第12話 雪の朝

 夜半から細かい雪が静かに降り続いていた。私は遅くまで校正に時間がかかり寝付いたのが午前三時、まぶしい光に目をさまして窓に近寄ると、夫が暖かそうなコートを着込んでまとわりつくポセイドンを遊ばせながら雪かきをしている。教えもしないのに、何処から出してきたのかちゃんと手には真っ赤な雪かき用の大きなスコップを持って、口から白い息をリズミカルにはきながら。

 この庭で人がこまめに働く姿をこうして窓の中から見ることは無かった。雪かきは自分でするもの。重いものもどうやったら動くか自分で考えること。あてにする人のいないこの家で、薪割だってなんだって置いておいて片づくものなんてなにもなかった。自分が手を下さなければ何の変化も無くそこに放置されたままになった。自分の立てる音以外なにもなく、どうしても人の立てる音が恋しくなれば安田さんの家にお邪魔するくらいの解決策しかなかった。

 私は良い嫁でも、良い妻でも、良い母でも無かった。家族と一緒にいるのが苦しかったし、神経質なくせに人から神経質と思われるのが嫌だった。おおらかに振る舞いながらいつも冷静にいられるように細かい計算をしていた。笑顔の下で心の表面に立つ波を押さえ、そうしていることを人に知られまいと懸命になっていた。

 そのくせ理解して欲しくてたまらない。その反動からか私にとって子供も、夫も、自分さえも心を許せる者はこの世に誰もいなかった。そうはっきりと感じる。ずっとずっとそう思って生きてきたんだと。

 私は終の里としてこの山を選んだのだろう。象が墓を探してジャングルに消えるように、誰にも知られずひっそりと生きていこうと、ここにこうやって隠れ住んだのだろう。

 二度と人の中には帰らぬ。自分の我が儘も人の我が儘も許し合わなくてはならぬ面倒な世界に戻りはしないと決めていたのだと。

 胸の奥から熱い物がこみ上げてきた。それは自分を責める熱さなのか、後悔の感情なのかはっきりとしない。

 ただ、ここに許し合える人がいるじゃないかなどと安心する熱さで無いことは、そんな簡単なものにできないものだということは、熱さと同じくらい乾いた、さめた思いが心のどこかに影を落としていた。


 私達の毎日は、子供がいないとこんなにも静かになるのかと改めて思うほど無音の世界だった。夫はひとしきり動き回るとテーブルに腰を下ろして本を読み始めた。

 ポセイドンが時々あくびをする。やかんが沸騰して音を立てる。後は空気が止まったかと思うほどただひたすら静寂が続いた。

 クリスマスの日が嘘のように、ここに来た日以来取り上げて何も言わない夫は、二人が出会ったあの頃に戻ったようだった。

 今思えばあの頃は私の方が口数が多かった。私が声をかけないとまるで会話にならない。若い頃のままの、そうあの頃と同じふたりだった。

 夫が物静かなのをいいことに私は好き勝手やって来た。結婚を望んだのも、子供を望んだのも私だったし、私がそうしたいと言うとたいていの事は黙ってうなずいてくれた。結婚に関してだけ、夫は何時までも答えをだしたがらなかった。まだ若いと親から反対されていたし、自分の給料でやしなえる自信が無いとも言った。それをイケイケで押し切って私が諦めさせたのに、結婚も、子育ても、夫の方が真面目に取り組んで、とうとう放り出して山へ引きこもった私の尻拭いまで終えて、こうやって文句も言わないで平然と本を読んでいる。

 かなり偉大な人なんだ。と私は驚く。なのに、その姿はまるで風鈴を撫でて通るかすかな風のように穏やかだった。

「どうした?」

 さすが音無しの夫も私の熱い視線に耐えかねて顔をあげた。

「ううん、なにも…」

 引力に逆らって不幸になる私…前に自分で作った自由詩の散文が頭をよぎる。この人を心から信頼しているくせにそれを素直に口に出来ないところに私の出来の悪さがある。ボタンの掛け違いを治すのに勇気なんているはずないのに…勇気がないと言い訳して長い間ずっとそのままにしてきた。

「夕べ夢を見た」

 え?どんなと頭を上げると、

「お前の車椅子を俺が押している。秋の落葉の中の景色だった」

 絶句。私の乗った車椅子って…目の前をはらはらと落ち葉が舞い落ちる。

「それ、なんかの暗示?」

 私がぼそっと応えると、

「いやあ俺の覚悟だろう…覚悟してるとそういう夢を見るかな」

 覚悟…それって、最後まで私に付き合うって言うような。

「そんな夢勝手に見ないでよ!」

「ハハ!悪いな」

 そう言って弾けるように笑うとまた本に目を戻した。この人は私の事をどう思っているのだろう。今更聞くのも何だけれど、そんなこと考える私もおかしいけれど、一体私の事をなんだと思ってこうして一緒にいるんだろう。

そんなこと疑問に思う夫婦はいないんだろうか?私はつかみ所の無い夫にいつまでも新鮮でいられる方法はこれかも知れないと呆れながらため息をついた。

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