王女に愛される

青年が少年だった頃の記憶には少女だった頃の彼女の姿がある。

王女。

肩口に短く切り揃えられた炎を思わせる真っ赤な髪の毛、活力の漲る力強い瞳、子供ながらに真っ直ぐ通った鼻梁。外套には金色の刺繡が幾何学模様に施された黒いジャケットを羽織り、中には縦に並んだボタンで間を閉じた白いベストと黒いハーフパンツを着ている。見た目は貴族の美少年。だが、女の子である。


「さあ。棒を持って構えるんだ」


植え込みが迷路を織りなす王宮の庭園の中心でジャケットを脱ぎ捨てた少女は、対面に立つ少年に向かって握った長い木の棒を向けながら煽った。騎士ごっこ。剣に見立てた木の棒で騎士の剣戟のように少年と突き合う事を少女は望んだ。少女は、棒馬や狩猟と言った男の子のよくやる遊びの方がおままごとやお手玉と言った女の子のよくやる遊びよりよっぽど好きだった。少年としても断る理由はなく、いつも密かに茂みの中に隠してあるお気に入りの長い木の棒を一本手に取り斜めに構えた。


「今日こそアデラに勝つよ」

「うん。それじゃあ始めようか」


互いに木の棒を幾度も弾き合う。と言っても互角ではない。少女の方がずっと優勢である。迷いのない手さばきから少年の腕や脚にどんどんと振られる棒は早く重たく、少年は直撃を避けるために必死に弾いて結果、防戦一方になるしかない。


「ほら。ほら。ほら。頑張って」

「くっ。うおっ。ううっ」

「はは、楽しいね」


少年の顔は苦しげで少女の顔は涼しげである。

年上の男の子よりも強く、同年代の女の子と考えればその腕は驚異的ですらある。たとえ王宮常駐の騎士に習っていたとしても才能という言葉を信じざるを得ない。王の娘というだけで容姿も剣術も他にも全てに秀でるのだろうかと少年は心の内で密かに思っている。

やがて少年の腕は疲労で重たくなっていき、少女の猛撃を防ぐことすら出来なくなり、渾身の突きをお腹にまともに喰らって「わっ」と情けない声を上げながら後ろ手に尻もちをついた。

少女が木の棒を少年の顔に向け、勝負の決した証に額に先をちょこんと触れさせる。


「よし、僕の勝ちだな」

「くそぉ……また負けたぁ……」


実のところ少女にはほとんど勝てたことが無かった。今日こそはと意気込んで今日もやっぱり負けを重ねた。

足下は柔らかな草の茂みで、少女は疲れたと言って大胆にも仰向けで大の字になって寝転がり少年も横で寝ころんだ。そよ風が吹いて汗で濡れた二人の顔を心地よく撫でていった。


「明日こそは勝ってみせるよ」


負けてばかりでは格好がつかないと少年は一丁前に意思表示をしてみるが、少女は口を閉ざしたまま何も言わない。もはや決まり文句となってしまったこの言葉を言う情けない自分にもとうとう愛想が尽かされてしまったかと心配になって横を向いた少年は、眉の下がった困り顔で空を眺める少女の横顔を見る。


「ごめん。明日からは、もう遊べないんだ」

「……どうして?」

「僕は明日誕生日なんだ」

「そうなの!? おめでとう!!」


身体を起こして無邪気にお祝いの言葉をくれた少年に少女は、嬉しそうに控えめに笑って、


「ありがとう。でも違うんだよ」


と落ち着いた声色で返す。


「僕の教育もしてる世話係のベレスさんが言うには、明日から僕は本格的に王女になるための色々を勉強していくことになるから、外で、ましてや異性と遊ぶ事は許されなくなるんだってさ」

「なんで?」

「んー」


少年は再び仰向けとなり二人で空を見ながら悩む。だが齢10にもならない子供には淑女たるもの……と言った社会ルールは理解できる筈もない。子供はまだ社会の枠に組み込まれていない。ただ遊べなくなるという事実だけが二人にはあった。


「分かった。アデラは王女になるために勉強を頑張るんだね」

「ああ。僕は立派な王女になって将来この国を治めるべく頑張るよ」

「そっか。じゃあ僕も父さんみたいな立派な魔術士になって将来アデラを傍で支えられるように頑張るね」

「本当かい!?」

「うん」

「そうなったらとても嬉しいよ!」


今度は少女が体を起こし瞳を輝かせ期待に満ちた表情で言う。その表情は将来少年が少女を支えることを心から望んでいることをこれ以上なく物語っていた。

少年も体を起こす。ポケットから何かを取り出して「これあげる」と腕を伸ばし、少女は手の平でそれを受け取る。


「これは?」

「四葉のクローバー。まさか誕生日だと思わなくて何も用意できてなかったからそれあげる」

「ありがとう」

「言った言葉を嘘にしないって、そのクローバーに誓うよ」


愛の証明として指輪が渡されるのを人形劇を通して知り、憧れていた少年は、言葉の証人としてクローバーを渡して誓った。


「分かった。僕も誓おう」


少女も誓った。


「これは僕たちの約束だ」

「うん。約束だね」


二人を包むように柔らかなか風が吹いていく。

随分と古い、記憶だ。



時が流れて少年は順調に青年となった。身長が伸びて声が低くなり輪郭が丸っぽくて可愛らしかった子供の顔は精悍な男性の顔へと変わった。恰好にはローブを纏う。首元から足首までをゆったりと覆う布製の服は紺色で胸元には金色の糸で月の刺繍が施されている。これは王宮内における職業服のような物で、侍女は白と黒のレースが特徴的な給仕服を着るし厩舎係は作業服を着るし魔術師はローブを着る。

魔術師。

王の側近であり参謀でもある。この国が仕掛けた戦争の戦場には魔術師が立つようになって久しい。魔術は歩兵が百人いても足りない程の膨大な戦闘力を有するがゆえに戦術は魔術師中心に組み立てられるのは必然であり魔術師それぞれが使える魔術に個人差が大きいとあってはもはや魔術師そのものが自分の動きやすい戦術を組み立てることが最も勝利に近付く道と言えた。青年は父に代わって魔術師となった。戦争における頭脳となった。

少女も、大人の女性へと成長を遂げている。

中性的な容貌はそのままに美しさと凛々しさが兼ね合わさった絶世の美女は煌びやかなドレスを実に纏い、貴族の男のみならず国中の男女を虜にする始末で、残念ながらついぞ王に息子が誕生しなかった現状も考えれば既に彼女はこの国を治めていると言っても過言ではないかもしれない。無論、王の次にという条件が付くが。


「これがこの度の隣国レデウス侵攻防衛における作戦でございます」


執務机に座る王の前の絨毯の上で片膝立ちとなり頭を垂れる青年。国王はその姿をちらりと見てから作戦の内容が図示されている手元の羊皮紙に視線を移す。鷲鼻の上の彫が深く如何にも神経質そうな鋭い瞳が羊皮紙をじっと見る。


「詳しく申せ」

「は。敵の侵攻する道は主に三方向と予想されます。最も東の道の傍には川が流れておりますので私がそこに立ち水魔法で敵兵を迎え撃ちます。中央は酷い窪地ですから油をあらかじめ撒いておき、火矢で騎兵たちを燃やし尽くしましょう。西は歩兵たちに押さえてもらう必要がありますが、私の方が素早く片を付けますので東の道を通って回り込めば優位に立てると思われます」

「ふむ。勝てるならばそれで良い」

「必ず」

「ご苦労。顔を上げよ」


王は難しい話はこれで終わりとばかりに羊皮紙を丸め青年に問いかける。


「それよりも、例の準備は出来ているな」

「……はい」


青年は一拍間を置いて静かに肯定した。

「それよりも」と王が言った。戦争より大事なものが王にとっての「例の準備」なのである。そう思うと青年はこの男の持つ残虐性に心底ぞっとする。


「行くぞ」


しわがれた声でそう言われれば、青年は後をついて行く他はない。老齢の割に未だ真っ直ぐ伸びた背筋を覆ってひらめく赤いマントを追って、王宮の長い廊下を歩き、階段を下り、また長い廊下を歩き、やがて突き当りの扉も何も無いクリーム色の壁の前で二人は立ち止まる。王が横目で視線を寄越したので青年は促されるように一歩前へと踏み出し、壁に手を当てる。壁に、丁度扉の形をした縦長の四角の真っ黒な異空間が出現する。王が入り青年も入れば壁は元の壁となる。

