1-7

 学校の昼休み。僕は教室の喧騒から逃れるように、図書室へと足を運んだ。単語帳をぱらぱらとめくり、用例を眺めていく。


 昼休みの教室の空間はクラスメイト達の話題で飽和していて、毎回僕はそれからはじき出されてしまう。それに、話している内容だって、僕にとってはしょうもないことばかりなのだ。


 やれ炎上したブイチューバーの発言がどうだとか、蛙化現象がどうとか、自分が正しいと盾を構えているような話題しか聞こえてこない。それに、恋愛しか目の前に見えていないような人たちの話題とか、そんな世界のちっちゃなことばっかりに目をつけて、どうのこうのしゃべくり合っている。クラスメイト達は自分の共感できる人達だけで塊を作り、その塊の外側にいる人を見下すような態度をとる。そんな風潮が、僕は気に入らなかった。


 それに比べて、この図書室は落ち着く。物静かな子が多いし、先生もフレンドリーで優しいし。


 僕は単語帳を読むのに飽きて、何か小説でも借りようかと立ち上がろうとした。


 でも、とある女子の声で、それは遮られてしまった。


「あ、いた! ねえ、佐凪くーん‼」


 その女子は図書室のドアを閉めると僕の座っている席に足早で寄ってきた。小柄な体の肩にかかった三つ編みがよそよそと揺れる。名前は確か、桐谷礁子だっけ。


 確かこの人、僕のクラスの学級委員長だったな。でも、なんで僕なんかに?


 礁子のなかなか見せないきらきらとした瞳が、僕に向けられる。そんな中、僕はただただ礁子との接点を探していた。どうして誰とも接点を持たない僕に話してきたのか、理由を探っていた。


 確か礁子は、僕と同じく学年で成績順位のトップを競うレベルの学力はあるけれど、だからと言って彼女は僕に話しかけに来ることなどなかった。


「何」


 僕は苛々として言う。からかうために来たのなら、話しかけないでほしい。


 でも、僕が怪訝な目を向けて礁子に訊くと、なぜかあれ? というような、頭に疑問符を浮かべるような分かりやすい表情をされた。でも、礁子がなぜそんな顔をしたのか分からなかった。


「え、何って、え?」


 礁子は、なぜ僕がこんな対応をするのか分からないというように首をかしげる。


「え……?」


 僕も同じように首をかしげる。すると、急に礁子の顔が恥ずかしそうに真っ赤になり、目をぎゅっと瞑って、入り口のドアに向かって走っていった。


「ごめんなさああああああああいっ‼」


 図書室では静かに! と叫ぶ、眼鏡をかけたおばさん先生の声がカウンターから聞こえる。ほんとに、なんだったんだ?


 そう思うと同時に、僕は机に目を落とす。


「ん?」


 僕はとあるものを目に映し、声を出す。机には、窓からの光が当たっているが、その光の中に、アゲハ蝶の舞うシルエットがあったのだ。そのシルエットは、窓からの光を覆いつくすほどに大きくなる。


 僕は瞬時に窓の外へと目を向ける。さあ、ついてきて、と窓の外から聞こえてくる。この声、確かに夢の中で聴いた、アゲハ蝶さんの声だ。


「えっ⁉」


 そこには、巨大化したアゲハ蝶の姿。


「どうしたんですか?」


 図書室のおばさん先生の言葉が、窓の外を見ている僕の背中に投げかけられる。


「え、先生⁉ あれ!」


 僕は窓の外のアゲハ蝶を指さす。しかし、先生は困ったように眉を顰めた。え、他の人には見えていないの?


「ん? 図書室では、静かにしてくださいね?」


 そう言って、先生はその場を去っていった。気付けば、周りの席に座っている人たちは、迷惑そうに、またはぽかんとした顔でこちらを見つめている。

 そんな痛い視線を浴びせられ、僕は顔が真っ赤になる。


 やめろやめろやめろ……。そんな目で僕を見ないでくれえっ‼ 一応学校中ではまじめな生徒として見られてんだから!


「ご、」


 やるべきことはただ一つ。逃げよう。あのアゲハ蝶を追いかけよう。


「ごめんなさああああああああいっ‼」


 僕はそう叫び、図書室を出た。


「ちょっと、図書室では静かにしてくださいね!」


 閉めた図書室のドアの向こうから、僕は注意を向けられる。ごめんなさい、マジでごめん! などと言ってもどうしようもないことを思いながら、とにかく外に出なければと駆け足になる。


 廊下を駆け足で進んでいると、そこにはさっき僕に話しかけてきた礁子の姿があった。僕の足音に気づいたみたいで、僕の方に振り向いて目を輝かせる。


「あ、佐凪くん!」


「げっ⁉」


 ああ、なんか嫌な予感がする……。


「やっぱり分かってくれた? 私ね!」


 礁子はわけの分からないことを話し始めようとする。


「ちょと、ちょとごめん! 僕急がないといけないから!」


 礁子と向き合っている暇なんてない! 百歩譲って、夢の中に出てきたアゲハ蝶が現実の世界で僕の所にやってくるのは分かる。でも、礁子のさっきからの言動はマジで意味不明!


