第11話 子供じみたクリスマス

 私の発案で作り始めたこの山の地図は誰に見せるでもない自分たちの道楽のためのものなんたけど、結構みんな乗り気になってくれて、歩いて十五分の所に住んでいる画家の吉住さんが絵を描いてくれることになった。

 “ポルチーニ”の女主人が一人で頑張っていると思っていたイタリア料理の店が、実は日本中を演奏旅行しているピアニストの甲斐之登がオーナーと聞いてまたびっくり。ここ掘れワンワン状態で有名無名いろんな人に巡り会えて、この山はほったらかされたままの宝の山なんじゃないかと掘り起こす楽しさに回覧板を抱えて夢中になっていた。

 興味本意で一件一件回るうちだんだん知らずにいた近所の人とも顔見知りになり、そうなれば自然に一度みんなで会おうと言うことにもなって、今度はそんな話を持ってあっちこっち回ったけど、よく考えたらこの企画を仕切るのはやっぱり私より安田さんが適任だわと途中から全権を放り出して安田さんに委ねた。

 その後、私は仕事のかたわら相変わらず地図作りに励んでいる。吉住さんからのアドバイスに応えたくて、白樺が二三本あるだけで強引に安田さんの合意を取り付けて白樺通りと無理にも名付け。家の前の通りはこの辺りでは景色が良いから見晴らし通り、レンガが敷いてあればレンガ通りと勝手に呼んで、なんだかこの山一帯が自分の物になったみたいで欲深く、今年の春には此処を花畑にしようと決めたところに、暖かい日を選んで一人こつこつと勝手に花を植えてしまった。

 春になったらまた出そうと相談もせづに決めているこの山の地図に一面の花畑を描くのを今から嬉しくも勝手に想像を巡らしていた。

 安田さん夫妻に全権を委ねた集まり会は季節も季節。それがクリスマス会に擦り替わるのに時間はいくらもかからなかった。何だか恥ずかしいクリスマス会。この年になってこんな事が起きようとは思ってみなかった。企画上手な安田夫妻の事だからきっとその日は私にとって久々の幸せな一日になるのではないかと今から心が踊る。

みんな一つだけ自慢の料理を持ち寄ることになって、さあ私は何にしようかと遠足前の子供のように悩んでいた。

 不思議だ。こんなことは嫌いなはずだった。人に合わせて何かするのは私の最も不得意とするところ。そんな私が浮かれている。

 しかも、それがとても楽しいときたら、かなり大きなバチが当たるのではないかとゆるみっぱなしの頬を時々引き締めながら、何だか不吉な予感に襲われる瞬間も感じていた。

 クリスマス会の日、慌ただしく作り終えた仲良し地図を昼食の後から御近所に配り終えて、久々に明るい陽射しをポカポカと背中に受けて帰ってくると、これ以上無い異変が階段の上り口で私を待っていた。

 階段の下に置かれた見慣れたボストンバック。安心しきってよりかかっているポセイドン。栗毛色の頭を優しくなでて、あの人が、何だか長いこと見ない間に年をとった顔で座っていた。