二人の目の前に広がるのは広大な空間だった。床と壁は石造りで、遮るものが何もない薄暗い空間を壁に掛かったランプの炎が怪しく照らす。そして中央では男女入り混じる裸の四人の囚人がそれぞれ長台の上で仰向けの姿勢のまま四肢を鉄の輪で固定されていて身動きが取れなくされており、一番端には万力やペンチやノコギリと言った何かを破壊・解体するのに適した道具が種類ごとに分けられて載せられている三段ワゴンが控えている。

この壁の中に現れた異様な空間は何か。その答えは青年が空間魔法で作り出した異空間であり、王の愛用するプライベート空間と言える。この空間内で発生するありとあらゆるものが音が匂いが光がそれ以外が外部に漏れることは一切ない。なぜならばこの空間そのものが現実世界とは隔絶された場所に存在しているからである。そして王はこの空間を利用して決して他人に知られてはいけない変態趣味に興じる。

サディストでありネクロフィリア。王の正体は性的倒錯者。

これを知るのは病で死んだ父を除けば青年だけだ。青年は王に仕えることが決まった初日に行った王との契約魔法により王の秘密を漏らすことが出来ないし妨げることもできないし殺すことも出来ない。ベッドで横になって動けなくなった父が最期の最後に言った「誇りを捨てるな」という言葉の意味は今になって痛いほど分かる。子供の頃に憧れた魔術師という仕事の実態は、王が異常性欲を満たすことに協力させられる決して誇る事の出来ない秘密の守り人なのであった。


「四人か。今夜はじっくり楽しめそうだな」


邪悪な笑みを浮かべた王は工具の積まれたワゴンへと歩いて行きながら、煩わしそうにどんどんと召し物を脱ぎ捨てていった。冠に赤いマントに黒いジャケットに白いシャツ、膨らみあるワイドパンツ、さらには下着まで。どれも高級な布製だが構わずに乱雑に脱ぎ捨てられ、あばらの浮いた痩せぎすの枯れ葉に似た裸の老人が現れる。王としての威容は無いが、貧相な体に対して異様にぎらついた瞳が不気味さを放つ。

血を浴びる準備が済んだ。これからこの空間には囚人たちの血が大量に流れる。

王がワゴンの二段目から金槌を手に取ると、すぐ隣の長台で拘束されている中年男性を見下ろした。


「よい声で鳴け」


命じられた男性は眉を寄せて訝しげな表情をする。意味を理解していない。だがすぐに身をもって理解することになる。王は手首を拘束されている左手に金槌の狙いを定めると、勢いよく振り下ろした。


ガンッ 


「うぐうううううぅぅぅっっっ!?」


獣じみた絶叫が静かだった空間に響き渡る。その声を聞いた王は実に嬉しげだ。


「ほう、よい叫びではないか」

「お、王様……おやめください……お願いです……王様……」


男性は口元を震わせながら懇願するが、そのお願いは逆に王を喜ばせてしまう。残念。王の好物は苦悶に満ちた人の表情だ。それも、気が触れているわけでも怒りに身を任せているわけでも無く、ただ真っ当に望んで興奮して男性を痛めつけた。つまり真っ当ではない。純粋な狂気だけがある。

王は無慈悲に繰り返し金槌を振るう。


ガンッ ガンッ ガンッ ガンッ ガンッ ガンッ ガンッ 


「うがぁっ ぐううぅぅっ ううぁああぁ っぐうう あぎっぎいいいぃぃ いああああぁぁああぁっっ」

「ああ、いい……どうだ、どんな感情なのだぁ……」

「いいいい痛いですうううぅっっ! おやめください!!おやめください!! 指ぃ指がああぁぁああああぁぁ!!!」

「素晴らしい」


王は一際高く金槌を振り上げ、力いっぱい振り下ろした。


ドンっっっっ


「いぎいいいいいいぃぃぃっっ!!!」


食いしばった歯が砕ける程の強烈な痛みに襲われる男を尻目に王はようやく手を止める。散々叩かれた男の左手の見た目は惨たらしい。全体が真っ赤に晴れ上がり破れた皮膚からは血が溢れ、骨が覗き、指は関節とは違う部位で幾重にも折れ、指先は全て本来とは別の方向へぐにゃりと折れ曲がってしまっている。もはや使い物になりはしないのは誰の目にも本人にも明白だった。王が底面がいびつに凹んだ金槌をワゴンに戻し、男性の顔に束の間の安堵が浮かぶ。これ以上痛い思いをしなくて良いという根拠のない決めつけから来る安心感。根拠がないのだから当然のように打ち破られる。王は刃が指先から肘まで達する程に長い巨大な鋏をワゴンから新しく両手で掴み上げるとわざわざ男性の眼前に差し出して刃を二、三回開閉し、金属同士の擦れる耳触りの悪い音を鳴らす。痛みの足音である。


「見よ、よく切れそうだ」

「王様っ、もうっ、勘弁してください……」


恐怖のあまり男性が瞳から涙を零しながら訴え、王様がうん、うんと頷く。勿論男性の懇願を聞き入れているわけでは無い。良く研がれた刃の鋭さを確認し納得しているだけである。よって刃は男性に向けられる。無事だった右手に開いた状態の鋏が近づけられ、片側の持ち手を長台の上の太腿の横の空いていたスペースに置くことで、口を開いた河馬の如く刃が立ったまま固定される。その鋏の下の刃の上に第一関節が丁度乗るように小指がそっと乗せられる。指の関節はきっと神が人の指を切るときの目安にするために作り給うた。そう思える程に刃が関節の溝にぴったりと深く沈みこむ。

王は鋏の浮いているもう片方の持ち手に両手を添えて一気に全体重をかけ、刃を落とした。


ジャキンッ


「があああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」


断切された小指が宙を舞い、拘束具で狭められた可動域の中を左手が痛みの命令に従って不規則に暴れ散らす。血濡れた鋏は無遠慮に次の指に狙いを定めていて、間髪入れずに二本三本と切断していく。枝を剪定するように、切れ味鋭い鋏の刃が人間の部位の先っぽをいとも簡単に切り飛ばす。親指に差し掛かる頃には男性はもはや叫ぶ気力を失っていて、ただむせび泣いていた。


「貴様はどんな罪を犯したのだ」


刃に付いた血を布で拭き取りながらまるで世間話でもするようにご機嫌な王がふと、問いかけた。

男性は、望みは限りなく薄いが質問に答えることが何か事態の好転に繋がるのではないかと淡い期待を抱き素直に答える。


「強姦です……4人、やりました……」


当然何の救いにも繋がらない。ただ次の切断部位が決まる要因にはなる。開いた鋏が男性の身体的象徴である、しな垂れた一物の根元に添えられた。


「……え」

「悪さをしたならば切られても文句はあるまい」

「お待ちください王様!本当にそこだけは勘弁してくださいお願いします!何でもしますから!!」


男性は顔を真っ青にして身動きが取れないながらも王に必死に泣きつく。心臓を切り刻む、と言われているわけでは無い。だが、男根を切断されるという行為はそれと同等の恐怖を男性にもたらす。男を望む男が男の根っこを断たれて男としてのアイデンティティーを失う危機に立たされている。一物の皮膚から感じる冷たい刃の感触が恐怖を煽り、男性は無駄だと知りながら腰を僅かにでも動かして刃先から逃れようとした。その憐れな姿が王を喜ばせた。


「どんなに上手な踊り手のそれより貴様の踊りはそそられるな」

「へ、へへへへっ」

「褒美に切ってやろう」

「待っ」


ジョキンっ


言葉を待たずに王は容赦なく鋏を閉じて、


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ゛っ゛っ゛っ゛」


直後に響き渡る理性の消失した叫び。男性の性器は睾丸を残して根元から見事に切断され、張った糸を指で弾いた時のように身体は上下に激しくびくつき、切断面から飛び散る血液が王の身体を赤く濡らした。男性器の喪失と痛みは恐らくは人類が体験し得る悲劇の中でも相当上位なもので精神的・肉体的な苦しみは想像することすら難しい。君主の宮廷に使える宦官はその役職に就くために自らの男性器を麻酔も無しに切り落とし、多くの者がショック死している。しかしこの囚人は運悪く生き残ってしまった。口から泡を吹き、目を開けたまま気絶した。王はそれを見て「ふぇっふぇっふぇっ」と愉快そうに笑い、


「こいつ、目を開けたまま気を失っておるぞ。ほら、見えるだろ。この無様な顔が」


入口扉の前にずっと立ったままだった青年にぎょろりと視線を向けて楽しげに呼びかけた。言われるまでもなく、王の残虐な行為を一瞬も目を逸らすことなく静観し続けていた青年は、


