第25話 gasp/ハッと息を飲む

「死にたい」


 この言葉を口にするのはもう何度目だろうか? 毎朝毎朝鏡に写る自分の顔を見てそう放つ。そして、洗った顔に、「笑顔」という薄汚れた仮面をつける。その仮面の下にすべての思いを隠す。


「行ってきます」


 ここは私の家。アットホームなどではない、地獄のような場所。


「行ってらっしゃい」


 私を見てそう言った母も、赤の他人だったらどれほど良かっただろうか。無駄に「親子」などという関係があるせいで離れることが出来ない。


「……」


 逃げられないこの地獄。名門という肩書きを背負って生まれてしまったせいで、その名を一生この仮面をつけていなくてはならない。


 自由なんてない。成績も運動もその全ての頂点に常に立ち続けることを強いられる。


 自分のことを主張すれば、きっと両親に失望される。それが怖いのかもしれない。だから、何も言えない。


 離れたいのに、失望されたくない。そんな矛盾が私を苦しめる。




「桃井さん、おはよう」


「おはよう、今年も一緒ですね」


「うん、そうだね」


 今日はクラス替え。他の生徒たちはソワソワとしている。かくいう私はどうせ受験勉強に励むことになるため、別に気にはしていなかった。


「え〜、みんなおはよう。早速出席をとるぞ〜」


 この男が新しい担任。名前は田中。優等生はこんなくだらないことも一番に覚えていなければいけない。何故かと問われれば、優等生だからだ。皆に良い顔を向け続けることが私の役目の一つだ。


「え〜と、ん? 咲原がいないな」


 クラス替えの初日に欠席。こんな問題児は一人しかいない。


「すみませ〜ん! おっくれました!」


 教室のドアを勢いよく開けて入ってきた赤髪の女子生徒。


 彼女の名は咲原 アン。この学年でも有名な問題児。課題は全くやらない、テストも毎回赤点スレスレ、挙げ句の果てにはちゃんと間に合って登校する方が稀だ。


「お前、初日から遅刻なんてな……」


「いや〜すみません」


 何故こんなに遅いのかは誰も知らない。こんな問題児であるせいで、誰も寄って来ないためだ。


「まさか、最後に同じクラスになるとは……」


 勉強に支障をきたさなければ良いのだが。


「よ、桃井……だったか? よろしくな!」


 その上、隣の席だとは飛んだ悪運だ。それでも、私は笑顔を崩さない。


「よろしくお願いしますね」


 それが優等生だからだ。



 それからというもの、何故か咲原は私に絡んでくるようになった。2人組を組む時も、班を作る時も、放課も、帰りも、ずっと付き纏ってきた。


「咲原さんは他の人と組んだりとかしなくていいの?」


 一度やんわりと断ってみたこともあった。


「いいんだよ、別に」


 しかし、そもそも咲原の知り合いがほぼいない状態だったため、結果は変わらなかった。


 幸い、私は「咲原に付き纏われている可哀想な生徒」という感じで、特に迫害されたりなどはなかった。


 だが、なぜか彼女と話す度に私はどこかもやもやとした思いを抱いた。理由はわからない。



 そうして、時は進み、ある夏の日。私はその日、あるボランティアに募集していた。もちろん、内申のためだ。


 そのボランティアというのが、ゴミ拾いのボランティア。私の住んでいる地区の影響から、私は少し遠いところの駅の周りのゴミ拾い係になっていた。


 その日、朝から行われるボランティアのために早めに駅に向かった。


 すると、何故だか人だかりがあった。こんな朝早くから人が集まることもあるのか、くらいに思っていた。


「今日もよろしくお願いしまーす!」


 しばらくすると、聞き覚えのある声が人だかりの中心から聞こえた。気になって人混みの中を進んで、その声の主を見つける。足元にギターケース、黒い上着を着て、そのフードを深く被っている。そのため、顔は見えない。


