祓魔師に愛される

特別な祈りの日であり教会には村人のほとんどが集まっている。村人達が両手を合わせて祈りを捧げる中、壇上の書見台に書物を広げて神からのありがたき言葉を読み上げているのは恰幅の良い牧師である。神の教えを朗々と説く牧師の声が響く教会内は厳かな空気に満たされていた。

不意に牧師の声がやんだ。

突然に訪れた静寂に違和感を覚えた村人達が顔を上げて一斉に牧師を見る。

牧師の皮膚が不自然な隆起を繰り返していた。まるで体内に潜む何かが暴れるかのように牧師の身体のあちこちが外向きに尖って突き出ては沈みを繰り返し、やがて、ただでさえ丸かった身体はさらなる膨張を起こし、


ぱあんっ


破裂した。

代わりに壇上に現れたの巨大な白い人型の異形であった。頭部には目を閉じた美しい女神の顔がある。だが通常の人間と違うのは肌の質感がぶよぶよとしており、真っ赤な舌を零す巨大な口が胴体に付いており、その胴の左右から両手を合わせて祈りを捧げる三対の腕が生えており、下半身は絡まり合う木の枝のように螺旋を描いて先に行くに従って細くなっている事である。

祈りを捧げる神聖な場ということもあってこの禍々しき白き異形はどこか神々しさを放っており村人達はその威容に充てられて一瞬呆気にとられるが、この異形が神とは似ても似つかない正真正銘の悪魔であると言う事実をすぐに身を以て知ることとなる。祈りをやめた異形の腕が凄まじい速度で伸びていき、最も近い距離にいた最前列の村人を六人ほど叩き潰したのである。六本の腕が緩やかに持ち上がれば、赤黒い血だまりの上に臓器をぶちまけて薄く平たく潰れた六人分の肉塊が村人達の視界に晒される事となり、教会内部はパニックに陥る。村人達は悲鳴を上げながら教会から逃げ出すために入り口扉に向かって我先にと駆け出し、その間にも群衆の後列を走る憐れな村人は次々と白い手に潰されていく。

やがて教会に生存者がすっかりいなくなってしまうと、この異形は、否、白い悪魔は、一旦外に逃げた村人を追うことを止めて教会の中央で静止し、胴体の口を大きく広げて辺りの空気を枯渇させる勢いで強烈に吸い込み始めた。口の中に時折吸い寄せられていくのは赤や黄色と言った淡い輝きを放つ炎のような不定形の美しい物体。

魂、である。

死者の肉体は受け皿の役目を終えて宿っていた魂は浮遊する。悪魔の好物はこの生命の源であった。

教会内部で行き場を失っていた魂を全て胴体の口に納めた悪魔の女神の顔は初めて満足そうに微笑みを浮かべ、そして今度は女神の口から喉を締め上げる苦しげな吐瀉声と共に黒ずんだ球体が幾つも吐き出された。その球体は直ぐにヒビが入って、中から白い悪魔がそのままの大きさで一体、また一体と生まれた。球体は卵なのであった。下で食って上から産んで、そうして悪魔は増えるのだった。

白き悪魔達は教会の外へと繰り出す。

村は地獄と化す。

悪魔の腕は逃げ惑う村人の次々と襲い、杖をつく老人から泣き叫ぶ赤子まで容赦なく潰し、吠え立てる犬も潰し、柵に繋がれている馬も潰す。村はあちこち死体だらけとなり、悪魔が次々と増えていく。誰も平穏だった頃の村をもはや思い出せない。地獄絵図でしかない。

しかし。

救世主はいた。

村の中央に設置された噴水の前に今、黒いコートを纏った二人の男女が立っていた。一人は両サイドを刈り上げたブロンドの髪をオールバックにして黒縁の眼鏡を掛けた女性で、腰に巻いたベルトには鞘に収まった刀を下げていて、口元では悪魔から身を隠す煙の出る特殊な呪いの込められた煙草を吹かしている。もう一人は髪を後ろで結った無表情な青年で、傍らには、黒を基調として血脈のように走る赤い装飾が見事な棺を置いていた。