「ええ、そうですね」


表情を変えずに短く答えた。

実際には、囚人の顔は見えていない。青年の立ち位置からはせいぜい男性の毛髪の薄くなり始めた頭頂部、それも今しがたのストレスで抜けてしまったのかもしれないそれ、が見えるに留まる。王までの距離は逃避の距離である。望めるならば王の残虐行為に一切関与したくない青年は、この空間内において出来る限り王から離れた位置にいた。距離が離れようとこの場に何もせず突っ立っている時点で罪であることは無論自覚している。だが契約魔法により傍観者に留まる他はなかった。


「そこからでは見えにくいだろ」


肝が冷える。王は自分の獲物が映える範囲をきちんと理解していた。王に言われれば青年は今まで床に張り付いていた足を動かして近寄らざるを得ない。歩き始めた。


「そこで構わん」


王が言った。まだ距離があり、発言の理由を訝しむ青年を他所に王はワゴンから大きな斧を手に取る。長い木の柄。黒光りする刃。柄を両手で握った王は未だ気絶している男性の顔の横に立ち、その首の上に処刑人よろしく刃を構える。青年が息を呑むのと同時に、王は両腕を高く振り上げ、勢いよく振り下ろした。


ずぶぶぶぶっっっ


一撃で首を両断するのに失敗した斧の刃は首の中央まで沈んで止まり、意識が飛んでいた男性は地獄の現実へと強引に呼び戻される。


「うぼおおぉぉっっ!?!? ぼふぉっ!? ごぼおぉぉっっ!?」


目を見開いた男性は気管を満たす血液に溺れて激しくむせ返り、裸の王に散弾銃のような血を浴びせかけた。王はニヤリと笑って、


「ああ、すまない」


と穏やかに言うと、再び斧を高く持ち上げ一気に振り下ろした。今度こそ終わりだ。王の振るった斧は男性の首を刎ね飛ばし、台座を失った頭部が石畳の上を転がる。王にも蹴られてゴロゴロと転がり、青年の前へ。


「どうだ。素晴らしい間抜け面だろう」


押し上げられた眉、眼球が飛び出るほどに見開かれた瞳、歯を噛みしめたまま横にひきつった唇。恐怖と驚愕が入り混じったまま永久に時を止めた男性の顔は物を言わずとも雄弁に苦しみを語り、青年の背筋に冷たいものが走る。慄いたのはきっと死後も救済が訪れずに苦しみから解放されない憐れな魂を連想させられたからだ。

青年が緩やかに王へと視線を戻せば、王は、首を失くした肉塊の腹を両手で愛おしそうに撫でている。情欲に満ちた瞳の瞳孔が開いて血走り、鼻息は荒く、口角が上がっている。興奮していた。それは王の下腹部を見ても明らかだ。勃起していた。萎んだ蕾のようだった男性器は今や雄々しく天を向き、その表面には赤黒い血管を這わせていた。

顕現する王の内なる欲望。ネクロフィリア。

以前に、貴族たちの社交界に特別に出席し、酷く酩酊した状態で執務室へと戻ってきた王が、聞きもしていないのに屍体性愛の理由について青年に語ったことがある。首を落とされ物体となった身体は余を王としてではなく人として無条件に受け入れる唯一の器である、と。当時青年は理解を放棄した。だが今、目の前に立っている王が死体に欲情していることは紛れもない事実である。王は男性器を囚人の不浄の穴へ宛がって、躊躇なく沈めて行った。


「あぁっ……あぁっ……」


恍惚とした表情で湿った喘ぎ声を漏らした王はやがて腰を前後に振り始める。死体が揺れて首の断面からピストン運動に押し出されるように血が垂れて長台を赤く濡らす。

禁忌。呪いの儀式。黒魔術。

連想される恐ろしい単語は理由を求めた結果にすぎず、そのどれにも該当することの無いおぞましい欲求の体現が目の前で起こっている。生者と死者の交わりは余りにも不気味で青年は堪らず目を逸らす。まだ生きている横並びの仰向けの三人の囚人たちは皆愕然とした表情で王と死体の性交を見つめ、次いで一様に青年を見上げた。誰もが恐怖を顔に貼り付け今にも泣き出しそうな表情で、青年に縋っていた。

恐ろしいだろう。身体を殴りつけられ切り刻まれ徹底的に痛めつけられた後に命を奪われ、死して尚、性処理道具として無惨に扱われるというのは。だが、どうすることも出来ない。

青年は果たせる僅かな責任として他の三人が殺され、犯されるのを、ひたすら傍観し続けた。


青年の日常に亡霊が出現している。服を着ていない首無しの亡霊は腹の前に組んだ両手を台座代わりに自身の生首を乗せて、部屋の隅に、食器棚の陰に、ベッドの横に、廊下の壁際に、椅子に座る王の隣に、ただ風景の一部として無言で突っ立っている。王宮内の誰もが気に留めていないという事実は青年の神経の衰弱を保証する。亡霊は王宮内のどこにも実在せず、青年の視界においてのみ存在を許される。

青年は離れた街で叔母と暮らす年の離れた妹の為に、王宮内に宛がわれた自室でよく手紙を書いた。椅子に座り、少し高価な羊皮紙を机の上に広げ、ペン先をインクに浸けた羽ペンを握り、王宮での日々を綴る。王宮内に勤める者しか知り得ない情報が外部に漏れるのを防ぐために手紙の内容は検閲される。もちろん王が夜な夜な行っている業の深い所業については記さない。記せない。代わりに青年は、まだ少女の歳である妹の憧れを壊さぬように王宮常駐魔術師と王宮について華やかに書き記す。


「お元気ですか……病気や怪我をしていませんか……私は元気です……変わりなく心身健康に……王宮勤めに励んでいます……」


手紙を書いている間も机の横に立つ亡霊は視界の端に映り続けていて、生気の無い瞳に手紙の内容をじっと監視されている錯覚に襲われる。


「庭園では……庭師の手によって整えられた緑と色とりどりの花が見事な調和を為しており……食事は料理人がつくる筆舌に尽くしがたい絶品料理のまかないにありつくことができ……迷子になるほどに広い王宮内は……沢山いる働き者の侍女のおかげでいつもぴかぴかです……」


視線を感じ続ける。


「これらの一流の人々は皆、国王の下に集った者達であり……」


本心を偽るなと、


「国王は大変素晴らしい御方で……」


責め続ける。


「……失せろっっ!!!」


視線に堪えきれなくなった青年はその場で立ち上がりながら腕を横に振るって、亡霊に羽ペンを投げつけた。

傍から見れば気狂いの男の奇行である。亡霊の姿などない。


カツンッ


石の床に羽ペンが弾かれる甲高い音が、独りでに感情を昂らせた青年をあざ笑うかのように響いた。後に広がる静寂は青年の無力感を助長する。座る。すると再び視界端に亡霊が現れる。


「くそっ! くそっ! くそっ! くそっ!!」


付き纏う亡霊への苛立ち、妹にさえ真実を語れない情けない自分への苛立ち。その衝動により青年は額を何度も机に打ち付け、手紙は血で汚れ、書き直しを余儀なくされる。最近はこの一連の流れを馬鹿みたいに繰り返してばかりである。

亡霊による弊害は、睡眠にも現れる。

青年も眠れば夢を見るがその内容は、頭部が有ったり無かったりする囚人の亡霊たちが、彼らが寝かされていた一つの長台の周りに群がって皆一様に青年を見つめているのである。喜怒哀楽の抜け落ちた死に顔たちは青年が長台に拘束されることを期待しており、青年はそれを裏切らず彼らの望む通り自分から長台の上に寝そべり、仰向けで拘束される。どう言う訳か、そうなるべきだと思っている。亡霊たちが各々手に手に違う種類の道具を持つ。

鋸、鋏、金槌、錐、斧、剣、鎌、鞭……。

容赦のない暴力が身体に一斉に振るわれる。皮膚が剝がれ肉が潰れ骨が断たれる感覚を痛みの無いまま身体のあちこちで味わい、本来感じる筈の感覚が全く生じない不快感が段々と高まり、遂には発狂し絶叫する。そして目が覚める。汗で服が肌に張り付く感覚と、現実で急速に思い起こされる身体を失ったのではないかという一瞬の恐怖と早鐘を打つ心臓の鼓動は最悪という他ない。よって青年は二日に一度眠るという生活リズムを採用するに至る。これは寝床に着く頃には身体がすっかり疲弊していて夢を見る事が許されない程の深い眠りに落ちるという算段である。尤も、たとえ五時間眠ったとしても目覚めたときの感覚として“五分前に目を閉じた”と言われても容易く信じられる程度の休息感しか得られないのは別の意味で最悪であり、亡霊に身体を嬲られるよりはましと言った評価がせいぜいである。