 そして、彼女は赤色のギターを構えて歌う。いわゆるストリートミュージシャンというやつだろうか? その腕前はかなりのものだ。


「ありがとうございましたー!」


 彼女がそう言うと、次々に人々がギターケースにお金を入れる。


「それじゃ、今日はこの辺で……」


 ギターを片付けて、彼女がその場を去ろうとした時、私と目が合った。


「……咲原さん?」


 すると、彼女は私の腕を掴んでサササと人混みを抜けて路地に入った。


「何で桃井がいるんだよ……」


 フードを脱ぐと、やはり、その正体は咲原だった。


「私はボランティアに……」


 困惑したままだったが、一応答えた。


「……しゃーないか。いつかは誰かにバレると思ってたし」


 そして、彼女は話してくれた。彼女曰く、彼女はほぼ毎日こうして路上で歌を歌い、お金を稼いでいるのだそうだ。朝遅かった原因はこれらしい。


「そうだったんですね」


「それでよ、黙っておいてくれないか?」


 うちの中学は当たり前だがバイト禁止。果たしてこの行為がバイトにあたるかはわからないが、金を稼いでいる以上、何かしら面倒なことはあるだろう。確かにバレると厄介だ。


「いいですよ」


 もしかしたら、こうしたらこの人が離れてくれるんじゃないかと思って、黙っておくことにした。もし、バレても脅されたと言おうと思っていた。


「サンキュー!」


 そして、咲原はそそくさとその場を去ってしまった。


「勝手な人……」


 彼女に聞こえない距離で私はつぶやいた。



 ある秋の日。その頃、祖父が入院した。祖父のことは比較的好きだった。私の一族らしくなかったからだ。


「お祖父様、お身体は大丈夫ですか?」


 花束を持って、今日も学校帰りに祖父の病室に行った。祖父の入院している学校が比較的近かったため、頻繁に訪れることができた。


「おう! ルリ、元気だぞ!」


 祖父はいつでも明朗快活で、明るかった。


「最近の学校はどうだ? 楽しいか?」


 祖父はよく私の学校のことを気にしていた。


「ええ、変わりないですよ」


 その度に私はこう返しをしていた。


「おお、なら良かった」


 そして、それが終わると祖父は自分の身の上話をしていた。この病室に最近父や母などの一族が来て、遺産の話をよくしていくこと、病院食はあまり美味しくないこと、入院するとどこにもいけないこと。