煙草を指で挟んで“ふーっ”と煙を吐いた後に女が口を開く。


「こりゃぁ、間に合わなかったっぽいね」

「そうですね」

「しゃーない。狩りますか」

「はい」


彼女はまだ火の付いた煙草を足下に落として踏み消すと、二人の存在に気づいた目の前の悪魔を真っ直ぐと見据えて宣言する。


「戦闘準備」


青年が目を閉じる。すると次には青い輝きを放つ魂が抜け出て青年の身体は、独りでに勝手に開いた棺から伸びてきた無数の黒い腕に引きずり込まれて蓋が閉じる。この棺は近くに居る魂の無い者を収納する性質があるのだ。魂は女の腰の刀に吸い込まれて消えた。

女が鯉口を切る。

肩に宿った魂の蒼い輝きが溢れ出る。

姿勢を低くして柄に手を添える。

悪魔の白い腕が迫ってくる。

瞬間。

女が目にもとまらぬ早さで刀を抜き去った。悪魔が、いつの間にやら刀を抜いた姿勢で背後に立っていた彼女の存在を認知したときには既にその巨体は真一文字に斬られていて、悪魔が振り返ると同時に身体は上下に分かれて崩れ落ちていった。

普通の刀では決して切れない悪魔の身体。しかし魂の宿った、青い炎のような輝きを纏った彼女の握る刀ならば、それも可能とした。

悪魔は自らを脅かす人間の異端に気付き優先的に排除するべく一斉に集まってきた。人間など虫けら同然に殺すことが出来る超常的存在に囲まれても、彼女は全く意に返さずになんとも涼しい表情だった。慈愛に満ちた表情の女神達から女を叩き潰すためだけに繰り出される無数の白い腕。彼女はそれを軽い身のこなしで避けながら刀を振るって伸びてくる腕を切り落としていく。それはさながら舞のようであった。

やがて彼女は悪魔の腕の悉くを切断し、辺りは落ちた悪魔の石膏のような白い手で一面埋まってしまい、腕を失った悪魔達は攻撃の手段を失う。


「ざーんねん。もうネタ切れか」


汗一つかかずに涼しい顔の彼女は惜しむようにそう言ってから、


「それじゃあ今度は私たちの番だね」


と不敵な笑みを浮かべた。

彼女は、黒光りする革靴の両足を広げて地面を踏みしめて、より一層深く腰を下ろし、右腕で握った刀は刃先が左手側の地面に振れる寸前まで下向きに下ろす。集中するように静かに息を吐き出し、彼女に呼応するように刀身の蒼い輝きが増す。

彼女が、目をかっぴらいた。


「斬っっ!!」


彼女が横薙ぎに切り払った刀身。その先から青く鋭い斬撃波が放たれ、彼女の周囲を囲んでいた全ての悪魔達を一瞬にして真っ二つにしていった。

後に残るのは残骸のみ。

気付けば刀が纏っていた蒼い輝きは消え失せて元の銀の刀身に戻っており、その代わりに彼女の隣には棺に収まっていた筈の青年が魂を取り戻して立っている。


「お疲れぃっ」


彼女が青年の背を叩き、


「お疲れ様です」


青年がいつもの調子で返した。

彼女たちこそが人類の救世主。

『祓魔師』であった。





古くより悪魔は人類の暮らしの中にひっそりと存在していた。悪魔は実体を持てなかった。だから心に取り付いて心優しき善人を悪行へと導いたり、身体の自由を奪って直接人を殺させたり寝たきりにして衰弱させたりした。それでも悪魔による被害はそこまで頻繁に起こりうることでは無くて、噂が人々の間に広まりその噂が時々真実味を帯びたという、その程度であった。だがあるとき状況が変わった。

悪魔の王『ベルゼブブ』を名乗る少年の出現によって状況が変わった。その少年は頭部に二本に触覚が生えていること以外は至って平凡な純粋無垢な少年のように見えたが、その少年が大都市の人々の行き交う道の上で一度軽く手を叩くと、都市中に巨大な異形の悪魔達が溢れかえり、都市をめちゃくちゃにして破壊した。当時対峙した祓魔師にベルゼブブは言っている。


