第2話:初恋の少女と過ごした小学生時代(前半)

 小五で出逢い、卒業まで二年間同じクラスだった高木(たかぎ)夏海(なつみ)という少女は、黒髪ショートのスポーツ女子だった。バスケクラブで、誰にでも優しくて、涙もろくて、天真爛漫で。

 バレンタインの日にクラスメイト皆にチョコを配ったりして、クラス皆に慕われていたから当然のように学級委員に選ばれていた。マラソン大会も一位で運動神経抜群、男子皆の憧れの存在だった。

 その女子に接する態度と同じくらい男子にも優しい性格が災いして、一部の女子からいじめの標的にされた時期もあったけど。

 誰とでも仲良くなろうとする性格の少女だった。

 一方、俺は進学塾に通っているにも関わらずクラスの落ちこぼれだった。スポーツはもちろん、勉強もできない男の子。俺の家は皆東大出身のエリート家系だったので、親に塾の成績を見せる度に罵倒された。

「お前塾に通ってんのにこんな事も分からねぇのか」と、よく友達にバカにされた。塾に通っている事が余計に自分の無能を際立たせた。

 そんな友達の言葉に対し「うっせぇよバーカ」と笑って誤魔化していた。クラスのボケ担当は俺——皆の笑いを取るというクラスのポジションを取っていた。バカはバカなりの生存戦略。

 見た目もデブキャラだったから、テンションで誤魔化すお笑い芸人のように振舞った。

 クラスのアイドルだった夏海(なつみ)を笑わせたかった。他のクラスメイトは俺のボケを笑ってくれるのに、彼女だけ全く笑ってくれなかった。あの日は、あんなに俺の事を心配してくれたのに。


 小五の五月——新しいクラスになった頃に起きた、彼女を好きになった瞬間を覚えている。

 平日、夕暮れに染まった放課後。家に帰ってから、母に「アンタ学校に体操着を二着も忘れたでしょ?」と言われた。

 とても怒られた。明日は運動会だったから。

 替えの体操着が家に無いから、明日汚れた体操着で運動会に出なくちゃいけなくなる。

 俺は母さんに追い出されるように家を出て、小学校へと自転車で向かった。

 母さんがあまりに怖くて、全力で自転車を走らせた。信号を何本も無視して、通行している人達の間をギリギリで避けながら。

 夕焼けに包まれながら、目に大粒の涙を蓄えながら、必死に、必死に自転車を漕いだ。

 学校の校門の内側に入った所で——、

 大きな木の枝が俺の額に勢いよくぶつかった。

 母さんへの恐怖から来る涙で視界が歪んでいた上、自転車まで飛ばし過ぎていたせいで枝を避けられなくて。

 自転車と俺の体が空中で分離し、俺は思い切り地面に叩きつけられた。

 額の痛みと涙で、視界がぼやけていたけれど、自転車が大破して転がっているのは分かった。帰宅中の生徒達の視線が俺に集中している事も。

(痛い、痛い、痛い、痛い、痛い……)

 ヒリヒリする額。でも、関係ない。俺は早く体操着を取りに教室に行かなくちゃいけないんだ。それだけが俺の心の中にあった使命。

 走って、走って、玄関にある下駄箱までついた。玄関から一気に三階の教室に駆け上がる。教室の扉を開ける。

 誰もいない教室で、俺の机の荷物入れから、体操着二着を見つけた。

 安心した。無くなっていたりしたら、母さんをどれだけ怒らせていただろう。

 体操着を両手で抱きしめたまま、教室を出る。

 額の痛みで気がどうにかなりそうだけど、早く家に帰らなければならない。

 階段を下り、玄関の下駄箱前に戻ると、


 入口に彼女はいた。夕暮れに照らされた彼女が。


「ハルちゃん! その額、どうしたの⁉」

 心配そうな顔で、俺に早足で近づいてくる夏海(なつみ)。

 大して話した事も無いクラスメイトなんかに構っていられない。すぐに彼女の横を通り過ぎようと、出口のある彼女の方へ歩み寄ると、横切る前に、

 彼女は右手で、俺の前髪をかきあげて、額を覗き込む。

「酷い傷⁉ 早く保健室行かないと⁉」——彼女の顔がすぐ目の前にある。

 彼女と俺はその日まで一度も話した事が無かった。クラスメイトってだけの他人だ。

 なのに……彼女の瞳はそんな俺を……本気で心配していた。

(暖かい手……。何だか傷が和らいでる気がする。綺麗な目)

 傷口を避けて額に触れる彼女の手の平は、俺の傷を治してくれているような錯覚すらあった。

 玄関口から漏れ出る茜色の光が、彼女を包んでいた。

 けれどすぐに、早く家に帰らなくちゃいけない事に気づく。

 無言で彼女の横を通り過ぎる。逃げるように。


 あの日の夕焼けの中の彼女の顔を、俺は生涯忘れない。

 これから何十年も経って俺がおじいさんになっても、「世の中で一番美しいモノは何か?」って誰かに聞かれたら、「あの日の彼女の顔だ」って、答えてしまう……そんな顔だったんだ。

 夏海(なつみ)の事が気になり始めてから知った——彼女の家が、坂の上にある俺の家の、すぐ下にある事に。歩いて三分もかからない所にある事に。


 ——これは現在二十歳の俺が当時の事を振り返った解釈だが、俺があの時の夏海(なつみ)を大人になった今でも忘れられず、小学生しか愛せなくなってしまったのは、「俺が幼かった故」だと思っている。二十歳となった今の俺があの日の夕焼けに照らされた夏海(なつみ)の顔を見ても、「一生想い続ける事になる顔」とまではいかなかっただろう。

 小学五年生の俺だったからこそ、あの日の顔は「一生想い続ける事になる顔」になったのだ。幼少期の経験は、大人になってからの経験より色濃く脳に刻まれる。

 あの日が、俺が初恋という名の「一生治らない呪い」にかかった日だ。

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