こんな調子で青年の心身は、着実に削られて行った。

追い打ち。

国王が死者の復活に興味を持ち始めた。きっかけは東の国で外道に堕ちた魔術師が━その男は青年の古い友人なのだが━大量に死者を蘇らせて国を興した事に由来する。死者の国。冗談にしては質が悪いが現実なので尚更悪い。蘇った死者はされど生者ではなく、使役可能な肉人形と呼ぶに相応しく、王はそこが気に入った。元々王は自分を受け入れてくれる存在を求めた結果として人を殺していたために、言葉もなく抵抗もなく自分の言う事を無条件に聞く屍などはまさに理想の存在と言えた。

王の間の玉座に座る王が眼下で跪く青年に命じる。


「儂に死者を蘇らせる魔術を教えよ」

「僭越ながら申し上げます。国王様は魔力をあまりお持ちでないため、複雑な魔術を扱うことができません」

「では魔法陣を地面に書け」

「申し訳ありません。死者を蘇らせる魔術は外法の業であり、私にはそのような禁術の知識はありません」


実のところを言えば青年にはその知識がある。王女が大事にしていた愛猫が随分とうっかり屋で不幸にも道を駆けていた馬車に轢き殺されて死んでしまった際に、悲しみに暮れて泣き続ける王女の為にせめて少しでも別れの時間を作って上げられればと思って動物の蘇生魔法について密かに研究したことがあった。だが試しに蘇らせた野良猫の死骸は一見生きているかのように振る舞いながらも虚ろな目や緩慢な手足の動きや腐臭や鈍い毛艶が死を感じさせ、生きながらに死んでいる違和感だらけのゾンビ猫に吐き気を催し同時に自分は何とおぞましいことをしてしまったのだろうという自責の念に駆られてそれ以来死んだ動物を蘇らせようという思いは全く封じていた。人間も同様だ。死んだ者は死んだ物となり生者の世界と袂を分かつ。その自然の法則に逆らうことはすなわち神への反逆であり罪であり青年はそれを恐れている。今まで散々王の殺戮の傍観者としての罪を犯してきながら一丁前に自分で罪を重ねることを嫌悪する自分に青年は反吐が出る。だが、王に復活の禁術を教える気は毛頭ない。


「知識が無いというのであれば研究し、儂にその知識を授けよ」

「国王様、死者を蘇らせることは神への冒涜です。私は神に祝福されていたい。国王様もそうではありませんか」

「神は寛容だ。死者も生者も死にかけの生者も生きかけの死者も全て愛してくださる。神に見限られる心配などない。貴様はただ儂に知識を与えればよい」

「お断りします」

「儂に逆らうのか」

「申し訳ありません」


国王は玉座の手すりに握り拳を怒りのまま強く叩き下ろすと玉座の横に置いてあった丸テーブルの上に上質な酒の入ったグラスを手に取って頭を垂れる青年に勢いよく投げつけたた。青年の頭に当たった透明なグラスは甲高い音を立てると砕けて周囲に破片となって散らばり青年の黒い髪はずぶ濡れになり赤い絨毯は沁みを作った。青年は微動だにしなかった。


「失せろ。無能が」


国王が青年の後頭部に吐き捨てるように命じたので


「失礼します」


青年はゆっくりと立ち上がると踵を返し王の間から出て行った。

青年の気持ちは少しだけ晴れやかだった。




窓から月明かりの差し込む王宮の長い廊下を通って自室の前まで辿り着き扉を開ければ、ベッドに座る白いネグリジェ姿の若い女性がいる。暗がりの中でも分かる肩に垂らした真っ赤な髪に端正な顔立ちに凛とした雰囲気を纏う女性。

つまりは王女。


「また来たのですか」


冷ややかな目を向け呆れる青年に対し、


「ああ、また来たよ」


ニヤリと笑みを浮かべて王女が応じる。

彼女が夜に部屋に襲撃してくるのはなにも初めての事ではない。今回のように何らかの事情で青年が早く自室に戻るタイミングに合わせてどう言う訳か現れることが多い。当然王女の部屋に通ずる扉の前には夜通し護衛が立っていて夜中に部屋から出ることは基本認められないし、淑女を求められる王女が男性の部屋に入るなど以ての外である。


「こっそり抜け出してきたのですか」

「いいや。“散歩してくるだけだから止めてくれるな”と言って正面扉から出てきたのさ」

「それで本当に止められないんですか」

「僕に甘いから」

「そうは言ってもまさか魔術師如きの男の部屋に入り浸ってるなどと知られたら不純行為だと騒がれますよ」

「僕は構わないけどね」

「私が構います」


あっけらかんと言った彼女に青年は冷静に言葉を返す。


「偉い人たちは男女が同じ部屋にいるだけで不純だと思ってる。その思考の方がよっぽど不純だよ」

「用心しているんですよ上は」

「王宮内で会ってもまともに会話が許されないんだからこうして夜中にこっそり会いたくなってしまう現状を考えると、僕は悪くないと思う。風紀が悪い」

「人はそれを屁理屈と呼びます」

「でも同じ部屋にいるだけで不純なんだとしたらこうして目を合わせて会話するのは性行為に当たるのかねぇ」

「屁理屈の次は言葉遊びですか。そんなことは誰も気にも留めません。そのうち国を背負う王女なのだからそれ位の貞操観念があって然るべきという、ただそれだけの話です」

「でも君と僕の間には残念ながら何も起こってくれない」

「私が魔術師で殿下が王女なのだから当然です」

「僕は君と幼馴染だから当然じゃないよ」

「また屁理屈を言っていますね」

「事実だよ」


長い睫に彩られた瞳の意志は硬い。彼女の言葉を借りるのならば二人の間に存在する身分の違いもまた事実である。彼女はずっとため口で喋りかけてくるが青年としてはそうもいかずに権力の前に素直にひれ伏し敬語で喋っている。彼女としてはそれは気に入らないようで子供の時のようにお互いで対等にため口で喋ろうと言うが残念ながらもう子供でも対等でもなくなってしまったので彼女の提案を呑むことは難しい。また青年は大人になって立場を弁え第一人称を「僕」から「私」に自然変えたというのに、王女は何故か公的な場においては「私」と言っておきながら青年の前ではわざわざ「僕」と言う。それに言及すれば決まり文句のように“僕は僕だ”と彼女は言う。青年はもはや言うのを辞めた。


「……まあいいや。君が寝るまで話そうよ」


彼女は浮かせた足をはしたなくぶらつかせながら開いた左手でベッドを軽く二、三度叩き、青年に座る位置を指し示す。その振る舞いには今までメイド長ベレスに散々叩き込まれてきたであろう淑女らしさは微塵も感じられず、強いて言えば気心の知れた友の家に来た人のそれ、である。青年は彼女の誘いを無視し、頁が開いたままの魔導書が乗った机の前の椅子に掛けた。机の上の金色の受け皿に乗った蠟燭に手をかざして火を点け、背中を丸めたまま魔導書の続きを読み始める。彼女と会話する姿勢はそこにはない


「まさかこれから勉強しようという気なのかい」

「今日は眠る気が無いので」

「それならいつ寝るんだ君は」

「明日の夜」

「分かった。その書物を読むのは急ぎの用なんだね?」

「いえ全く」

「なら寝るべきだよ」

「どうしてそんなに寝かせたがるんですか」

「明らかにふらふらしてるし目の下の隈は酷いし顔色も悪いし……」

「悪いし?」

「まるで、死人みたいだ」

「ふっ」


青年は思わず吹き出す。沢山の死人を目にし、現実にも死人が現れるようになり、遂には死人そのものに近付いているらしい自分が滑稽で可笑しかった。眉を寄せて怪訝な顔をする彼女に青年は「すみません」と謝り、