「理由? そんなの暇つぶしだよ」


それからベルゼブブは世界各地を飛び回り悪魔の卵を落として回った。この卵から孵った悪魔は実体を持つ悪魔であり、次々と繁殖を繰り返し、世界を恐怖に陥れた。

「エグゾール」とはそんな悪魔に対処するために祓魔師達が集まって設立し対悪魔組織だった。

悪魔が人類社会を脅かすとき、「エグゾール」の祓魔師がその平和を守っていた。





任務を終えた二人は市街地の中に格式高く堂々と建つヴィクトリアン様式の赤茶色の建物―エグゾール本部―へと戻る。歩いていると、すれ違う同業者はたとえ年上であろうとも彼女への挨拶を忘れない。これは彼女の階級を考えれば当然のことである。祓魔師は階級が下等、中等、上等、聖等、と大きく四億つに分かれていて彼女に与えられた階級は上等。約300人が属するエグゾールの祓魔師の中でも上位1割に含まれる希有な人材であり、悪魔と対面しても全く恐れることの無い強靱な精神と常人離れした身体能力は誰もが認めるところであった。それに比べて青年はたかだか下等の祓魔師であり、単に彼女の持ち武器である刀に魂を纏わせることが可能だったから運良く相棒に選ばれている、と思われても仕方が無い。大器晩成の素質があることなどは彼女以外誰も気付いていないのである。

青年は自分がやっかみの対象になることは重々承知しているので彼女が気さくに挨拶を返していく後ろで軽く会釈をして他の祓魔師の横を通り過ぎていった。

建物内を進む二人はやがて左半身を薄黄色の光に照らされる事となる。それは建物の中央に浮遊している巨大な球体が放つ神秘の光である。眩しくは無く、ほんのりと暖かい。この光には人間の取り憑いた悪魔を強制的に晒し上げる効果がある。悪魔の討伐依頼を終えた祓魔師は一度本部に戻って報告をすることを義務づけられていたが、そこにはこの光を浴びせかけ祓魔師の心身が潔白である事を確かめる意図も含まれていた。

二人はとある人物の執務室の扉の前で立ち止まった。彼女がノックをする。


こんこん


「お゛うっっ!」


雷のように轟く声が扉の向こうから返ってきた。

これは威圧をしている訳ではなく、“入って良いぞ”の意であった。

二人が部屋に入ると書類だらけの執務机の向こうで椅子の背もたれにもたれ掛かる白髪の体格の良い老人が出迎えた。


「おーう、おーう、おーう。今回も無事だったんだなあ、お前ら」


執務室に野太い声が響く。“おーう”が獰猛な動物の鳴き声に似ていた。この男は声がいつも声がガラガラと轟くのでサンダー上等と呼ばれていて、彼女の直属の上司でもあった。

彼女は背筋を伸ばす。


「報告致します。イグラザール北部の街『ガルア』の悪魔討伐完了しました」

「おう、お疲れ。被害はどうだ」

「数名の生存者を除いて住人は全員悪魔となり、これを討伐しました」

「そうかそうか」


それは待ちの壊滅を意味したがサンダー上等はまるで動じる様子を見せなかった。悪魔による被害においてその程度は実にありふれたものであった。


「またどうせその坊主が宿った刀でばっさばっさと派手に斬りまくったんだろ? いいなぁあ、俺もあと20年、いやあと10年若けりゃなぁ!こんなちまちました書類仕事じゃ無くて現場出まくるのによー」


サンダー上等は椅子をくるくる回りながら盛大に愚痴り、彼女を苦笑させる。

この老人の発言は全く出鱈目では無いのだ。つい十数年前までこの老人は相棒と共に現場の最前線で上級クラスの悪魔と殺り合っていた正真正銘の化け物であった。あまりに残した業績が多すぎて影響力がありすぎて士気の低下に関わるからと、老いを自覚せずに老体に鞭打って無茶して勝手に死ぬ前に現場を下げられたのである。尤も、その豊富な経験は部下達をどの現場に向かわせるかを指示する重要な材料となっており、この判断ミスが現場の祓魔師の生存率を大きく左右することを考えれば、サンダー上等の勇退は必要不可欠な事だと言えた。