「病院はつまらないなぁ」


 それが祖父の口癖だった。




「ケホケホ……」


 ある日、私は風邪をひいてしまった。季節の変わり目で体が弱っていたようだった。


 その頃、もう受験勉強は佳境を迎えており、大変な時期だった。私の場合、両親から海外への進学を強制されていたため、人一倍大変だった。


 学校の方では、相変わらず咲原は絡んできたが、全体的にみんな慣れてきて、そういう奴という認識だった。


「大丈夫ですか? お嬢様」


 執事のガゼスが心配して見に来てくれた。


「ええ、大丈夫です」


 咳はしていたが、そんなに酷くはなく、かなり健康な状態に戻ってきていた。


「ピンポーン」


 その時、家のインターホンがなった。


「誰でしょうか?」


 ガゼスが見に行って、再び自宅に静寂が訪れた。


 娘が病気だろうと両親はお構いなしにどこかにいく。そのため、自宅には私とガゼスしかいない。まあ、いた方が面倒なためそっちの方が良いのだが。


「お嬢様、ご友人の方がお見舞いに来てくださいました」


 ご友人……正直誰だかわからなかったが、一応通す。


「よう、桃井! 元気か?」


 友人というのは咲原のことだった。彼女の手にはプリントがある。


「これ、先生に届けてくれって頼まれてよ。届けにきた」


 届けられたプリントはほとんどどうでもいい内容だった。


「それじゃ、私は行くから」


 そして、彼女はそそくさと行ってしまった。


「……はあ」


 私はまたベッドに横になった。




「ルリ、勉強の方はどうだ?」


 父、母、私。無駄に大きな机を囲んで食事をする。


「ええ、順調です」


 ステーキを口に運ぶ。高いものでも食べ慣れいると、何だか味気ない。


「そうか、海外進学も楽しみだな」


「ええ、ルリも海外が楽しみよね?」


 3つ上の兄は海外の有名な大学に進学。父も母もどちらも同じ大学の卒業生だ。だから、あの2人は私にそこに行ってもらいたいのだろう。


「ええ、楽しみです」


 両親に嫌われるのが怖い、失望されたくないきっとそんな思いから私はこう言ったのだろう。




「なあ、ルリ。お前って何かやりたいこととかあるのか?」


 ある秋の終わり頃、祖父が私に尋ねた。


「やりたいこと?」


「そうだ。そんなに頑張ってるんだから、何か一つくらいあるんじゃないか?」


 そういう話は学校でもよく話されていた。何故か、自分の夢を語るような授業があったり、決意を言わされたりした。


 そんな時、私は決まってこう言っていた。


「世界の人々を救えるような医者になりたいです」


 世界の医者という人類の中でもかなりの頭脳を持たなければ慣れないこの仕事。この仕事を特にやりたかったわけではないが、こう言えばみんなが喜ぶ。だから私もよくこう言っていた。


