第8話 ポセイドン

 ある日、しばらくぶりに息子がやってきた。車の後部座席には、

「なんかしばらく見ないうちに随分やせたんじゃない」

 引っ越して以来会ってなかったポセイドンが窮屈そうに乗せられていた。家にいる間、ほとんど構ってやらなかったゴールデン。構ってやらないのは、身体が大きいのと、

「私には面倒を見る人が沢山いるんだから」

 と言うのがその理由。

 ポセイドンは私を覚えているのか、誰にでも愛想が良いのか、何の警戒もなく擦り寄ってくる。可愛いとは思うけれどこの大きさにはどうもまいる。この仔を子犬の頃から一番可愛がっていたのはこの息子だった。

「どうしたの?」

 私が不審そうな顔で聞くと、

「ちっとも面倒見れなくて、少しやせただろう。此処の方が空気も良いし、広いし置いてもらえないかなあと思って」

 と言う。

「うっそー、この子はあんた達が飼いたくて買った犬でしょ。私に押し付けるのはお門違いよ」

 語気がきつくなる。

「でも、面倒みるやついなくなっちゃったし一匹くらいなんとかならない、父さんもまるっきり構わないし」

「父さんなんてこの際関係無いわよ。この犬はあんた達三人で飼うって始めっから決まってたのよ」

 私は息子に詰め寄った。こんな大きな犬冗談じゃない。私の手には負えないわよ。まして犬好きと言う訳じゃない。なにが悲しくてこの子の面倒を見なくてはならないのか?

 しかし、それにしても何だか情けない。自分の頭の蠅も追えないこの子達に犬の面倒なんて無理だったんだろうか。私に押し付けようと言う安直な考えには承服しかねるが、自分の運命がどうなるのかと戦々恐々としているポセイドンに少なからぬ同情を覚えてしまった。

「あんた厄介払いされるんだ。薄情なもんだね。勝手の良い可愛がりかたされて」

「母さん人聞き悪いよ。俺だって可愛いんだからさ」

 もっと言いたげな息子を制して、

「同じことよ。当分家の敷居はまたがせないわよ。三人もいて犬一匹面倒見れないってどういうことよ」

 そう言うと息子は肩を落として、

「姉さん家を出たよ。父さんと喧嘩して」

 とようやくポセイドンの面倒の見れなくなった訳を話し出した。

「まさか?」

 私は耳を疑った。

「父さん止めなかったの?」

「止めないさ。帰りが遅いって叱られてそのまま口も聞かずに一週間。冷戦が続いて、次に口を聞いたときには家を出ますって、もう随分前から計画してたんじゃないかな。僕としてはホッとしたとこもあったかな。しょちゅうやってたから」

 そう言われれば私が間に入って仲を修復したのも一度や二度では無い。あの二人なら探せば喧嘩の種はいくらでもあっただろう。

「そう」

 私には何も言う資格は無い。父さんに全てを任せて……いや、押し付けて出てきたんだから。

「今何処にいるの?」

「友達のアパートらしいよ。姉さん家族にはきついけど人当たり良いから上手くやってんじゃない」

 私はポセイドンの頭をたたきながら、

「二十二か、もう親が心配する歳でも無いかもね」

 と自分に言い聞かすように言った。

「お前御主人様が一人いなくなったんだ。淋しいね。そうか、それでお前の身も細るわけだ」

 なんだか少しやるせないような情けない胸のうち。

「はいでは、あんたは帰りな。当分敷居高いからね」

 と、息子を手であしらった。

「良かったな。母さん暇だから絶対可愛がってくれるぞ」

「なにが暇よ。これでも仕事持ってるんだからね」

「ポセイドン横に置いといたって小説は書けるよ。僕はお得意様回りにつれて歩くわけにいか無いじゃない」

 と、さも企業戦士のように言って口を尖らせる。この子も断腸の思いで此処へ連れてきたのかもと思いながら。それでもまだ無罪放免にしてやる気になれず、

「私の口座にこの子の食費三人で振り込んでおいてよ」

 と言うと。

「あんまりがめついこと言ってると白髪のババァになるよ」

 と、憎まれ口をたたいて車に乗った。まったく来るたびに面倒を持ってくる。息子が車に乗り込んでドアを閉めたとたん、ポセイドンがそわそわと動き始めた。淋しそうにキューンキューンと泣く。この子もきっと別れは淋しいのだろう。

「当分会えないから別れを惜しむのね」

 犬とは言え物悲しい。息子の車を見送ったままじっと座っている。すぐ帰ってくるとでも思っているように。

「さあもう諦めてこっち来なさい。どれどれお前のねぐらを作ってやらないとね」

 私はひとまずテラスにあげて息子の抱えてきた箱から水入れを出してやった。お前が家に来た時。長女は17、長男は16、次女は14。三人で歓迎して落書したマジックの跡が水入れに残っている。小さい癖に飲みっぷりの良い姿を見て私がポセイドンと名付けた。

「その飲みっぷりの良さはかなりの酒豪よ」

 と言って笑った。大きな身体に似合わぬ優しい小心の犬。

「こんなおばあちゃんのお守りじゃあんたも退屈だけどしかた無いわね」

 私は新しい住人を歓迎したくて冷蔵庫を開けた。残っていたベーコンが三切れ。食器に入れてやるとポセイドンはペロッと平らげもっと欲しそうな顔をした。

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