「人はそんな簡単に死なないので大丈夫ですよ」


容易く殺される囚人たちを脳裏に思い浮かべながらも、表向きは王女に微笑を浮かべて言う。王女も口角を上げる。その緩やかな口の曲線には呆れが混じっている。


「それは結構な事だが、とにかく寝た方が良い」


一貫して揺るがない彼女の主張が朝まで続くことを予感した青年は大人しく理由を白状して納得してもらうことにする。


「悪夢を見るので眠るわけにはいきません」

「悪夢って?」

「沢山の亡霊に襲われる夢」

「それは……大変だね」

「ええ大変です」

「明日なら寝るんだっけ?」

「はい。夢を見る暇も無いほどにぐっすり眠れると思いますので」

「だからわざわざ眠い目を擦って無理して起きてるわけだ」

「まあ、そうです」

「そうか。じゃあこっちにおいでよ」


再び促されて青年はやはり無視をする。納得してもらうことが出来なかったが、さてどうお帰り頂くか。と、魔導書に書かれた文字を目で追いながら頭の中で思考していれば、


「来い。僕の命令だ」


厳しい声色で放たれた低音が青年の鼓膜を震わせる。青年が顔を上げ魔導書から彼女へと顔を向ければ、薄暗闇の中でもはっきりと分かる彼女の鋭い眼光が青年の瞳を真っすぐ射貫いた。彼女は王女で「僕」とは王女で、言葉に凝縮された圧の正体は圧倒的な権力である。魔術師と王女という立場の違いを明らかにし対等でないことを主張した青年にとって国王の次に偉い王女からの王女としての命令は当然遵守すべき事項であり、青年は素直に椅子から立ち上がると彼女の待つベッドへと歩み寄った。


「なんだちゃんと言う事を聞けるんじゃないか」

「王女殿下の仰せのままに」

「よし、偉い偉い」


わざとらしく恭しく言った青年に対し王女はまるで芸をした飼い犬に反応するように頷きながら褒める。そうして王女は靴を脱いでベッドに這って上がり、縦向きのベッドに対して横向きに足を伸ばして座る。


「ほら、ここに頭を乗せて横になれ」


手で滑らかな曲線を描く太ももを叩いて王女が言う。

いわゆる膝枕。王女は自らの太ももを枕代わりに使えと青年に命令している。果たして、王女の身体の一部を借りて眠るのを許されることがどれほど有難い事かなどは考えるまでも無く、それを自分が、恐らく自分だけが許されているというこの状況に青年は背徳感を感じずにはいられない。同時に、膝枕程度で悪夢を見なくなるなどとは微塵も思えない。亡霊は夢の中に棲み付いていて現実は関与しない。枕がどれだけ柔らかく温かく素敵なものになったとしてもそれは同じだ。

だが、王女がじっと見て待っていた。それに、丁度雲の切れ間から顔を出したらしい月の光が窓から差し込んでベッドの上を神秘的に照らしていて、何か特別な事が起こるのではと青年に期待を抱かせた。彼女の言うとおりにすれば本当に救われるのではと、思わせた。

理由があった。だから横になった。

王女と目が合って、王女が目を細める。


「大人の君が子供のようで実に良い眺めだ」

「やれと言ったのは殿下です」

「そんなに拗ねないでくれ」

「拗ねてませんよ」

「冗談。どうだいこの国でとても偉い王女の太ももの寝心地は」

「偉くなった気がします」

「子供の頃はもう少し素直だったのに」


王女が呆れながらに言うが、王宮勤めは配慮することが余りに多く、捻くれるには十分な環境である。捻くれついでに青年が言う。


「私が寝たふりをすれば殿下は自室にお戻りになりますか?」

「なるほど、僕に戻ってほしくないんだね」

「いいえ。一緒にいることがバレたら私の首が飛ぶので是非とも戻って頂きたいです」

「頑なだなあ」


彼女はため息を吐くようにそう言って「よし分かった」と切り出す。


「僕が今から子守歌を唄う。唄い終わったら満足して帰ってあげよう」

「名案です」

「僕が小さい頃に死んだ母がよく唄ってくれた子守歌だから君もきっと眠れるよ」

「……」


平然とした表情で言う彼女の顔は母の死が過去の出来事として消化されていることを物語る。殺したのは彼女の父つまりは国王で、愛そうにも愛せずに愛するために王妃を殺した。幼かった彼女には母が王を心底怒らせてしまったために罰として殺されたという説明がなされ、彼女の中で王の印象は感情に身を任せて自分の母の命を奪った鬼畜男となり、それ以来実の父を絶え間なく恨み続けている。


「早く死なないかなあのひょろ爺」


全く、本当に寝かせる気があるのだろうかと青年は疑わずにはいられない。


「今のは聞かなかったことにしておきます」

「そうしてくれ。君の前だからと油断した」

「……恨んでいらっしゃいますか」

「爪を剥いで腕や足を切断して痛めつけて首を切り落としてぶっ殺してやりたいとしか思ってないよ」


それは奇しくも王が夜な夜な生贄に施す仕打ちと同じであり、方法に呼応する目的としては恨みを晴らしたい彼女の方がよほど真っ当だと青年は気付かされる。

彼女が、青年のために子守唄を唄い始める。


「~~~~~~♪」


彼女の低く落ち着きのある唄声は夜の静寂に調和して青年の身体も優しく包む。安らかな表情で瞳を閉じている青年は心地よい微睡の中で唄に思いを寄せる。どこか懐かしい感じがするのはやはり青年も小さな頃に母に唄ってもらったからだ。多くは親が子に聴かせる子守唄。母のいない彼女は恐らくもう聴くことが出来ない唄。だからこそ彼女はきっと記憶の中の母の声を何度も思い返し、それを今もなぞっている。彼女の眼差しと唄声に青年は母が子に向ける様な愛情が籠っている事を確かに感じ取る。王女は青年と、幼き頃の自分を重ねているようだった。


「~~~~~~♪」


子供ではないから子守唄で眠るわけにはいかないという意地があった筈だったが、疲弊した身体は言う事を訊かず、青年は気付けばぐっすりと眠っていた。

悪夢を見ることは無かった。





幸福の陰では不幸が進行していく。

そうすることで世界はきっと均衡を保つ。


青年が立ち去って夜の暗闇と静寂に満たされた王の間で依然として玉座に座っていた王は眠気に誘われてこくこくと顎を揺らしていた。そこへ、僅かに開いていた窓から一羽のカラスが侵入し、玉座へと真っ直ぐ伸びる絨毯の上へと速やかに降り立つ。「アー」という短い鳴き声で王が弾かれたように目を覚ます。


「カラスか……」


呟いた王が


「おい、カラスが入って来たぞ」


扉の向こう側で律儀に立っているであろう衛兵に聞こえるように大きな声で呼びかけた。

鳥が宮廷内に入ってくるのは偶にある事だが彼らは騒がしいばかりか羽根や糞を落とすので見過ごすわけにはいかず、見つけ次第殺すか追っ払うかの二択しかない。今夜選ばれたのは串刺しである。門の向こう側に立っていた衛兵が槍を構えたまま歩いてカラスに近付いていく。やがて槍で貫ける程に接近した衛兵が槍を引いて満を持してカラスを串刺しにしようとしたその時、突如として黒い旋風が巻き起こりカラスの小さな体を包み込んだ。思わず動きを止めた衛兵。それが彼の最後の意思を伴った行動となる。旋風の中から伸びてきた長い腕が衛兵の額に手の平を添えると、衛兵の瞳から光が失われその場で倒れ込んでしまった。二度と動くことが無い。死んだ。


「危ない危ない。死んでしまうかと思いましたよ」


柔らかな美声の主はカラスから姿を変えた女顔の偉丈夫で、にこやかに細められた目は線となって瞳を隠し相手に感情を読まれることを拒絶する。カラスと殺された衛兵と女のような男……目まぐるしい事態の変化に頭が混乱して言葉を失う王の代わりに笑みを浮かべた男が王をじっと見つめ、口を開く。


「やっぱり。貴方、たくさん人を殺してますね」


王に戦慄が走る。

目を見開く。

それは誰にも知られてはいけない秘密で、だからわざわざ魔術師の手を借りて特異な空間で事を及んできたというのに、何故この男は知っている?


