侯爵貴族の屋敷にて(その2)

   

「いいえ、問題というほどではありません。しかしクラウドが王都エンドアに居座いすわっている件につきましては、殿とのも不気味に感じておられるので……」

 デグロールと呼ばれた獣男ケモノオは、青い酒の入ったグラスを口に運びながら、不敵な笑みを浮かべる。

「……連日連夜、配下の者に探らせております。我が右腕とも呼べる獣男ケモノオが、今夜もクラウドに付いて回っている最中さいちゅうです。どうぞご安心ください」

「『付いて回っている』ということは、クラウドは屋敷に閉じこもっているのでなく、出歩いているのだな?」

 クラウドはアザッム伯爵家の騎士団長なので、王都エンドアにおける滞在先は当然、そのアザッム伯爵家の屋敷となる。当主不在の今、いわば彼が屋敷の主人あるじみたいな状態だろう。

 しかし、せっかく伯爵屋敷で自由に過ごせるというのにそれを楽しもうとせず、王都で遊び回るとは……。どうせ王都には知り合いも多くないはずなのに、どこで何をしているのだろうか?


「はい、いくつかの酒場を回っているようです。国元で過ごす時間の長いクラウドですが、王都に来るたびに顔を出す、そんな馴染みの酒場が何軒もあるようですね」

 キリンガルム侯爵が疑問を口に出す前に、先回りするかのように答えを述べるデグロール。

 なんだか心を読まれたようで少し薄気味悪さも感じるが、それよりもキリンガルム侯爵としては、クラウドの行状に驚く気持ちの方が強かった。

「王都に馴染みの酒場まであるのか、南方の伯爵領の田舎騎士のくせに。いや、馬鹿にするつもりはないぞ。むしろ立派な騎士だと思っていたからこそ、今の話を意外に思うわけで……」

「恐れながら、キリンガルム侯爵。クラウドが酒好きだとか、王都の酒場を好むとか、そんな単純な話ではありません」

 目上の貴族に対しても臆することなく、デグロールはその言葉を途中で遮る。

 失礼な態度ではあるが、彼はモーリッツ大公が差し向けてきた庭人にわびとだ。キリンガルム侯爵としても立腹を示すことなく、短く続きを促した。

「……どういう意味だ?」

「はい。酒そのものではなく、人脈作りや情報収集が目的のように思えます。なにしろ酒場といえば、人も噂も集まってくるところ。庶民の力も数を束ねればあなどれなくなりますから」


「庶民の力か……」

 キリンガルム侯爵は苦々しい表情を浮かべて、吐き捨てるような口調で呟く。

 彼の頭に浮かんできたのは、百年ほど前に起きたという小麦騒動の顛末だった。

 高温や乾燥で小麦が不作となった夏、供給をストップさせて――在庫の小麦を蔵に仕舞い込んで――さらに価格を釣り上げようとした小麦問屋と、その後押しをした男爵貴族。彼らの屋敷に暴徒と化した民衆が押し寄せて、小麦蔵が打ち壊されただけでなく、問屋の主人も男爵家の当主も命を落としたという。

 歴史の書物にも記されているほど有名な事件だが、一般的に「歴史」の範疇に含まれてしまえば、もはや他人事と感じる者の方が多い。しかし高齢のキリンガルム侯爵にとっては、父や祖父から何度も聞かされてきた話であり、他人事とは思えぬ出来事だった。

「大丈夫なのか? 世の愚民どもは死んだアザッムに同情的だ、という噂も聞く。わしを悪者扱いしている、という話ではないか。まさか大衆が暴徒と化して、この屋敷を襲ってきたり……。そんなことはないだろうな?」


「大丈夫です。たとえ何者が襲ってこようとも、キリンガルム侯爵の御身おんみには指一本、触れさせません。こうして俺が派遣されているのですから」

 デグロールがニヤリと笑う。白い牙を覗かせるような笑い方であり、改めて「脆弱な人間とは違う」と強調しているかのような表情だった。

「うむ、頼む」

 貴族のキリンガルム侯爵としては、獣男ケモノオに対して「頼む」と言わねばならないのは、いい気がしなかった。

 本来ならば、貴族を守るのは騎士の役目だろうが……。

   

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