 しばらくは言葉にならない。残念ながら涙の再会と言う訳にもいきそうにない。年を取ると心がかたくなってそう簡単に感動の対面とはいかないのだ。

「やあ」

 夫が先に軽々しく手を上げた。

「ああ、ちょっと御近所まで行ってたの」

 何処に行ってたのかと聞かれたわけでもないのに、我ながらしょっぱなから可笑しな挨拶だとしくじった気がした。

 一人住まいの小さな階段に夫とポセイドンが幅を取って座っている。私は上がるに上がれなくて立ちん坊になっていた。

「あ、通るのかここ?」

「え、ええ」

 二年振りに会った私達二人の情けない会話をこれでは誰にも聞かせられない。

「そう、近所に行ってたのか。お前が?何か信じられないなそれ」

 思わずきっと睨んだ私の目にひるんだ夫は、腰を浮かして私に道を開けた。当然ポセイドンは私の後に付いてくる。夫は階段に立ったままそんなポセイドンの動きを眺めていた。

「すっかり慣ついてるじゃないか」

 その時、私はひどく重要なことを思い出して夫を見つめた。しばらく見ない間に口数が多くなってる。こんなにいちいち周りに反応して話をする人じゃなかったと。

「あなた、なんか変わった……まあ上がりなさいよ、そんなところでなんでしょ」

 夫はうなづいて、何を思ったのか階段の手すりを愛しそうになでながら一歩一歩、段を踏み締めて私に近づいてきた。

 今更照れることもないはずなのに夫の行動をしげしげと眺めていた私は、まともに自分に向かってくる夫に慌てて扉を開けると中へ飛び込んだ。

 初めて入った私のお城。椅子を勧めるとおとなしく従ってちょこんと座る。他人行儀なその姿は、何でも無関心でいつも知らん顔していた横柄なあの頃の夫とは印象が違った。

 何をするんだったかと落ち着かない私を静かに眺めて黙って出されたコーヒーを飲んでいた。

「ああ、今日クリスマス会なのよ」

 私はあまりの突然にすっ飛んでいた夕方の準備の事を思い出してエプロンを捜した。今日の為に考えてあったレシピの在りかが解らない。ああ、何を焦っているのか突然お客様が一人来たと思えばいいではないか。ここまでとっちらかるほど取り乱すことも無い。

「駄目、絶望的。私もコーヒーでも頂こう」

「どうしたんだ。お前らしくもない。焦ってないか」

 そう言う夫がやけに落ち着いて私を見つめている。その目は私だけを映し出すポセイドンの目に似ていた。

「今日、みんなで、ここの山のみんなでね、クリスマス会をやるのよ。それぞれ自慢の御馳走を持ち寄ることになってて。あなたの顔を見たら驚いて今夜のメモを何処にやったか忘れちゃったわよ」

 私は絶望的な顔をして椅子にへたりこんだ。

「此処にもあるのかお前の台所用の机」

「え、ああ、向こうの食品庫の方にね」

「それの引き出しだろう。お前が仕舞うとしたら」

「え?」

 机の引き出しと聞いてぐるっと記憶を巡らせて私は立ち上がった。そして、夫の言ったとうりの場所からメモは見つかった。

「何で解ったの?」

「いつも大切なものはそこに入れてたよ」

 夫はそう言うと優しい顔で笑った。    

「そんなこと知ってたの?」

「知ってたさお前が何時も何を考えて、何を企んでるか。ちゃんと知ってたさ」

 平然とさも何もかも解っているような口をきく。

「まあ、それで何でこんな別居になったって言うのよ」

 私は腹立たしくなって夫に突っかかった。

「お前が望んでた。それだけだよ」

 そう、私が望んだ。夫はなにもいわずそれを受け入れた。それだけ?それで今更……

 このところ私は一人の淋しさを持て余していたようだ。仲睦まじい安田さんを見る度に羨ましがっていた。日々何かをするにつけ、夫の事を思い出すことがやたら多かった。

 だから、こうしてやってきたと言うの?遠く離れた私の気持ちでさえ解ったと。そんなあなただとしたら目の前の私はあまりにも無防備過ぎる。

 私はノートを抱えたまま踵を返して台所に入った。レシピが見つかったんだから料理を作らなければならないと。

 ちらっと窺えば夫はストーブに当りながら静かにコーヒーを飲んでいた。

「仕事を止めたんだ」

「え?何で、あんなに好きだったじゃない」

「好きって言うより。家庭があったからな。園子の学校が終わってもうこれで良いと思った。一週間前。ちょうど五十の誕生日で止めたよ。仕事が終われば後は静かに二人で暮らそうと前から言ってたじゃないか」

 一週間前、ちょうど五十の誕生日、仕事が終われば後は静かに二人で、そう…そうだ、私はそれを待てなかった。一刻も早くこっちに来て自分の好みにあった暮らしをすることだけを望んでいた。

「治彦にも、園子にも言ってあったんだ。父さんは誕生日までしか此処にいないからってな。治彦が母さん頑固だからリハビリにポセイドン連れてっとこうかなんて、こいつだけ先に此処にきたんだよ」

 そう言って夫はポセイドンの頭をなでた。夫は子供達に誕生日までしか此処にいないと言ったと、此処にこの私と一緒に住もうと来たのだと。この二年間は子供の為の二年間だったんだと。

 私は息が止まりそうな胸を抱えて夫の話をただ黙って聞いていた。夫の言葉が私には眩し過ぎた。一仕事終えて満ち足りている横顔が穏やかで、抱えた全てのものを手放して此処にいる夫が寂しそうなのか、ホッとしているのか私には想像もつかなかった。

