第2話 離婚をせずに離れて暮らす
夫と自分の生き方がどうにも埋められないほど違うものだと気づいたのは、子供も大きくなってそろそろ私の役割も終わりに近づいた頃だった。
どうも私は不必要なものを持ち続けていられない気短かな性分なのらしい。例えば盲腸。盲腸が人間にとってどう必要なのか良くわからないが、私にはすでに無く右のお腹に三針の跡が残る。子宮も子供達のお産が終わり、役割をすますと子宮筋腫で全摘となってしまった。
もはや子育ても終わり自分までもが不要になってしまったかと思うとそろそろ自分を切りにかかる。こうなるともう止められない。なんて悲しい性分なのかと自分に同情する。
私は雑木の中に埋もれて、人知れず暮らしたいと思う。夫もそれも良いなあと言う。
しかし、そうなるようにどうこうするということでは無く、あくまでそういうのも良いなぁ辺りの欲望でしかないのだろう。雑木林の中に新天地を開こうと言う程の情熱は彼からは感じられなかった。
私の仕事が少しづつ軌道に乗り、自然と触れ合うことで作品が生み出されると一途に思い込んでしまっている以上、もはや都会の暮らしは居心地が悪いだけで何の必要性も感じられなかった。日増しに思いは募り、この地への移住も刻刻と秒読み段階に入っていった。
五年前いつかは此処へ移ろうと思い切って購入しておいた三百坪の細長い土地。そこへ移る。足下に点々と落ちる大きな葉を見つけた時は信じられぬ思いがした。
期待して、半信半疑で首をねじ曲げて見上げる雑木の中に、ほうの木、柏の木、桜の木が何本かづつ自生していて、なんて楽しみな場所なんだとこの上無く気に入った。気に入るとはその程度のことなのだ。夫は日当たりが悪いとか、木が多いと湿気るとか言って嫌がっていたが、最後はお前が気に入ってるならそれでいいじゃないかとそう言った。
此処をねぐらにして新しい境地を開こう。書きたかった小説を書きまくろう。あの頃の私にはそれしか考えられなかった。失うものの大きさも、得るものの意味も何も考えられなかった。
母親に見捨てられた子供が時折やってくる。新車を買っただの、宝くじが当たっただの、私にはなんの関心も無い土産話をたずさえて。唯一気が利いているのは畑のうねたてぐらいで、これだけは手伝ってもらうと助かる。気前良くお茶の一杯も御馳走してやりたくなる。
最近手にいれたパーコレーターでイタリア式のコーヒーを鳴り物入りで入れる。子供は見透かしてあきれる。なんにしろイタリアは私の憧れの国なのだ。
「父さん元気にしてるの?」
「ああ、元気、元気、この頃インターネットを始めて夜遅く迄まで起きてるよ」
息子はそう報告する。
「母さんはインターネットしないの?」
そう聞く息子に、
「私はそう言うの駄目よ。ファックスくらいでたくさん」
「ファックスとインターネットじゃ全然違うよ」
「いいのよ。私にとってはそのくらいわかんないってことよ。あんまり便利になると返って煩わしいわよ。野菜もとれるし、週一度宅配のお肉とかも運んでもらってるし、私はこういう生活がいいのよ」
息子はあきれてコーヒーを一気に飲み干す。
「もう、味わって飲んでよ。今度来るときは知らせて、此処の乳製品美味しいからチーズケーキでも焼いといてあげるわよ」
私がそう言うと、
「当分必要ないでしょ。うねたても終わったし。母さん合理主義だから、うるさいだけならいないほうがましでしょ」
息子に見抜かれている自分が可笑しい。そう聞いて遠慮無く笑ってしまえる今の立場も心地好かった。
そう、私は静かに暮らしたい。ひっそりと好きな陶器と絵に囲まれて暮らしたい。子供たちは理想に反して、今のところ誰一人として私の趣味に共鳴する子が育たなかった。どこか騒がしくて口数も多く何時もバタバタしている。
大きな声を出されると胸が痛んだ。扉を激しく閉める音にも心臓が高ぶった。こうして離れてみてしみじみ音の無い世界に浸っている自分のテリトリーのキャパの無さに気が付く。パソコンのキーボードの音が部屋の中に響き渡るような、時計の時報が時々響くような、そんな何の刺激もない家。
そういえば夫はよくテレビを付けっぱなしにしていた。
「見ないなら切れば」
というと、
「見てるよ」
と決まって答える。そのくせ返事したかと思うといびきをかいて寝始める。
そんな音が私の中から無くなって二年。まだ今のところ恋しいとは思わない。この音の無い空間を手にいれるのが最高の贅沢だったんだから。
こうして庭を見つめていると、自然と一体になる瞬間を感じてフッと魂が抜ける気がする。それが至上の喜びなんて…我ながらどうかしている。
「じゃ、母さん僕帰るわ」
さっきから手もち無沙汰にしている息子が腰を上げた。
「なにかあったらファックス送るよ」
なんて、それはあくまで社交辞令。今まで、一度だって自宅に電話を掛けたことはなかった。この子はちょくちょく顔を見せにやってくる。こき使うだけ、こき使って小遣いもやらない親をなんと思っているんだろう。
しかし、それが離れて暮らしている私の礼儀だと、離れている夫への礼儀だとそう思っていた。
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