「十分お暴れになったと思いますが、まだ足りないのですね」

「おうともさ! 悪魔の王ベルゼブブが死ぬまでこの身体は闘争を求め続けるんだ! がははははは!」


サンダー上等がひとしきり豪快に笑った後で、


「それでは私たちはこれで……」


と女は執務室を退出する素振りを見せた。だが


「おっと待て」


サンダー上等がそれを呼び止めた。


「ほれ」


とヒグマのような太い手が差し向けてきた紙の束を二人はそれぞれ受け取る。


「もう次の現場ですか。あの、休みとかって」

「移動中の車内でたっぷり休んだろ」

「なんてブラックな」

「疲れてるなら俺と代わるか? 俺が現場に出てお前がこの書類どもをどうにかする」

「行きます行きます」

「おう」


冗談交じりの会話を交わしてから彼女は手元の書類に視線を落とす。一枚目は世界地図が書かれていて目的地が赤い点で示されて住所なども載っている。二枚目、三枚目は周囲の目撃情報から分析班が予想した悪魔のタイプとその対処法が記されており、ぱらぱらと捲った後で彼女はまた一枚目に視線を戻す。

極東の海の上の島国。


「この国って」

「俺の母国です」


今まで黙っていた青年が隣で口を開いた。


「そして目的地は俺の故郷でもあります」

「え?」


意外な事実に思わず顔を上げて青年を見た彼女にサンダー上等が補足の説明をする。


「今回の現場は珍しく坊主の方から俺に言ってきてな。もう行かせろ行かせろってうるせーのなんの」

「“行かせろ”とは言ってません。“行かせてください”と言いました」

「おんなじだ。なんならお前の目は“行かせてくれなきゃぶっ殺す”って言ってたぜ。あんま老人脅すなよ、こえーから」

「思ってないですってそんなこと」


女は二人の珍しく面白い言い合いを眺めながら頭の中では全く別のことを考えている。つまり、自分の生まれ育った場所が人が悪魔によって穢されているかもしれないという残酷さと、それでも自ら確かめに行かずにはいられない青年の心情の辛さを想っている。

彼女の視線を受けて青年が老人の相手を止めて彼女に視線を返す。


「行きましょう」

「あ、うん」


無論、彼女に断る理由も無い。





飛行機に乗り電車に乗り、一日一本しか無いらしいバスに乗って並んで座って青年の故郷の村を目指した。里帰り、という体だった。

青年は白い肌着の上に肘の隠れる丈のゆったりとした黒シャツとズボンというシンプルな服装で、この国の夏は酷く暑いと青年から聞いていた女は肩を出した黒いカットソーに紺のデニムパンツという涼しげな格好だった。

彼女は都市部で生まれ育ったのもあってバスの車窓から見える山道に興奮していた。


「うわ~、すっごい狭いしくねくね曲がるしまるで獣道じゃん! 葉っぱもさっきから窓に当たりまくってるしずぅっと森だし冒険みたいじゃん!」

「そうですね」


青年は視線を本の頁に落としたまま適当に返事を返した。


「おや? バス止まった? おおっ鹿の群れだ! 大量の鹿がバスの前を横断してるよ! あの鹿、角が立派でかっこいいねぇー!」

「そう思います」


青年は両耳にイヤホンを挿して音楽を聴いていて、彼女に背中を叩かれて彼女が何やら言い終わるのを待って適当に返事を返した。


「うはあっ! 視界が一気に開けた! 一面の田んぼだ! 流石に壮観だなぁ~」

「……」


青年は寝ていた。





彼女は青年が緊張していることを感じ取っていたが口にすることは無かった。





青空の下、セミの声を聴きながら田んぼと田んぼの間の畦道を二人は歩いて行く。当然村に踏み入ったときから青年は背中に黒と赤の調和の見事な棺を背負っていて女は腰のベルトに挟んで鞘に収めた刀を提げている。だがこの村は四角く区切られた広大な水田が幾つも広がるばかりで民家は時折見かける程度で人をほとんど見かけず、悪魔の気配は微塵も無い。涼しいそよ風が吹いて田んぼの水面から顔を出す草を撫でていき草の揺れる子気味の良い音が鼓膜に届く。

悪魔とは無縁の長閑さである。

やがて瓦屋根の立派な家の玄関に青年が足先を向けたので彼女も後に付いていく。やたら広い庭の花壇から茎を青空に伸ばして見事に黄色い花を咲かせている向日葵たちにホースシャワーで水をやっていた腰の曲がったお婆さんが玄関前に立つ二人に気がついた。