 とにかく、礁子はやばい女だってことが分かった。とにかくこいつからも逃げなければ! そう確信して、また廊下を走る。


「いやちょっと、佐凪くーん!」


 走り出した直後、礁子の声が後ろからかけられる。そして、走る僕の後ろには、同じく走る礁子の足音がついて回る。


「えええっ⁉」


 いやいやいやいやいや! なんで僕追っかけられてんのっ⁉ 新手の逆ナンだとすれば、強引すぎんだろ‼


「んっ!」


 僕は足を滑らせながら、階段へと曲がる。そのまま、驚く生徒たちの顔を無視して階段を下る。

 そして懲りずに、礁子もついてくる。


「ちょっと! なんで逃げるの佐凪くーん!」


 いやいやいやいや、しつこすぎんだろ⁉ そして僕の名前を大声で叫ぶな!


「お、成績トップ組がなんか追っかけっこしてんぞ?」

「あいつら仲いいんだね~」

「お? 新しいカップリング発見!」


 階段を下りながら、そこにたむろしているクラスメイトが僕たちを見ながら言う。確かこいつら桐谷礁子のファン的な存在だ。まずい、そういう仲だと勘違いされてる⁉ 生憎僕は恋愛に興味ないのでーっ‼


 階段を下りて見えてくるのは玄関と靴箱。僕は走りながら上靴を緩め、すのこに踏み入ったとたんに上靴を脱いで僕の靴箱に入れ、高速で靴に履き替える。


 そして玄関を出て、グラウンド前のコンクリートの道に出ると、大きなアゲハ蝶が誰にも見えない影を落として僕の頭上を舞っている。


 こっちこっち!


 そう言うアゲハ蝶の高い声を聞き取り、アゲハ蝶は校舎に沿うように左の方へ飛んでいく。


 僕は靴箱の方を確認し、礁子が靴に履き替えるのに苦戦しているのを見る。距離を取るなら今のうち! そう思ってアゲハ蝶の飛んでいく方向に走り出した。


 ===

 

 僕は、先生たちの車が停まっている駐車場に身を隠していた。


「あれ、ここら辺に行ったはずなんだけど……」


 礁子が駐車場の外側できょろきょろと周りを見回している。その様子を、誰のものかもわからない車の後ろに隠れてひっそりと見ている。駐車場の真上には、僕が歩き出すのを待っているかのように、巨大なアゲハ蝶が留まっている。


「あっちに行ったのかな?」


 そう言って礁子は、二つの校舎に挟まれたテニスコートへと走っていく。それと同時に僕は立ち上がり、アゲハ蝶の影が動き出す。北側の校舎の裏側にあるプールの方向へと飛んでいく。よし、ここであいつとはおさらばだ!


 僕は駐車場を出て、アゲハ蝶の飛んでいくルートを目で追う。アゲハ蝶はプールの施設の隣にある茂みの奥の、部活の用具入れへと自分の体を小さくしながら入っていく。


 僕も茂みの中に入り、用具入れのドアを開ける。鍵がかかっているはずなのに、あっさりとドアは開いた。


「し、失礼しまーす……」


 失礼以外の何物でもないのだが。


 僕は用具入れの中に入り、温かい気候から遮断されたような薄暗さ、入り交じる汗や砂のにおいを感じる。とても昔のコンクリートに描かれたのであろう落書き、ひび割れた個所をガムテープで修繕している古びた窓。ぐちゃぐちゃに用具の入った、錆びだらけの鉄の棚。


 こういう場所苦手だなー、なんてことを思いながら、その中で場違いに美しく舞っている小さなアゲハ蝶を見る。


「ねえ、君って夢の中で見た……」


 話せるのか? と疑問に思いながら、とりあえず声に出してみる。


「ああ、そうさ」


 すると、アゲハ蝶は僕と向き合って声を出した。


「どうして、ここに?」


「君に、頼みたいことがあるんだ!」


 その時のアゲハ蝶の顔が、にこっとした笑顔になっているように見えなくもなかったのは、僕の頭がどうかしてしまっているからなのであろう。

 


 

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