「……そうか」


 しかし、祖父だけは喜ばなかった。


「何かありましたか?」


「……嘘はよくないぞ」


 ドキッとした。嘘だなんて初めて言われた。


「嘘ではありませんよ」


 それでも表情を崩さない。あくまでこの主張を突き通すのだ。


「……ならいい」


 そして、祖父はまた寝てしまった。


 それ以来、私は祖父のお見舞いに行かなくなった。何故かはわからない。ただ、足がそっちに向かなかった。




「桃井、咲原の家にこのプリントを届けに行ってくれないか?」


 そう担任に言われて、咲原の家の地図とプリントを渡された私。おそらく、自分で行くのが嫌だったのだろう。それはわかるが、生徒に押し付けないでほしかった。


「……ここ?」


 渡された地図には私の目の前のボロ屋が家だと書いてある。この家は私の帰り道にあって、何かの倉庫だと思っていた。まさか、家で、よりに寄って咲原の家だったとは……。


「ピンポーン」


 ボロボロのインターホンを押して待つ。


「お〜、ルリか」


 顔を出した咲原は思っていたよりも健康そうだ。


「こちらがプリントです」


「おお、ありがとよ」


「それでは私は行きますので」


 彼女がプリントを受け取ったので、自宅に帰ろうとした。


「ちょい待ち」


 すると、なぜか彼女が私を止めた。


「……なんですか?」


「せっかくだし、茶でも飲んでけよ」


 正直、こうなることは予想していた。予想していたからこそテンプレで返す。


「すみません、少々急ぎの用が……」


「まあまあまあ、そう言わずに!」


 しかし、そのテンプレも聞かずに私は家に引き込まれた。



 ぎしぎしとなる床を歩き、ぼろぼろの畳の上に正座して、待つ。


「これ、麦茶」


 麦茶が出てきた。飲んでみたが、少しぬるい。


「ごめんな、冷蔵庫が壊れてんだ」


 そんな私を悟ってなのか、咲原が気を遣った。


「いえ、大丈夫ですよ」


 そのとき、窓際のある物が目に入った。


「これって……」


「ああ、いつものギターだ」


 そこに立てかけてあったのは、あの日見た赤色のギターだった。ギターは少し薄汚れており、長年愛用してきたことがわかる。


「……気になっていたのですが、何故あなたは遠くの駅でギターを弾いているのですか?」


「そうだなぁ……」


 咲原は好きし考えた後、話し始めた。


「……私、夢があってさ」


 そう言って、咲原は夕日に差す窓の方を見た。


「いつか、世界一のミュージシャンになりたいんだ」


「世界一……」


「このギターはよ、昔かーちゃんが買ってくれたんだ。綺麗で、可愛くて、その頃は一日中弾いてたっけ」


 今までに見たことがない彼女の悲しげな表情。その表情から何も言えなかった。


「その後、かーちゃんはどっかに行っちまった」


「……」


「後になって知ったが、その頃親父には多額の借金があったんだと。それに嫌気がさしちまったんだろうな。どっかに行っちまった。私と親父とギターを残して」


「……そうだったんですね」


「だから、このギターで有名になって、もっかい、かーちゃんに会いたいんだ。私が有名になったら、かーちゃんは戻ってきてくれるかもしれないからさ」


 途中から彼女は涙を流していた。


 明るく気丈に振る舞っていた彼女。その胸の内にはこの過去と夢を背負っていた。


「そのためにゃせめて生活できるだけの金がいるんだ。親父の稼ぎだけじゃ流石にダメダメでな。ま、それでもギリギリなんだけどな」


 彼女は涙を拭って、笑った。


「話聞いてくれてありがとな。私はもうすっかり元気だ。さ、帰った帰った」


 そうして、私は夕暮れに染まった道を家に帰るために歩く。


「……」


 今日、咲原に会って気づいた。


「……私の方が問題児だったんだ」


 その時の私には夢も思いもやりたいことも何もなかった。




「……何もありませんでした」


 次の日。祖父の病室。私は胸の内を初めて祖父に明かした。


「やっぱりそうか」


 祖父はわかっていたような反応を示した。


「お前からは何だかそんな感じがしてたんだ。振り回されすぎたな」


「……もう手遅れでしょうか」


 胸の内を明かす。ただそれだけのはずだった。明かして何かをしてもらおうなんてない。ただの報告のはずだった。


 なのに、私は何故か祖父に救いを求めてしまった。


「これをやろう」


 祖父は下げていた私の頭にペンダントをかけた。


「……これは?」


「そいつはお前のばーちゃんがよくつけてたもんだ」


「お婆様?」


 お婆様は私が生まれたすぐ後に死んでしまった。だから、顔も覚えていない。


「お前とばーちゃんはよく似てんだ。全く感情を見せないで1人で抱え込んで……」


 祖父は私を懐かしそうに眺めた。


「だから、俺はばーちゃんとある約束をした」


「……約束?」


「そのペンダントをつけている間は自分の思ったことをそのまま言えってな」


 何とも祖父らしい話だ。


「そしたらあいつ、よく笑うようになってな。俺は嬉しかったもんだ」


 エメラルドがあしらってあるペンダントはキラリと輝いている。


「お前もそれをつけて、かーちゃんに言ってやれ。もう強制すんなって。若い内だ。遅いこともないし、悩むこともある。でも、それでも、いつかわかる。それまで頑張れ」


「……わかりました」