「あらあらあら。正ちゃん、お帰りぃ」


朗らかな笑みを浮かべてゆったりとしゃべるこの老婦人は青年の祖母であった。


「ただいま、婆ちゃん」

「うんうん。お帰りぃ。おんや、隣のべっぴんさんは」

「あ、私はですねぇっ」


彼女ははりきって自分の立場を明らかにしようとしたのだが、


「上司」


青年が間髪入れずに答えてしまったため彼女の気合は不発に終わってしまった。


「あらそうなの~。孫がいつもお世話になってます」

「いえいえいえ」


只でさえ曲がっている腰をさらに曲げてお辞儀をするお婆ちゃんに彼女はたじたじとなる。

青年の言葉は別に事実ではある。が、本当は別の言葉を言おうとしたところを遮られて思うところがあった彼女は責めるように鋭い目つきでゆっくりと青年に顔を向けた。青年はその視線から逃げるように顔を逸らした。こいつ分かって言っただろ。内心彼女は思った。


「中でご飯用意して爺ちゃんたち待ってるからねー。上がって上がって」


お婆ちゃんに促されて、青年が引き戸をガラガラと横にスライドさせ、二人は家に上がり、最後に入ったお婆ちゃんが玄関を閉めた。二人が靴を脱いで木張りの廊下を進み障子を開けて畳の居間に踏み入れば、沢山の食事が載った膝上ほどの高さの机を青年の母と父と祖父が囲んで座っていた。皆で見ていたテレビを母がリモコンで消して立ち上がる。


「お帰り、正一郎」


気品ある優しそうな女性だった。


「ただいま」

「でっかい箱背負ってるわね~」

「仕事道具」


素っ気なく返した青年は背中の棺を壁際の床に置いた。彼女もそれに倣って隣に腰に差していた刀を置く。青年はそのまま居間の一角にある仏壇の前に座った。

だから視線が自然に彼女に集まった。彼女は青年の家族の顔をひとりずつ見つめた。


「突然お邪魔して済みません。私は彼の同僚のフレン・フリューゲルと申します」


彼女は気を遣われるのを嫌って同僚を名乗ることにした。母が彼女に歩み寄ってくる。


「ぜーんぜん気にしなくて良いわよ。そうだろうとは思ったけど、やっぱり外国人さんなのね。綺麗なブロンドの髪ねぇ」

「外人にしちゃ日本語が上手いなあ」


腹が出て頭皮も薄くなり始めた青年の父が感心したように言った。


「外人じゃ無くて外国人よ、お父さん」

「あ、そうなのか?」

「どちらでも構いません。日本語は正一郎くんに教えてもらいました」

「あら、息子には意外な才能があったのね」


母が微笑む。だが才能があったのは青年では無くむしろ彼女の方だったのかもしれない。出会った当初青年は英語が苦手で彼女は日本語が話せなかったので、二人でお互いの言語をどちらが早く習得できるか賭けをしたのだ。言語習得の近道は喋ることであり、よく喋るのは断然彼女の方である。結果は推してしかるべく。

突然母は、彼女を抱きしめた。


「いらっしゃい、フレンさん」


その柔らかな言葉遣いと腕の温もりはそのままこの女性の優しさを表しているようであった。数秒して腕を放されたとき、彼女は心に生じた温もりに気をとられて直ぐに言葉を発せなかった。母はぱちぱちと瞬きをして口に手を当てた。


