静かなレストラン

@wakumo

第1話 欲望の最終形

 判断力の鈍い、ちょっとの重いものも持てないほど筋力の無い、なにより生活能力の乏しい私が…

 都会の雑踏を遠く離れ、雑木林と霧がちの冷ややかな空気に閉ざされたこの場所で、女一人の身をもいとわず暮らそうと思い込んでしまったのは、歩いてわずか十分のところに、その『静かなレストラン』があるからだっただろうか…

 間近に迫る高い山に遮られて日没の早い山の一日。暮れかけの寂しげな林の中をずっと歩いていった果てにある、孤独なたたずまいのレストランを勝手にそう名づけたのは私で、本当の名は、『ポルチーニ』食べさせてくれるのは、気取らないイタリアの家庭料理だった。

 数十年来、リゾート開発の波に激しく洗われ続けたこの山は、いつしか地元の持ち主の手を離れ、別荘地として切り売りされた。

 そして、その後見事に放置され、今や見渡す限りの荒れ野原、使われぬまま朽ち果てたバンガロー、『売り地』と掲示されている大きな赤い不動産屋の看板が、少し車を走らせると次々に目に飛び込んで景観を壊す。

 核廃棄物処理場反対のスローガンの殴り書き、山の中に忽然とあらわれるゴルフ場、鶏糞の処理もままならぬ大型養鶏場。都会から吐き出された多くのものがこれほどまでに集まる…

 いわば、公害、都市問題のるつぼと誰もが眉をしかめるようなところだけれど…

 深い山がひっそりと覆い隠して、見る気のないものには何も見せてはくれぬ。山一つ向こうのことは話に聞くだけではっきりとはわからぬ。全てを黙って飲み込んでいるような大きな静かな山だった。

 こんな辺鄙な山野の中に、いったい誰がイタリア料理を食べに来るというのか。私のように物好きにも、あの店に魅せられてここに住んでしまおうと決めてしまう熱烈なファンがあちこちに点在しているのだろうか。

 だが…そんな心配とは裏腹に、あの店が大繁盛で店に人が溢れているようでは、私は困ってしまう。あの静けさが気に入っているのだから、店の薄暗い雰囲気に賑やかな騒ぎ声は似合わない。

 柔らかな木漏れ陽のテラスに人が鈴なりになっていたら、私は今度こそ居場所を失って、行く当てのない旅にでも出ねばならぬ。心配しているほどあの店の繁盛を望んでいないことがはっきりすると無責任な自分が可笑しくて一人で笑った。

 私の様に都会を捨てて、一人、木かげ越しの柔らかい光の中で黙々と小説を書いている変わり者が、フラッと家を出て、ブランチを食べて、食後のコーヒーに心をいやすのに持ってこいの店なのだと、何時までもひっそりと営業していて欲しいものだと勝手にそう願っているのだった。


 時折、雑踏の街から、古い友達が冷やかしに尋ねてくる。街では簡単に味わえない山の静寂をゆっくりと味わった次の日。この気に入った店を知らせたくて森林浴に誘い出し、グルグルと遠回りして歩き回らせたあげくの果てに、この店に案内する。

 すると、誰でも一様に、此処に、こんな何もないと思っていた山の中に、隠れ家のような洒落た店があったのかと小声で喜ぶ。その場所柄をわきまえさせる店構えが好きなのだ。この反応が得難いものだと一人で満足して毎度ほくそえんでいた。

 それ程、今の私にとってこの店は気に入りのたった一つの宝物なのだった。それは、忘れ去った、葬り去った、都会の洗練された香りをどことなく残した一片の郷愁なのかも知れない。

 人は何一つ失いたくはないのだ、手放して失ったものをどうにか無くさないように身勝手に繋ぎとめて生きているのだ。

 ところが、そんなに重宝に感じながら足繁く通っているこの店のマスターに、私はいまだにお目にかかったことが無い。多分奥さんだと思う小柄な女性が私達の話しの邪魔にならぬよう、つつましくサービスしてくれる。その人でさえ、薄暗い店の中でじっくりと見定めたことはまだないのだった。

 自分にとって運ばれるこの一皿の料理だけが、何物にも替え難い生きることへの執着なのかもしれないと。その匂いをかいだとたん、そっちに目がいって心が釘付けになってしまうのだ……

 美味しい料理を食べてホッと一息ついて店を後にすると、創作へのまた新たな闘志が沸いてくる。そんな栄養剤のような、酸素ボンベのような店が、私の名付けた『静かなレストラン』だった。

 仕事場の机の上には片開きのノートが何冊も重なって、どれも続きを書いて欲しくてじれて待っている。

 書きたいことは頭の中に山ほどある。ボールペンのインクもふと気づくとかなり減っている。まずは手帳にスケッチし、ノートにまとめ、パソコンで組み替えていく。私の小説は身近な題材が多い。書きたいテーマがありきたりなものだから材料は何処にでも落ちてる。

 いつもどこへ行くにも持ち歩く手帳には、走り書きのあれこれ浮かんだ風景が細かく書き込まれて、気まぐれな私の創作意欲に火が付くまで気長に出番を待っていてくれる。

 テーマも無い、何の脈絡も無い、食品のレシピだったり、パスタの値段だったり。朝霧の立ち上ぼる刹那の、刻々と変化する風景を描写したものだったり…

それらを掻き集めて、一つの物語を構築するのが、我ながら好きなのである。人の言う一言一言も気になって書き留めることがある。自分の口からでる一言さえも愛おしそうに写し取っていることがある。そういうことがやはり好きなのらしい……

 この仕事を携えて、この森の中に隠れ住んでしまったことが最高の贅沢なのだ。なんにしろ此処は誰に遠慮することも無い最後のお城なのだから。

 いつ食事をしようが、なん時に床に着こうがいっこうにお構いなしなのだから。

 庭に、此処に来て耕し始めた畑がある。今年は大根を作ろうとポット苗を作った。けちくさく直播きを嫌ってポットに二~三粒ずつ種を蒔いたら、大根は直播きしか駄目だと言う話をきいた。そうすると反対に意欲が湧いてきて本当にこの苗は育たないのか試してみたい。そういうことに情熱を注ぎたくなる自分にあきれてしまう。

 今のところ畑に下ろした後も順調に育っているポット苗の大根。この先どうなるのかと密かに楽しんでいる。そういうことがこの上無く好きなのだと…… 

 昨日、久しぶりに庭に出てみた。今年は、夏の名残りの暑さが厳しくて、陽の当たる日中庭に下りることは恐ろしく勇気のいることだった。しかし、秋が近づきじゃが芋を植えるシーズンともなると、日によっては庭に下りてみたくなる。小さな畑の草も引きたいし、なにより大根が根付いているかと気になる。

 この庭に少しの鶏を飼って、美術画廊のような別棟を建てて、この景色に埋没してしまうと、私の欲望も最終型を迎える。そうなるともう文章にするものも無くなるのでは?と不安な気分にもなって、私は不安定ながら今の不完全な生活を楽しんでいる。

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