 初めてだった。海外に行きたくないこと、もう縛られるには嫌だということ、その思いを話したのは。


「頑張ってみます」


「おう! 頑張れ!」


 私は笑顔で病室を出た。


「……お爺様にまた報告しよう」


 ちゃんと言えたら、祖父に言えたと教えてあげよう。そうしたらどんな顔をするんだろう。そう思っていた。


 次の日のことだった。祖父は他界した。




「カチ、カチ、カチ……」


 やっとわかってもらえた。理解してもらえた。


「カチ、カチ、カチ……」


 その理解者もこの世を去った。


「カチ、カチ、カチ……」


 今では耳にする時計の音も煩わしく感じる。


「カチ、カチ、カ……」


 時計を止めた。


「…………」


 私にはもういらない。


「お爺様、ついて行きます」


 誰もわかってくれない。私は何もない問題児。もう、限界だった。


「ガゼス……」


 私の身を案じてくれた2人のうちの1人。何も残していかないのは何か嫌な気分がして、書き置きを残す。


「……できた」


 玄関から靴を拝借し、窓を開けて、2階から降りる。


「私の死に場所はここじゃない」


 私は歩き始めた。



 ガゼスは苦悩していた。


 昔は桃井 勘九郎に仕えていた彼だったが、勘九郎の指示により、その孫娘、桃井 ルリの下で仕えることになった。


 別に不満があるわけではない。そうではなく、ルリが心配だった。


 無理をして作っていた笑顔。嘘で常に自分を作っているその姿。その全てが過去に仕えていた勘九郎の妻にそっくりだった。


「勘九郎様……」


 ある日、彼の過去の主人である勘九郎がこの世を去った。しかし、その葬儀はまさに泥沼そのものだった。


 遺産の相続の話が延々と続き、ルリが来なくてよかったと心から安堵した。


 葬儀が終わり、彼はルリの身を案じて早めに屋敷に戻った。


「お嬢様、ただいま戻りました」


 ドアを開けた途端、何とも言えない違和感に襲われる。しかし、その正体はすぐにわかった。


「……時計の音がしない」


 屋敷が異様に静かなのだ。屋敷でなっているはずの全ての時計の音がしない。


「……お嬢様!」


 急いで階段を登り、ルリの部屋に行く。扉を開けて、目を見開く。


「誰もいない……」


 空いた窓から流れ込む風。その部屋の中にはそれしかない。


「……これは?」


 すると、ガゼスは机の上のある手紙を見つける。


『ガゼスへ』


 そう書かれた封筒。その封を開けると、ただ一言、こう書かれていた。


『さようなら』


 ガゼスは走り出した。




「ピリリリリ……」


 アンの携帯がなった。


「はい、もしもし……」


 昼過ぎ、天気は少し曇り。あくびをして彼女はその電話をとった。


『咲原様ですか!?』


「あ!? ガゼスさん!?」


 以前、ルリの家にプリントを渡しに行った時、電話番号を渡していたある執事から電話がかかってきた。


『時間がありません、よく聞いてください』


「は、はぁ……」


『ルリお嬢様が、おそらくですが、自殺しようとしています』


「……は?」


 それは信じられない言葉だった。


『あなたの力が必要です。今すぐ来てください』


「場所は?」


『ありがとうございます。桃井証券株式会社の屋上です。ロビーでMFと言えば通してもらえるはずです!』


 電話口のガゼスの声が息切れしているのがわかる。


「わかりました!」


 そのまま、電話を切った。ただ急がねばという感情が彼女の胸にあった。


「おっしゃ今すぐ……」


 その時、なぜだか赤い相棒が目に入った。


「……連れてけってことかよ!」


 彼女は相棒を背負って駆け出した。




「……何、ガゼスが?」


「はい、ルリお嬢様についてです」


 桃井証券株式。そこは日本有数の大企業。桃井グループの持つ会社の中でも中心に位置する会社だった。


 その会社の社長こそ、黒いスーツに白髪混じりの黒髪を持ち、恰幅の良さと貫禄のある、ルリの父親である桃井ももい 藤四郎とうしろうだった。


「とりあえず、電話をよこせ」


「了解しました」


 電話用ロボットから電話を受け取る。


「何だ、ガゼス」


『藤四郎様、先程そちらにお嬢様がいらっしゃいませんでしたか!?』


「ああ、来たぞ。何でも、職場を見たいと言ってな」


『お願いします、私を首にしていただいても構いません。藤四郎様、屋上に行ってください』


「……どういうことだ?」


『ルリお嬢様は今、自殺しようとしています』


「……わかった」


 藤四郎は動き出した。ゆっくりと、しかし急足に。



「……ルリ」


「お父様ですか」


 藤四郎の目の前には、今にも飛ぼうとしているルリがいた。首にはいつか見たエメラルドのペンダントをしている。


「何故、そんなところにいる」


「……父の葬儀にも出ずに会社にいらっしゃお父様にはわからないでしょうね」


 彼女の声は、冷たく淡白だった。


「何だと……!?」


「近づかないでください」


 半径1メートル。彼女はツタを張り巡らせた。


「ここより中に入れば、私は飛び降ります」


「……ぐっ」


「もし、娘が自分の会社の屋上から自殺しただなんてしてたら、この会社はどうなるしょうかね?」


「そういうことか……」