「あら、私間違っちゃったかしら。向こうじゃこれが挨拶だと聞いたんだけど、御免なさいね。びっくりしたわよね」

「あ、いえ。私の国では確かにハグが一般的な挨拶ですからお母様は間違っていませんよ。ただ日本でハグされるとは思ってもいませんでしたので」

「良かったぁ合ってたのね。一度やってみたかったのよ、ハグ」

「母さんはハイカラだなあ」

「恥ずかしいから変なこと言わないでお父さん」


母の持つお茶目な一面に彼女も思わず笑顔になった。そんな彼女の肩を青年がちょいちょいと叩いた。


「挨拶しますか? 兄貴に」


彼女は居間にそれらしい人物の姿が見えなかったので一瞬困惑したが、青年が視線で指し示した方向には仏壇があって、事情を直ぐに理解した。


「私もして良いのか?」

「ただの挨拶ですから」


頷いた彼女は青年に作法を教えてもらい仏壇の前に正座し、一礼し、線香を点け、鐘を鳴らし、手を合わせた。

飾られた写真の男性は青年によく似た顔立ちをしていた。


「「「いただきます」」」


皆で食卓を囲んだ。

青年の隣に座る女は目を輝かせていた。机の上に並ぶ料理は、寿司に味噌汁にひじきの煮物に卵焼きに茶碗蒸しきんぴらごぼうに天ぷらに……いわるゆ和食の数々だったが、彼女にとってはどれも初めてのものでありフォークを巧みに使って好奇心の赴くままに次々と料理を口に運んでいった。


「ん~~美味しいです! どれも堪らないですね!」

「そう? そう言ってくれると作り甲斐があるわ~。息子は何にも言わないんだから」

「若いんだからいっぱいお食べねぇ~」


口角を上げて幸せそうに和食を頬張る彼女に女性陣はとても喜んだ。彼女の横で彼女を隠れ蓑にするようにして青年は黙々と寿司を食べていた。しかし母は当然話題の矛先を久しぶりに顔を見せた息子に向ける。


「それにしても元気そうで良かったわ。正一郎、あんたちょっと痩せたんじゃ無いの?」

「変わってないよ」

「そう? あんた向こうに行ってから全然連絡寄越さないんだから。病気とか怪我とかしてるんじゃないかってお母さん心配で。お父さんなんか“死んでんじゃ無いか?”って縁起でも無いこと言ってたんだから」

「ごめん」


青年が素直に謝る。

親に叱られる青年の姿がだいぶ面白くて彼女は料理をもぐついて無関心を装いながらも聴覚だけは尖らせていた。


「ま、健康ならそれで良いわ。向こうでこんな可愛い恋人もちゃっかり作ってるくらいだし、意外とやるのね」

「えっ」


突然出てきた“恋人”という単語は明らかに己を指し示す言葉であり全く予想していなかった彼女は食事の手を止めて不抜けた声を出した。「あっ」と続けて漏れた言葉は口に運びかけていた寿司が皿の上に落ちたから。


「あれ? 電話で正一郎から“彼女も連れてく”って聞いてたからてっきりそうなんだと思ってたけど、違ったかしら?」

「あ、いえ、そうです。恋人です。間違ってないです」

「流石俺の息子だ。女を見る目は確かだ」

「恥ずかしいからやめてくださいね」


彼女は先ほど青年が祖母に自らを“上司”と説明したのを聞いている。彼女はゆっくりと青年の方へ顔を向け“やっぱり言ってんじゃーん、恥ずかしかったんかおーい”とニヤけ顔で揶揄った。青年は流石にバツが悪そうな顔をして視線を逸らした。


「面倒くさいでしょ正一郎の彼女は。全然表情変わらないし、思ってることあんまり口にしないし。その癖へんな所で頑固だし」

「正ちゃん小っちゃいときにスズメバチに腕刺されて痛いはずなのに何も言わないで、気付いたら腕パンパンになってたこともあったねえ」

「不良にたこ殴りにされて返り討ちにして正一郎だけ痛がりもせず平然とした表情してたから、正一郎の方から仕掛けたんじゃ無いかって交番のあんちゃんに疑われたこともあったよな」


気付けば青年の家族は幼き日の正一郎あるあるで盛り上がっていた。無表情な青年は内心かなり居心地が悪いだろうがそれは今までの積み重ねなので致し方なく、なにより彼女にとって恋人のエピソードは興味深いし納得も出来た。長年の付き合いで青年の性格は把握している。要は青年は責任感が極端に強いのだ。自分に関することは全て自分に責任があり、わざわざ表情に出して言葉にして誰かに手を煩わせる事を良しとしない。おまけに酷く不器用だから、何とも分かりにくく人よりも苦労の多そうな憐れで愛らしい生き物が誕生する。