「死の香り。貴方からはかぐわしい死の香りがぷんぷんします」

「貴様は、誰だ」

「ああ、申し遅れました。わたくし魔術師のザムドールと申します」

「ザムドール……」

「近頃はこのように呼ばれることもあります」


“死者の国の王”


言葉に信ぴょう性を持たせるかのように細められていた瞳がわずかに開く。本来であれば白目の部分が全て真っ黒に染まっていて瞳孔だけが真っ赤に浮かび上がっていて不気味である。少なくとも人間のそれではなく悪霊と言われた方が幾らか納得が出来る。その浮世離れした男の艶やかな唇から放たれた単語。死者の国。その言葉には当然覚えがあって、王の理想郷で違いない。それをこの若造が?王は疑問を持たざるを得ない。タイミングも妙だった。丁度配下の魔術師に死者の復活を断られた後で目の前の男が現れた。カラスの姿で窓際の木にでも止まって一連の話を全て盗み聞きしていたのだろう、怪しさが増す。


「信じがたいな」

「御尤もです」

「今の貴様は儂の城に不法侵入した不審者だ。儂の指示一つで沢山の衛兵が貴様を捉え即刻あの世行きだ」

「それは嫌ですねぇ。何とかして信頼を得なければ」


王の脅しに対しても涼しい表情のままの男は一度考えを巡らせるように窓から見える夜空の月を見上げると、暫しして再び王へと顔を向けた。


「王様は死体がお好きですか?」

「……何だ突然に」


笑みを深め、


「愚問でしたね。私も、死体が好きです。彼らは抵抗することがありませんし言葉を否定することも無い。全てを受け入れてくれる。私が抱きしめても突き飛ばしたりはしないし愛を呟けば黙って受け入れてくれます。あの肌の質感も良い。温度は命の証明ですからね温かいといつか死ぬことが予感されて不安で堪らなくなってしまう。でも死体は違いますね。冷たい土粘土のような手触りで時を止めているから“いつか”が来ることなど心配する必要が無くて、安心して愛を捧げることが出来る。死体は決して裏切らない。嗚呼素晴らしい。実に、素晴らしい」


月光を浴びながら手を広げて弁を振るう男はまるで世界の真理を語る哲学者のようである。しかし実際に彼の口から放たれた言葉は常人の感覚とは一線を画し、共通の言語でありながら遠い異国の言語と錯覚する程の困惑を人々に与え、誰にも理解されることが無い。ただ一人、王は違う。王は初めて自分の理解者に出会えた喜びに打ち震え言葉を失くす。男は王の心情すらも見透かして言葉を重ねる。


「私もこの死体への感覚は生来のモノでは無くて後天的に手にしたものです。具体的なきっかけが父で、私の父は母と結婚した際におまけで一緒についてきた少年だった私を大層嫌って日常的に暴力を振るっていましたがある日に酔い過ぎて家の二階に通じる階段を踏み外して頭を強く打ち付けて床でうつ伏せになって動かなくなりました。私が床とキスする父の頭部を思い切り蹴飛ばして反撃が来なかった時の衝撃と言ったらもう……感動でした。全ての脅威が安寧に代わりこの世で絶対的に信頼できるものに神以外に実体を持った形で初めて出会えた、貴方にもきっときっかけがあったに違いない! 私には分かります! 分かりますとも! 死体は我々を裏切らない! 我々は死体を愛する者同士だ! ……失礼、熱が入って。要は私が言いたいのは、私は貴方の同類である、と言う事です」




「……さて、私がこうしてどれだけ死体への想いを語ったところで、ただの通りがかりの死体好きのほら吹きの魔術師だと思われては堪りません。ですからもっとも単純な方法で確実に信じてもらおうと思います」


男はそう言って先程自ら命を奪った足元に転がる衛兵の背中に手を当てて、単体では意味を持たぬ古い言葉たちを一息で素早く口にした。それは呪文で、死体に魂を呼び戻す合言葉である。衛兵は幽鬼の如くゆらりと立ち上がり男に身体を向けた。


「私は貴方の主人ではありません。貴方の主人はあちらの方です」


衛兵の両眼の眼球は左右であらぬ方向を向いていて口は半開きで涎を垂らしていて知性の気配がまるで感じられないが、それでも男の言葉を理解しているかのように振る舞う。王へと体の向きを変え、ぎこちない足取りで一歩一歩近付く。王は思わず立ち上がり、玉座の手すりに片手を突きながら背を丸め、逃走か闘争か思い悩んで中途半端な姿勢で身構える。


「そんなに身構えないでください何もしませんから」


王は眼球だけをぎろりと動かして男を睨みつけるが罵声を放つ余裕はない。念願の物が突然に目の前に現れた困惑、動く死体という初めての現象に遭遇した困惑。困惑は緊張を生み出し、王の表情は強張らざるを得ない。男はどこ吹く風と言葉を続けた。


「どうぞ、命令してみてください。それは貴方の為だけの死者だ」


王はまじまじと衛兵を見つめ衛兵に敵意が無いことを認める。すると兼ねてからの欲望を実現したいという欲求に手が伸びる。王は覚悟を決めるように一度唾を呑み込み、言った。


「私を抱きしめろ」


衛兵は命令を忠実に遂行する。数歩歩いて王と目と鼻が触れ合う距離まで接近し両腕を開いて王を優しく抱きしめた。


「……ああっ、あああああっっ、、あっああっあああっっ、ああああっ」


王は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽と共に滂沱の涙を流す。その姿には王としての威厳が全く無く、王が何を思っているか王以外に知りようがなく、ただ童心に戻っているいることだけが明らかである。男は離れたところに立って微笑を浮かべ満足そうに二人を眺めていた。

やがて少し時が経って王が膣気を取り戻した頃合いを見て男が歩み寄る。王は衛兵に抱き着かれたままである。


「如何ですか。私が死者の国の王であることは信じていただけましたか?」

「ああ、信じるとも。貴様は間違いなく死者の国の王で最高の魔術師だ」

「お褒め頂光栄です」


片手を胸に当てて緩やかに身体を折曲げて仰々しく礼をする男。


「どうだ。儂に仕える気は無いか。今の魔術師よりも貴様の方がよほど優秀で儂の求める人材だ。望むのならばどんな待遇も……」

「すみません、私は一人の方が性に合っておりますので」

「……そうか」

「ただし私と貴方の国同士でなら親密な付き合いを望みます。私の国はなんせ新興国ですから色々と立場が弱いもので。今日も挨拶という名の外交活動としてここに来たわけです」

「なるほどな。良いぞ、困ったことがあれば儂と我が国を存分に頼ればいい」

「ありがとうございます」

「ただしタダでとはいかん。見返りとしてこういった“生きる”死者を儂に譲って欲しい」

「それは勿論構いません。譲ると言わず蘇りの魔術そのものを教えましょう」

「っっ!? 本当か!?」


王は目を見開いて食いつく。男は笑みで受ける。


「ええ、お近づきの印にということで」


男は懐から丸められた羊皮紙を取り出して王へと差し向け、王は不思議そうな表情でそれを受け取る。


「それには復活の魔術の魔法陣が描いてあります。土と相性が良いですからそうですね……このご立派な庭園の地面のどこかにでも正確に書き写していただければ良いでしょう。あとはその上に死体と貴方を構成する何か、衣服などでも構いません、それを置いて少しの魔力を流し込んでいただければ簡単に貴方に仕える死体が生まれます」

「素晴らしい。これは儂が今までに贈られてきたあらゆる金品、食料、芸術品よりも価値あるものだ」


感嘆する王に


「では。今後ともよろしくお願いいたします」


再び華麗なお辞儀を見せた男は再び黒い旋風に包まれ一瞬でカラスへと姿を変え、窓の隙間から月の上る夜空へと飛び立っていった。王に抱き着いていた衛兵は、魔力を供給する男が居なくなったためかその場で崩れ落ちて元の死体へと戻った。

静寂。心地の良い静寂。幸福な静寂。

王の心は期待に満ち溢れる。



そしてとある夕暮れ時にそれは起こった。


ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッッッッッッッッッッ。


突如として街に轟く地鳴りは巨大な怪物の足音だった。

怪物が街を駆けている。

王冠を被った巨大な赤子のような頭部がありその首元から蛇のような長い胴体が伸びていてその両側から節足動物のように無数の人の腕が生えている化け物。それが、


「お母様ああああああああああああぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!」


母を呼ぶように見た目に似つかわしく無い大人の男の低い声で不気味な泣き声を上げながら沢山の手を不規則に動かし百足のように街を駆けずり回っていた。街に突然現れたその怪物に人々は悲鳴を上げながら逃げ惑って踏み潰されるか食われていく。誰も状況を理解しておらず恐怖と混乱に街中が包まれていた。

怪物が探しているのは人だ。厳密には母だ。民家を見つけるととぐろを巻くように取り付いて中の人の逃げ道を塞いでから顔で豪快に煉瓦の壁を壊して首を突っ込んで中を見漁って、人がいないと分かるや否や悲しみの泣き声を上げて感情そのままに身体で締め付け建物をくしゃりと壊した。国の風景を構成していた筈の頑丈な煉瓦造りの建物たちを化け物が次から次へと容赦なく壊していく様子にはまるで化け物に街を食われていくかのような絶望感を人々に与える。街の惨状を次の侵攻作戦の上級兵士との会議の合間に王宮から抜け出して休憩していた青年も目撃している。状況を把握するために教会の丸屋根の上に立って眺めていた青年は顔を青ざめさせる。平穏だったはずの街が壊れた建物と血だるまで転がる人々で一気に地獄絵図と化している。そして災禍の中心の暴れ狂う怪物の正体に魔術師の青年はすぐに思い当たる。