 藤四郎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


「……私はずっとあなたたちが嫌いでした。自分の価値観を押し付け、私のことを何も考えずに、知ろうともしなかった」


「……」


「何も言えないその姿、滑稽ですね。自分で自分の首を絞めるだなんて」


 ルリは邪悪な笑みを浮かべる。


 その時、屋上のドアを開けて、ガゼスが飛び込んできた。


「お嬢様!」


「……ガゼス」


「おやめください!」


「……あなたには感謝してるわ」


 ルリの口から出た予想外の言葉に、ガゼスは足を止めた。


「……お嬢様?」


「あなただけだったわよね。私の身を案じてくれたのは」


「それは……!」


 藤四郎だって忙しくて仕方がなかった。そう言おうと思った。


「いいの。横の薄情者を庇わなくても」


 しかし、これ以上近づけば、ルリが死ぬことぐらい、彼にもわかっていた。


 何かを言って刺激した場合、すぐに飛んでしまうかもしれない。そうなったら、自分は止められない。彼は苦悩する。


「……もういいわよね?」


 彼女は両腕を横にして、目を瞑った。


「お嬢様!」


 もう間に合わない、そう思ったその時だった。


「待ちやがれぇぇぇ!」


 屋上のドアが蹴破られた。


「誰だ!」


 藤四郎が叫ぶ。ルリも思わず目を開けて、その姿を見た。


「おい、桃井 ルリ! まだ死ぬな!」


「……咲原さん……」


 アンプを持ち、赤い延長コードを運び、ギターを背負ったアンが現れた。



「何であなたがここに?」


「ガゼスさんに呼ばれたんだよ!」


 アンはガツガツを歩み寄って、ツタの寸前で止まった。


「お前に、一個謝んなきゃいけねぇ!」


「何ですか?」


 彼女はそう言いながら、何故かギターを取り出した。


「私はシンガーソングライターだなんて言っておいて、曲なんて作ってなかった!」


「……そんなことですか」


「後もう一つ!」


 彼女はギターを構えて、アンプに電源を入れた。


「この歌は、ずっとお前に聞かせてやりたいと思って書いてた! でも、完成しなかった! それでも! お前にこれを聞かせる!」


「……いつまでも自分勝手ですね」


「そうだ!」


 ギターの音が響く。


「最初お前を見た時、昔のかーちゃんとおんなじ目をしてた! 暗くて! 死にそうで! 今にも消えそうなそんな目だ!」


 その度に、ギターの音が轟く。


「この曲を聴いてほしいってのも、私のただのエゴだ! だけど、それでもいい! 一生のお願いだ! この歌を聞いてくれ!」


 彼女の目には、光が灯っていた。



「……何ですか、この曲」


 私の目の前で、咲原は全力で演奏している。アンプからよく音が響く。


 道半ば  今はまだ見えない光  諦めなければ、夢は叶う


「……何で、何ですか……」


 テンプレのようにポジティブでウザい言葉が並ぶ。


 いつも隣に  悩みはともに悩めばいい  辛くとも私は絶対にお前を支え続ける


「何故、なんで、ですか……」


 私は立てなくなっていた。


 心の穴を埋めていこう  目標を見つけることが目標だ  死ぬまでお前の友達だ 


「何で、こんなにも、言葉が、まとわりつくのですか!」


 生きてればきっといいことがある 共に行こう 未来は明るい


「何故、涙が、でて、くるん、ですか……!」


「それはな、桃井」


 顔を上げると、咲原がいる。


「お前に私の思いが届いてるってことだよ」


「何なんですか、思いって……!」


「教えてやるよ」


 咲原は私の手を取って、言った。



「お前は1人じゃない。悩んだら、一緒に悩もうぜ?」



 桃井 ルリは初めて人前で大粒の涙をこぼした。


 空は美しく晴れ渡っている。


 彼女の涙は首元のエメラルドのように美しく輝いていた。




「……これが私とアンの物語です」


 完全に聞き入ってしまった。ルリがそう言ってからも、少し騒然としてしまった。


「そんなことがあったんだ……」


「ええ、それから私はお爺様の家をもらって、そこでガゼスと暮らしているんです。海外行きの話も取り消し。そのまま、あの藍堂学園に入学したら、偶然アンもついてきて……という感じでして」


 まさに、運命のような話だ。


「……一つ聞いていい?」


 あそこまで壮大な話を聞いて、こんなことを連続して聞いていいのかは迷ったが、聞いてみる。


「今のルリの夢って……?」


「私の今の夢……ですか」


 すると、彼女は清々しい笑顔で言った。


「ありません」


「……へ?」


「ありません。でも、悩んでなんかいません」


 そして、ルリはすぐそこにいる彼女の方を見て言った。



「今のまま、平穏で、楽しくて、明るい生活を、アンと一緒に、ただ過ごしていたいだけなので」



「今のまま……」


「高望みなんてしないことにしたんです」


 決して高望みなどではない。そう言おうかとも思ったが、やめにした。


「何だか、ルリらしいね」


「そうでしょうか?」


 きっと、今が彼女にとって一番高い望みの暮らしなのだから。



















  第四章 Welcome to new world 〜完〜


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る