「ね、可笑しいでしょ」


母が彼女に笑いかける。


「そうですね」

「でも嫌いにならないであげてね」

「ええ、それはもう。それに長く観察していると何を考えているか大分分かるようになりましたし、気付けるのが自分くらいだと思うとなかなか素晴らしい優越感があります。不器用だから他の女に目移りしたら直ぐに分かるのも楽で良いですね」

「流石は俺の息子。尻に敷かれるなこりゃ」

「お父さん、五月蠅いわよ」


母は彼女に向き直る。


「だけど……本当に良かった……」


母の口からゆっくりと紡がれた言葉は心からの安堵が籠もっているようだった。


「実は、年の離れたお兄ちゃんがいたんだけどね。元々祓魔師でね。あるとき殉職して死んじゃって。そのときから正一郎は“敵をとる”の一点張りでとうとう祓魔師になって。そればっかりに夢中になっていつか無茶をするんじゃ無いかってヒヤヒヤしてたの。でも貴方みたいな恋人がいればそうそう無茶なんて出来ないわよね」

「お任せください。私の目の黒いうちは彼が無茶をすることを絶対に許しませんから」


嘘では無い。

彼を使うのは彼女の仕事だ。

手綱を握っているのは彼女だ。


「まあ、そうは言っても鈍いし不器用だしデリカシーないし、言葉が足りないと思ったら遠慮無く言っちゃえば良いからね」

「ええ、勿論。まずは嬉しい時や楽しい時はもっと笑えって事を教え込もうと思います。手始めに彼の好きな和食の料理とかを教えて欲しいんですが」

「分かったわ。後で紙にレシピを書いて渡すわね」


ここで今までずっと静観していた青年がとうとう気まずさに耐えきれなくなったのか口を開いた。


「そういうのって本人が居ないところで話すもんじゃないのか」

「「あんた(君の)表情筋が死んでるからでしょ」」

「……すみません」


青年は思わず謝罪の言葉を口にした。





足は縁側に座って田舎の風景を眺めていた。

柔らかな風が気持ちよかった。天井からつり下がってる風鈴の鳴る音が心地よかった。

青年は食事中一言も喋ることの無かった祖父にねだられて居間で将棋を打っている。

時間が緩やかに流れていて素敵だと思った。

青年の家族は皆仲が良くて見てるだけで幸せを貰えた。

少しの滞在でこんな風に思えるのだから、生まれ育って長い時間を過ごしている青年にとってここでの暮らしは何物にも変えがたい価値のあるものだろうと彼女は思った。

隣に母が座った。


「こうして景色を眺めていると、何だかいつまでも同じ時間が流れていく気がするわよね」

「そうですね」

「気に入った? この場所は」

「はい。気に入りました」

「良かった」


穏やかな静寂。


「今晩は公民館の前の空き地で盆踊りがあるの」

「盆踊り?」

「そう。先祖と、私たちを祀るのための行事」

「私たち」

「村の人は全員来るから、フレンさんも正一郎と一緒にいらっしゃい」

「分かりました」


穏やかな静寂。


「あの、お願いをしても良いでしょうか」

「もちろん。何でも言って」


彼女は母にお願いを告げる。


「分かったわ」

「ありがとうございます」


穏やかな静寂。


「正一郎のこと、よろしくね」


風鈴の音がひときわはっきりと聞こえた。

花火柄の風鈴の音が。






夜になった。

昼間に響いていたセミの鳴き声はいつの間にか泣き止んで代わりに蛙の鳴き声が辺りに響き渡るようになっていた。

二人は盆踊りの会場である公民館前の空き地に来ていた。青年の背中には棺が女の腰には刀が提げられている。


「おお……」


彼女が思わず声を漏らす。

美しかった。

中央には紅白の幕を纏った櫓が堂々と鎮座し、その櫓に向かって四方から宙を通されたロープから幾つもの提灯がぶら下げられ、橙色の輝きを放っていた。その淡い光に照らされながら村の人たちは皆ラジカセから聞こえてくる音源に合わせて櫓を囲みながら楽しげに盆踊りをしていた。