 

 今思い返してもその日の夜は楽しいクリスマスだった。楽しいと言う素朴な一言が胸にジーンとくる懐かしいクリスマスだった。

 夫は五十に私は四十九になって心も体も年老いた。若い時に比べて弾まないと思っていた心が、あの頃とは違う華やぎに包まれていた。落ち着いた二人の間に流れる空気。お互いを思いやる気持ち。長い間離れていたせいだろうか、いや、考えてみれば夫はもともと優しい人だった。私一人がもがきながら無い物ねだりしていたもの。

 静かな時間という、私の一番欲しがった物は、あの頃の私には贅沢すぎる。子育ての真っ最中に静かに暮らしたいだなんてもともと私の我が儘なんだ。

 それを夫はとがめもせず許してくれた。

 自分のやることにしか興味がなかったのか、私のことは私が考えればいいと思っていたのか、とがめも攻めもない。不思議なそういう人だったと改めて思った。


 突然の一人追加のクリスマス。ためらいながらドアを開ける私達をピアノの調べが包む。暖かく迎えてくれる暖炉の火。この店には似合わないと思っていた談笑の渦。私は苦笑いしながら自慢の料理を後ろめたく披露した。

 突然すぎて変えられなかったこの料理は、子供の誕生日のたびにテーブルを賑わせた思い出の大皿料理だった。

 知らない人ばかりだと思うから、ここは一つと腕まくりして張り切って持っていくつもりでいたけれど、その味を知っている者がここに一人いると思うと、

「さあ、どうぞ!」

 なんてにこやかにすすめることは出来ない。無理に笑って顔をひきつらせて、まるで形無しのばつの悪いディナーだった。

 反対に安田さんと来たら大はしゃぎ。夫に馴れ馴れしく近づいて、始めてなのに、今日会った人とは思えない打ち解けぶりで、本人を棚に上げて私のことを話している。

 ここにいた私は昔の私とはかなり違う。人にも気に入られていたし、人の為にかいがいしく働くのも嫌じゃなかった。それが、恥ずかしい。この人にそれを知られるのは最も恥ずかしい。

 開き直るのに時間がかかってみんなの自慢料理もどこに入ったのか解らないほど、私はすっかり上がって貴重な時間を過ごしてしまった。

 でも緊張して顔をひきつらせながらも、楽しかったのは本当だった。自分たちで企画したクリスマス。始めて近づきになった近所の人々。制作中の作品の話。蔦の葉の色談義、飛び交う鳥の背中の模様、私達を取り囲む時間は優しい。私はみんなから少し離れた所に陣取って、夫の穏やかな横顔を見るとはなく見ていた。夫は私をちらっと見て苦笑いする。

「本木さん、よくやってるわよ。この山のあちこちに花壇も作ってくれて、春になるのを誰よりも楽しみにしてるんだから」

 安田さんは知らない。本木が私のペンネームだということを。明日から我が家の表には二つの表札が架かるのだろうか…夫の城之崎姓と私の本木と…周りの談笑をよそにそんなことを考えながら不思議に冴えてきた私の頭脳は思いがけないものを写し出した。

 それは長い間忘れていた幼い頃の子供達の笑顔。夫が回す八ミリの音の無い画面からカタカタと溢れる幼い笑顔。私は黙り込んでいた。頭の中が大きなスクリーンになって何度も繰り返し写し出される映像。

 子供達の柔らかな表情は何処までもあの人に似ていた。軽い飲み物を手に持って夫が近づき私の横に座った。

「お前…幸福に暮らしてたんだな、良さそうな人ばかりじゃないか、明るくて穏やかで。田舎に引っ込んだってお前の理想どおりになるんだろうかって、かなり否定的に思ってたんだけどな」

 コップを傾けながら静かに話す夫。周りがどんなに賑やかでも私の心は静かに流れていく。求めていた静けさは周りの喧噪とは違うところに有ったのかも知れないと気がつく。

「渡辺さんが作業場を覗いてくれって、どんなものつくるのか興味あるし、一度行ってみるかな」

 私は黙っている。黙ったまま顔を上げた私を見て夫があきれた顔をした。私は扱いにくい。我が儘に、この人にしか甘えられないと解っていたのに、甘えたいのに強がって、私はいつもしくじっていた。

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