攻撃から乙女と国を守ったという。以来、フルーレ王国は黒獅子を守護獣とし、騎士団はその名を冠した。

 ミリアナが少し苦笑する。そして、それを隠すようににこやかに言った。

「でも、どうして獅子だったんでしょうねぇ。大きな鳥とか、狼も強そうですのにぃ」

「それはわかりませんが、この国には獅子の伝承が多いですよね。豊穣を司る赤獅子、冬を呼ぶという青獅子……。そういえば、〝金獅子〟もありますね」

 ぴくり、とミリアナの横顔が動いたことに、ギルバートは気づかなかった。

「知識を司る金獅子……。それになぞらえた称号があったような……。確か、〝ゴルテ――」

「あーっ!」

 パンッ!という手を打ち合わせる音と、ミリアナの叫び声が重なった。

 ギルバートは驚いて、言葉を止めてしまった。

「ミリアナ様? どうされましたか」

「そろそろお昼の時間ですぅ。早く戻らないと、イドットくんもオリビアさんも心配しますぅ。ギルバート様もお腹すきましたよねぇ? 戻りましょうかぁ」

 さも、お昼が楽しみだというように、ほんわかとした笑顔で言う。

 意図的に話を遮断された気がするけれど、察するに訊かれたくないことなのだろう。

「……そうですね。戻りましょうか」

 理由は気になりつつも、来た道を引き返すことにした。

 アーチを逆からくぐり、庭園へと戻る。

 ギルバートの先を行く後姿が、柱廊の影へ入っていこうとする。

 その直前、彼はほとんど反射的に〝それ〟に気づいた。

 柱廊の上、建物の二階から、「何者か」が「何か」を落とそうとしている。

 それが何かまではわからなかったが、足を蹴って走り出した。元々距離はない。

「――ミリアナ様っ!」

 小さな体躯にかぶさるように、盾になるように、ギルバートはミリアナを上から庇った。ミリアナは驚いたが、〝何か〟が起こっていることはすぐに察した。

 直後、二人の上から大量の「水」が落ちてきた。

 局地的な集中豪雨……では、もちろんない。たらいか何かに汲んでおいた水を、二階からぶちまけたのだろう。

 しかし、ミリアナを狙ったのだろうそれは、彼女よりもギルバートにぶちまけられることになった。ミリアナにもそれなりにかかったが、ギルバートは頭から思いきり被った。

「――ギルバート様!」

 下階がどうなったのか理解したらしい「何者か」は、慌てて二階の廊下から走り去っていった。グワングワン、と盥が落ちた音がする。

 それらの音はミリアナの耳にも届いていたが、それどころではない。

「ギルバート様! 大丈夫ですか!?」

 ミリアナが見上げると、ギルバートの漆黒の髪から水がぼたぼたと落ちた。

 顔にへばりつく前髪を掻き上げる。涼やかに整った顔立ちが、まさに水も滴るいい男……ではなく。

「……ただの水のようですね」

 なんともないことがわかって、ミリアナはほっと息を吐いた。

「……そのようですねぇ。雑巾や薬液が混ざっていなくて、良かったですぅ」

「しかし、ミリアナ様にもかかってしまいました。申し訳ありません。護衛として情けない限りです」

「そんなこと言っている場合じゃありません~。早く部屋に戻って乾かさないと、風邪をひいてしまいますぅ」

「私は大丈夫です。近くの部屋で拭うものをもらってきましょう。ミリアナ様だけでも水を拭わなければ……」

「わたしよりギルバート様が先ですぅ。待ってください、今、魔導で水を――」

「――どうなさったのですか?」

 ミリアナが胸元から何かを取り出そうとした瞬間、やわらかな声がかけられた。

 柱廊の奥から人影が近づいてくる。ミリアナは目をしばたいた。

 人影の正体は、美しく清楚な女性だった。背後に護衛の女騎士と数名の侍女を伴っているから、相当な貴人だとわかる。

 年の頃は、成人しているかしていないか。膨らみの少ないドレスをすっきりと着こなし、薄化粧が清純さを引き立てている。腰まである青白銀色の長い髪にアメジスト色の瞳。アロイスとどこか雰囲気が似ていた。

「――シフルティア王女殿下」

 ギルバートがはねるように姿勢を正し、彼女に向かって頭を下げた。その髪から水が滴り落ちる。

(王女殿下……?)

 ミリアナは思わず女性を見つめた。

 シフルティア・フローラ・ローズベルン。

「ローズベルンの薔薇姫」、「朝露の君」との呼び名も高い、フルーレ王国の第一王女。アロイスの実妹じつまいだ。

「このような姿で、失礼いたします」

「貴方はギルバート・ベオグラムですね。お兄様とも親交の深い。一体、何があったのですか? こちらの方は……?」

 シフルティアが見慣れない人物であるミリアナを見た。

 険しさが一欠けらもない真っ直ぐな目。

 ミリアナはスカートの裾を持ち上げる。

古代魔導遺物アーティファクト解読のためアロイス殿下に限定的に登用いただいた、魔導研究者のミリアナと申しますぅ」

「まあ、お兄様に。そういえば、そのような話を伺った覚えがあります。でも、お二方ともなぜそのような姿に……? いえ、今はそれどころではありませんね。わたくしの部屋にいらっしゃいませ。御髪おぐしと服を整えましょう」

「王女殿下のお手を煩わせるわけには――」

 ギルバートは恐縮するが、シフルティアは笑う。

「貴方はそうでも、ミリアナ様はそうもいかないでしょう。ここからなら、わたくしの部屋のほうが近いはず。ミリアナ様の支度が終わるまで、貴方も別室で乾かしなさい。それなら、気にならないでしょう?」

「……ご配慮に感謝いたします」

 アロイスもそうだったが、妹姫も身分を気にしない性格らしい。

 美しいのに気取ったところのない王女を見て、ミリアナは感嘆の息をついた。

(物語に出てくる、妖精のお姫様みたいな方ですぅ……)






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