青年はその光景を目に焼き付けるようにその場に突っ立ってじっと盆踊りの光景を眺めていた。彼女も黙って横に立っていた。

やがて青い法被を来た男性が櫓の前に立ち握ったマイク越しに喋り始める。


「えー今年もですね。雲一つ無い晴天の下、無事に盆踊りを開催できたことを嬉しく思います。先祖を祀る大切な行事でありますから是非とも皆さん老若男女を問わず踊っていただけたらなと思います。また今日はですね、特別なゲストが来ております。なんと海の向こうからですねこんな田舎にはるばる足を運んできた外国人さんがいらっしゃいまして、今からなんと祖国に伝わる伝統的な曲を笛で披露してくださるということなので、みなさん暖かな拍手でお迎えください。フレン=フリューゲルさんです。どうぞ」


彼女が青年の母にしたお願いは無事に通ったらしい。櫓に登る機会を得た。拍手を受けながら彼女を先頭にして二人は櫓の階段を登った。

櫓の位置は高いから村の人たちの顔を余すこと無く見渡すことが出来た。ここからなら会場全体に笛の音を行き渡らせることが出来るだろう。皆、暖かな微笑を浮かべて彼女のことを見上げていた。

青年が棺を下ろして、中に入れていた木製の横笛を彼女に手渡す。


「どうぞ」

「ありがとう」


彼女は笛を口元に近づける。


「いくよ」

「はい」


独特な調の美しい音色が会場に響き渡る。それは彼女の祖国の曲、などではない。祓魔師のみが知る、人間に潜む悪魔を暴き出すための悪魔にとって蠱惑的な悪魔的な音色である。

……村の人たちの身体が次々と破裂した。

青年の家族も、一人残らず。

彼女は目を伏せて短く呟いた。


「……戦闘準備」

「……はい」


何かを堪えるように唇を噛んでいた青年が消えそうな声で呟いた。





二人だけを乗せたバスが村から遠ざかる。バスの柔らかな座席の背もたれに深くもたれ掛かり天井を見上げる彼女には疲労の色が窺える。それは阿東前のことで彼女たちは夜通し悪魔を狩り続けふらふらの状態で村に一本しか無いバスに乗ったのだった。

彼女が視線を右にずらせば、姿勢良く座って車窓を眺める青年の姿がある。彼の視線の先には青色の炎で焼かれる故郷の村の景色。悪魔は悪魔を呼び込むために、生存者が誰も居ない場合は悪魔の残骸諸共、村は聖なる炎で焼き尽くす決まりである。青年は一言も発すること無く焼ける村を見つめている。

二人の間に広がる重たい沈黙。

破ったのは青年だった。


「良かったと思っています。もしも他の祓魔師が任されていたら納得できなかったかもしれない。自分の手で、皆を天に還せて、良かった」

「ご家族もきっと待っていたんだろうね。心に入り込んだ悪魔も君を想う気持ちを穢すことは出来なかった。だから皆あんなに暖かく出迎えて……」

「……はい」


青年の言葉が震えた。

彼女は膝の上に老いてある青年の手に自分の手を重ねる。


「悲しいね」

「いえ」

「でも手が冷えてる」

「バスの冷房が思ったより効いていて寒くて」

「ふーん」


彼女は青年の顔をのぞき込むようにして観察する。


「脈が乱れてるし呼吸も浅いね。顔も白い」

「……気のせいです」

「ふーーん」


彼女は一旦身体を起こして対面の空席を見つめた。


「自分に関するあらゆることを自己責任で済ませるのは殊勝な事かもしれないけどさ、傍で見てる側としては結構寂しかったりするんだよね」


信頼が無いのだろうかと腹が立つまである。


「だからさ、感情くらいは共有しなよ。悲しみくらいは半分ちょーだいよ」


それは、彼女の相棒としての恋人としての、これ以上無い思いやりであった。

青年は息を一つ吐き出すと、意を決したように言った。


「別に悲しくは無いのですが、少し、肩にもたれても良いでしょうか」

「どーぞ」

「失礼します」


そう断って青年は彼女の右肩にゆっくりと頭を預けた。肩の重みを感じた所で彼女は、右腕を青年の身体に回してぐっと自分の首元に抱き込むように引き寄せた。

「っっ」

「寒いんでしょ。こっちの方が暖かい」

「……ありがとうございます」


しばらく密着したまま二人は動くことは無かったが、やがて青年は身体を震わせて泣き始めた。

彼女は左手で青年の頭を撫でていた。






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