魔物。魔物だ、あれは。

しかし魔物を呼び出すには召喚魔法を行う必要がありその為には吐き気を催すほどに高度で複雑な魔法陣を構成する必要がある。それは数百種類あるとされる呪文の無数にある組み合わせの中から一文字も余すことなく効果的に連ならせて魔法陣を錬成するという天才の所業が求められ、おまけに一度使用された魔法陣は効果を失うために先人の編み出した魔法陣は二度と使えず資料もほとんど残っておらず、その度々で自力で生み出すしかないという厳しい条件である。しかし誰かが召喚魔法を行い魔物が呼び出され魔物が暴れ回っている、それは事実である。目的は分からないが呼び出した人間には見当がつく。怪物の外見は身の毛がよだつおぞましさだがどこか国王を連想させた。実際の見た目というより王に抱く印象だろうか。ともかくとして青年は教会の丸屋根から滑り降り、王宮の方向へと駆け出した。

王宮の庭園の離れにあった物置小屋は跡形もなく吹っ飛んでいて、中に積んであった処分用の死体の山が野晒しになっていた。その山の中腹辺りから、つま先の長い上質な革靴を履いた下半身が間抜けに飛び出している。王である。王宮は化け物の襲撃を逃れ無事のまま現存しているが王は住み慣れた王宮に戻るよりも愛する死体に埋もれて現実逃避することを選んだらしい。

青年は細い足首を掴むと死体の山から勢いよく引きずり出した。


「や、や、やめてくれ! 私はお前を召喚した主人だ! 王だ! 食べないでくれ!」


腰の抜けている王は後ろを振り返ることなく情けなく這いつくばって何とか距離を取ろうとする。そこに一国の主としての風格は一切存在せずただ恐怖に怯える老いぼれでしかない。王冠も無い。青年は冷えた眼で老人を見下ろす。


「国王様。落ち着いてください。私です。落ち着いてください」


足の折れた虫のように惨めに動き回っていた王は青年の声を聞いた途端動きを止めて後ろを振り返る。


「……ん? なんだ、貴様か。そうか。そうか……」


化け物が襲いに来たわけではない事を理解して露骨に安堵の表情を浮かべる。続けて発しようとした言葉は“良かった”に違いない。良いわけがない。今こうしている間にも国は怪物によって崩壊の一途を辿っている。腹が立った青年は力なく座り込んでいる王の襟首を掴み上げる。


「あの怪物は何ですか!どんな目的で!いやそんなことは後で良い、どうやって呼び出したのですか!魔法陣はどこですか!どこに描いた!言え!ほら!言え!早く!」


口調も崩し眉を吊り上げ必死の形相で怒鳴りながら首を揺らす青年に気圧された王は、細い腕を持ち上げて一点を指差しながら怯えた声で言う。


「そこだ、そこに描いてある」


青年は揺するのを止めてすぐさま王の指さした方向に顔を向ける。確かにその方向の地面には赤黒く発光する魔法陣が描かれている。青年は焦燥をぶつけるように王の襟首を突き飛ばして王が首をしたたかに地面に打ち付けている間に魔法陣に飛びつき地表のそれを消すために魔法陣の曲線上の砂を何度も手で払う。が、形が崩れることは無い。消せなければ怪物も消えない。魔法陣が、消えない。


「くそ!何で消えない!何で描いた!」


虚しい試みを続けながら青年が声を荒げる。


「……血だ」

「くそおっっ!!」


最悪な予感が的中し青年は拳を地面に叩きつける。血は他の物質とは訳が違う。神が動物を動かす為に与え給うた神聖なる液体である。それをあろうことか魔法陣に使って魔界から魔物を引っ張って来るなどという罪深い行為が神に許される筈もなく、祝福の贈り物だった筈の血液は呪いとなって現世に刻まれ消すことが不可能となる。つまり王は愚か者で状況は困窮を極め事態は一刻の猶予も無い。青年は一度大きく息を吸ってからゆっくりと吐き出し、王へと向き直る。


「国王様、約束をしてください」

「約束?」

「私があの怪物を退治しますので、その際は国を落ち着かせた後に国王様は王の座を降りて娘のアデラ王女殿下に譲ってください」

「ふん。国王である儂と対等な立場で交渉しているつもりか」

「仰る通り。まだ対等な立場として扱っている私を有難く思った方が良い」

「っっ!!」


苦々しい顔をした王は青年の射貫くような視線に堪えられず他所を向いて呟くように言った。


「……分かった」



両脇に三角屋根の家々が立ち並ぶ石畳の通りの真ん中にポツンと青年が一人で立っている。周りに人がいないのは怪物が家々に気を取られている間に教会へと逃げ込んだからである。勿論教会の中だから安全とは言い難く他の建物に隠れるのと比べて多少ましと言った程度。怪物をどうにかしなければ危機は去らない。だから青年が道に立って怪物を迎え討とうとしている。

やがて青年の前に化け物が姿を現す。野太い声で泣きじゃくる赤子が細い胴体から生える大量の腕を繰り返し繰り返し動かして地鳴りと共に巨体が迫りくる。全てが不自然で不気味と形容する他にない。こんなおぞましい化け物と対峙するとは青年は夢にも思わなかったし夢に出てきそうでもある。目の悪い化け物は道すがら家々を壊しながら順調に青年との距離を縮める。やがてずっと忙しなく動いていた腕達が一斉に動きを止めて目を細めて泣いてばかりだった赤子の瞳が大きく見開かれる。見つけたのだろう青年を。それは待望の人間だ。母が迎えに来てくれたに違いない。という感情で期待して身を乗り出して赤子がぐっと顔を青年に近付ける。眼球がじろりと動いて青年の容姿を上から下まで舐めるように確かめた。


「お母様じゃなああああああああああぃぃぃ!!!!」


青年を丸呑みできそうなほどに大きく口を開けて化け物が叫び散らす。期待があったぶん悲しみは大きい。残念ながらお母様と呼ばれるシャルロット王妃は既に無くなっているので怪物はこの世で悲しみ続ける事しか出来ない。青年は優しいのでそんなことはさせない。チャンスは一度きりだ。退路は無く機会を逃せば青年は間違いなく食われる。王女のいるこの国を怪物に蹂躙させる気はない。青年は、怪物の叫びの振動で震える体を三歩、後退させる。化け物と人間の間に生まれたスペースのその下の地面に、天に向かって高々そびえる時計台の頭の大きな時計の丸い影が月明かりに照らされて色濃く映る。円状、これが重要で曲線が弧を描いて縁取った丸い空白には魔力が溜まりやすく、それは人の手によって人工的に書かれた物よりも自然発生的に出来上がった物の方が数段効力が強い。だからその位置をあらかじめ予測して地面に魔法文字と象形を刻んでおけば強力な魔法陣が完成する。極上天然なトラップが完成する。そんなことは露知らず哀しみに突き動かされた怪物が


「うわああああああんん!!!!」


と泣き声を上げながらせめてもとばかりに青年を食べようとする。だがその前に既に呪文の詠唱は終っていた。口を開けたまま距離を詰めて今にも青年にかぶり付こうとする化け物の頭上に光の大剣が剣先を下に向けて突如として出現する。それは魔を滅する聖なる剣であり、化け物が口を勢いよく閉じて青年の身体を真っ二つに噛み千切ろうとしたその瞬間、大剣が重力を思い出したかのように目にも止まらぬ速さで落下し、真下にあった化け物の頭部を顎まで一気に貫いた。


「ああああああああああああああああっっっっっ!!!」


頭を地面に縫い付けられた化け物は絶叫と共に口から目から耳から頭頂部から真っ黒な血を周囲に噴射した。青年は無事だ。顔に掛かった真っ黒な血を腕で拭って化け物の憐れな最期を見届ける。身動きの取れない化け物は何本もの腕をあちこちに動かして大剣から解放されようとするがそれは叶わず出来ることがせいぜいその場で意味なくもがき苦しむことだった。腕同士が絡み合って胴体から何本も千切れ飛んでいく。千切れて地面に転がる腕もびくびくと動いていて自由への執着が見苦しい。やがて泣き声が小さくなっていき喉を鳴らすざらついたノイズへと変わり果て、瞳はゆっくり閉じていった。

完全に動かなくなった。最期には黒い涙が赤子の丸い頬の輪郭をなぞって地面に垂れるだけだった。


「可哀想に」


口から零れた言葉は化け物に対してか国王に対してか自分に対してか、当の本人の青年にさえ判別がつかない。ただ確かなのは脅威が去ったという事だけである。青年は膨大な体内魔力を消費したので立っていられずその場でへたり込んだ。

