第6話 本音を言ってしまえば…

 今日も外はそぼそぼと静かな雨が降っている。今年は雨がやけに多い。二~三日晴れ間が続くとまた湿っぽい日かやってきて繰り返し雨が続き、ダンダンと肌寒さが増していく。

 外の雨に合わせて気が沈んでいる。こんな刺激の少ない毎日を送っていると、自分の爪の形にまで気がいったりする。こんな日は嫌いなテレビの音でもあった方が気が紛れて良いのかもしれないと思ったりした。

 私の指の形は先細り。さっき庭に下りて大根の間引きをした時の土が爪の中に黒ぐろと残っている。いつのまにか夢中になって爪の中の土を片方の爪で掘り出しながら、ふと夫のことを思い出していた。

 夫の指の形は先っちょがまったくの扁平。細かいことが好きな割に、ものが掴み難そうなその太い指を、いつも馬鹿にして笑いの種にしていた。

 しかも、綺麗好きで毎度深爪。 

 でも、本当は、その形の変わった使いづらそうな指が私はとても好きだったんだ。

 大学時代、休みの度に通った図書館で机を並べて、調べ物をしている時、夫の文章をなぞるその指がぺしゃんこに潰れて動いていくのをよく見ていた。リボンも結べない不器用さにやっぱりこれじゃあ生活しにくそうと一人でケラケラ笑っていた。

 反対に夫に気にいられていた私のこの指。

「お前の指は細いからツボに入る」

 と、按摩の催促ばかり。嫌じゃないけど、どうしてそう言う実用的なことにばかりに人を使うのかなあ。そうやってこぼしながら随分一緒にいたよなと二人の時間を思い起こす。

 一人で暮らす、と言う淋しい今の暮らしが私の望んでいた静かな中にいることの代償なんだとこの頃そう思う。孤独でいたいのと、静かな中にいたいのは絶対違うと思っていたのだけど、それでは無声映画の中に居続けたいと言っているようなもので、人がいれば音が発生することを我が侭にも消し去ろうとしている。都合良くいい音だけ残して自分の気に入らない音は無くしてしまおうと思っても、そうはいかないことを、この一人暮らしで思い知らされる。

 長い結婚生活は私のイマジネーションをかなり激しく消耗させていた。もちろん子供にも夫にもかけた愛情が嫌々なものであったのでも、見返りを期待したものでもなかった。ただひたすら生きてきて、気が付いてみたらすっかりくたびれていたということで、そのくたびれが自分の限度を超えてしまった。それを今は少しでも癒してやりたい。

 雨の音はしっとりと心を落ち着かせて、自分の中に浮かんでくる過去のいろんなものを浄化して洗い流していく。しかし、それと同時に捨てきれないものも思い出させる。

 夫と共に生きた三十年。二人の間に流れた月日を思い出そうとしてもすでに虫食いだらけで、自分勝手に作り変えて本質からは遠いものになってしまっている。私の覚えていることと、夫の覚えていることは少しづつづれていて、多分、とうの昔に忘れてしまった事の方が多いに違いない。良いことも悪いこともみんな忘れていく。あれほど忘れたくないと綴った日記さえ今はもう開けることもない。

 それでもずっとこの人と一緒にいたいと思い続けていた。どれほど時が経っても、それは変わらないことと、ずっと変わらないことなのだと、驚くほど時が経った今でも、離れて暮らす今でさえ……私は静かに思っている。

 その切なさの結果がこの別居なのだろうか……未だに届かない思いに振り回されて諦め切れないでいることの証拠。友達に笑われた事がある。旦那と一緒に居たいと願うのは結婚して二年目までだと。それから先は一緒にいることが苦痛になる。それは本当だろうか?

 私にはそういう夫婦が反対に想像できない。きっとまだ子供なのだ。欲しがるばかりで与えることを知らない。そういう自分をさっぱりと開放してそろそろ生まれ変わってみたいと切に願っているのに、情けないほど最後の未練がまだ心の隅に頑張っている。

 夫は私のことを待ってくれているのだろうか。それともとうに私が変わることなど諦めて淡々と暮らしているのだろうか? 

 今日の雨の音は私の心の中をかきむしる。放って置きたいことまで思い出させて珍しく私を追い込む。私は黙って目を閉じることにした。何も手に付かないこんな日は頭を休める休息の日にしよう。思い出の中に埋没して涙を流すのもいいことにしよう。時にはそんな日も許してやろう。一人きりが辛い日もあるのだと……   

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