第13話 セカンドライフ
この頃主人は渡辺さんの所に通いだして木工の手ほどきを受けている。ポセイドンを連れて散歩がてら出かけては何かをこつこつ作っているらしい。
私は主人が出かけると、冷たい空を上目遣いに眺め、換気の為に開け放った窓を閉めて机に向かった。
土曜日も日曜日も無い暮らし。もちろんウィークデイも祝日も無い。そんな農人まがいの生活。私の欲しがってた物はそんなにたいした物ではなかったらしい。生活が安定して二人になれば手に入るもの。先取りしようとしても手には入らないもの。それを欲しがっていただけだったんだと。
こんなのどかな暮らしをしていたら私の小説の主題は変わっていくんだろうか。暗く悲しいイメージからの解放。優しいだけの毎日。小さな芽吹きに揺れる心。自分にあきれながらそんな自分に満足していた。
誰だって優しい方がいい。眩しいことが良いに決まってる。歳をとればひがんだり羨ましがることが多くなる。自分に出来ないことが増えて情けない気分に支配される。そこからの物の見方が否応なく増えていくのだ。だからこそ安田さんの明るさを私は尊いと思った。この山の住人の心映えに暖かさを感じた。
主人がこっちに来てからレストランに出かける回数が増えた。何となく壁の時計が気になる。窓の外の陽の暮れぐわいを眺める。夕飯時が気になっている。今まで好きなだけ寝て気が向くと起きあがって夜中も煌々と電気を点けて夜明けを迎えることも珍しくなかったのに。
朝は朝らしく、昼は昼らしく、そして夜は夜らしい暮らしをしようとする。人間はよっぽど見栄っ張りなんだと思う。自然体でいようと思うのさえ誰かがそこに介在するのだから。
陽が暮れて家に戻ってきた主人が手持ちぶさたにしている。それがちらっと目に入るとついどうしようかと思う。お米がかしてない!おかずを考えてない。と現実に引き戻され、出かけるか。ということになってポルチーニへ通うことが多くなる。
暮れかかる道を二人で前後になって歩く。コートを羽織って背筋を伸ばすと原稿から解放されてホッとする。
初めてこのポルチーニを訪れたときも、実は主人と一緒だった。私も気に入ったけど、この黒光りする大きな梁をあかずに眺めていたのは主人の方だった。そのころから私は自分の事以外は何も目に入らない。ひたすらメニューをむさぼり読んで空腹を満たすことだけ考えていた。料理を決めて頭を上げると主人はまだ梁を眺めている。
「どうしたの?」
と、声をかけると、
「太い梁だな」
そのくらいの感想しか出てこないくせになんでそんなに時間をかけて眺めてるの?と私は急がせて料理を決めさせた。
「いいよ、お前が食べたいので」
そう言う主人の口癖を、また面倒くさがってと一瞥して、適当に見繕って私が注文した。
結婚というものはその時だけでは見つけられないものが多すぎる。気短な私は、自分で自分を追い込む。孤独感に耐えられず、何度この人の手を放そうともがいた事だろう。そのたびに何度となくかわされて今がある。
でも、今になってようやく冷静に見つめられるものが沢山あって、答えの無い長い旅なのだと思う。
この人の心の動きを右に読むのも、左に読むのも私の気持ち一つなのだと気づくだけに私は二十年を費やした。そして、へとへとになって倒れかけた先にあったもの、それは意外にも理解することの無意味さ。心が変わっていくことの不思議さ。
自分で作った枠が溶けていく、嫌いだったものも許容範囲の広がりで形を変える。安定した自分を捜すのにこれ程長い時間がかかるのだとそれがひとまずの中間報告だった。
ポルチーニの太い梁は私達の時を輝かせて相変わらず黒く深く光っている。集まる人の顔ぶれも相変わらず。それぞれ与えられた一仕事を終えて、自らの暮らしを選択し直したこの山の住人は一様に優しい。そう感じる私も優しい。静かなレストランの静かなひとときはゆっくりと流れていく。
おわり
3月10日。長い時間を共にし、未だに私の横にいてくれる。穏やかな、仕事熱心な掛け替えのない夫の誕生日にこの物語を送る。
静かなレストラン @wakumo
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