そこへ声を掛ける者がいた。


「あーあ、なぜ倒してしまうのですか。折角私の国の人口を増やせるところだったの」


赤子の頭にいつの間にか座っている、美しい顔立ちの胡散臭い笑みを浮かべる偉丈夫に青年はすぐに古い友人の面影を見出した。顔をしかめる。


「やっぱりお前だったか」

「久しぶりの友との再会なのに随分嫌そうですねえ?」

「外道の道に落ちたお前なんて友でも何でもない」

「ひっどいなあ」


言葉とは裏腹に涼しい顔で何とも思っていなさそうな男は怪物によって荒らされた無惨な街の景観を振り返る。


「見たところ思ったよりも人も死んでないし、こりゃ召喚魔法陣をあげたのは損でしたねぇ」

「死んでるだろ、沢山」

「ええ?そうですか?」


不思議そうに言葉を返した男を見て“まさか”と青年は思い、街を見渡す。勘弁してほしいと青年は思った。青年が死者だと思っていた転がる人たちはほとんどが元から死んでいる亡霊であった。街に溢れていた亡霊たちは怪物によって二度目の死を得たのだ。最低な冗談だ。心を盗み見るのに長けた男は青年の心境にも目ざとく気が付く。


「はは~そういうことですか。君も大分毒されちゃってるんですねぇ」

「うるさい」

「良い傾向です。狂った精神。不健全な魂。もっと捻じ曲がればいずれは私の側に来るでしょうね」

「黙れ」


軽蔑する人間に同族意識を持たれても不快でしかない。


「ああ恐い恐い。恐いから退散しますね。また会えるのを楽しみにしてます」


男はそう言い残しカラスに姿を変えて飛び去った。青年はため息を吐いた。


「両手を後ろで組め」


背後から警備兵に声を掛けられる。

近付いてくる気配に気づいていたが抵抗する気力は残っていない。

街を救った青年は罪人として捕まった。



広場に押し寄せた国民は群衆となって一様に同じ方向を見上げ罵声を飛ばし腐った卵や傷んだ野菜を投げつける。人々が向ける憎悪の対象はたった一人、木組みの高々そびえる巨大な処刑台の上に正座で座っている青年である。ボロボロのローブを身に纏っている青年の両手首には魔力を封じ込める手枷が嵌められ、手枷からは鎖が伸びて足元の木材に埋め込まれるように固定されていて自由が無い。淀んだ瞳で青年は群衆を見下ろす。横に王が立ち声を張り上げる。


「見よ、我が国民たちよ! この男こそが怪物を呼び出し街を滅茶苦茶にした元凶の魔術師である!」


国王に煽られて民衆はさらに憎悪の感情を高める。睨む。喚く。投げる。青年は当事者で在りながらどこか他人事のように自分に視線と声と物で怒りを向けてくる人々を虚ろな目でぼんやりと眺めながら事の経緯を思い返したりしている。複雑なことは何もない。怪物を退治して疲れ果てたところを捕まり衛兵に連行され処刑台の螺旋階段を上がり人々の前に罪人として晒されている。簡単な話だ。王は青年に罪を被せて処刑することで約束を無かった事とし、青年の居ない世界で王であり続けることを望んだのだ。だが王に怒りの感情が沸くことは無く、青年の感情は極めて穏やかで、むしろこの状況を望んでさえいたように思える。それは民衆の中に大量の亡霊が混じっているからに違いない。目が無かったり裸だったり血だらけだったりするからすぐに分かる。彼らも民衆に混じって青年を恨めしそうに見ていて、王に憐れに身体と命を弄ばされた彼らに何もしてあげられなかった罪悪感に青年はもはや耐えきれなくなっていた。そもそも王に約束を絶対に守らせたいならば約束の際に血の契約でも何でも強要すれば良かったわけで、口約束で済ませた時点でその気があったという証明に他ならない。だからきっと青年は裁かれるのを望んでいた。


「この男の罪は怪物を召喚しただけに留まらない! 我が国の囚人を死者を復活させるという禁術の生贄にしてしまったり、軍事費の為にと儂が心を鬼にしてから皆から徴収している多額の税金を財政担当でもあるこの魔術師は私的に使い込んで高値の魔導書を買ったり、

更には最近は通行人をこっそりと攫って魔術の実験の材料にさえしていた! こいつは悪魔の生まれ変わりに違いない!」


と熱弁を振るった王は大嘘つきに違いない。囚人を殺しているのは王で税金で拷問道具を買い揃えるのは王で気に入った通行人を攫わせて一夜の逢瀬の為に殺しているのは王である。処刑する青年にどうせなら自分の罪を全て被せようという王の心はなんと醜悪だろうか。しかし気持ちが死へと向かっている青年にとってそんなことはもう些末事に過ぎず、否定することもない。


「このような罪深き男に皆は何を望むっ!!」

「死刑だ!!」「死刑にしろお!!」「殺せえええ!!!!」「首を刎ねろぉ!!!!」「地獄に落とせええ!!」


青年の刑罰を叫ぶことに国民は熱狂し


「よし、ならば決まりだ! この男は死刑とするっっ!!」


国王はようやく宣くの告する。青年が処刑される未来は王の中での決定事項の筈で、この一連の流れは青年の死を正当化するための茶番であり全く意味が無い。国民に背を向けた王は国民を巻き込んだお遊戯に満足げにほくそ笑み、処刑を観覧出来る趣味の悪い自分専用の椅子へと歩いて戻っていく。隣には白いドレス姿の王女も座っているが瞳には特別感情はなく無言である。自分に失望したのだろうと青年は納得している。王と入れ替わる様に、黒い装束を纏った大柄な男が処刑用の斧を持って青年の隣に立った。顔を上げた青年が処刑人と思わず目が合って笑ってしまったのはこんな筋骨隆々な男よりもそこに座る枯れ木のような爺の方が間違いなく首を落とすのが上手いという事実の可笑しさにだが、処刑人の表情はピクリとも動かない。飛んできたぐじゅぐじゅの傷んだトマトが青年の顔にぶち当たって破裂して青年の顔を真っ赤に染め上げて、それで初めて処刑人が微かに嫌味に笑った。青年は手本を見せるように堂々と笑ってやった。血まみれになる良い予行演習が済んだ、トマトを投げつけたご夫人に感謝を。

やがて緩やかに処刑が進行していく。

処刑人が斧を両手で握って俯く青年の首に刃を当てて狙いを定め、群衆は静まり返り、青年は目を閉じる。死をもたらす者、死を待ち望む者、死を受け入れた者。青年の瞼の裏には幼馴染でもあり王女でもあるアデラの姿がある。青年の荒んだ精神において彼女との会話や触れ合いは唯一の希望であって、それが無ければ青年の日常は青年自らの手によって早々に幕を下ろしていたに違いない。唯一の懸念は王という人の皮を被った化け物が君臨するこの国に彼女を残してしまう事である。魔術師はどこからか補充するとしても、戦争よりも外交よりも内政よりも自分の欲を満たす事を優先する王が国の頂点ではいずれ他国に攻め込まれた時に呆気なく国が陥落する未来が容易に想像できてしまう。ならば彼女も一緒に黄泉の国へ連れて行くのが安全だろうか、などという狂った思考が一瞬でも頭をよぎるがそれは末期症状だと自嘲した。最期にせめて別れを言いたかった。

最期が迫る。処刑人が斧を天高く持ち上げる。待ちわびた死の瞬間を期待して群衆が静まり返る。

そして、王が言う。


「殺せええええええぇぇ!」


振り下ろされた斧はしかし、


カキンっ!


青年の首を刎ねることは無かった。

斧が、弾かれた。

弾いたのは王女の剣で、王の隣の席に座っていた筈の王女は斧が振り下ろされる寸前にドレスのスカートの影に隠していた剣を握って目にも止まらぬ速さで駆け出し、振り抜き、青年の首に迫っていた斧を弾き返したのである。彼女の行動はこの場に居合わせた誰にとっても予想外で流れていた時間が一瞬止まった。その静寂を見逃さず王女が青年の前に凛と立ち、声を張り上げる。


「この男は無実であるっっ!!!」


大衆に流れる沈黙に彼女の低い声が響く。。


「この魔術師は怪物の召喚などしていない!国を滅ぼそうなどと思っていない!むしろ彼は一人で怪物に立ち向かい見事に退治してみせた英雄だ!その姿を見ていた者もいるはずだ!なぜ己の目を信じない!!」


群衆がどよめくのは無理もない。この国では王に異を唱えることは反逆とみなされ死罪にすら該当する。だからこそ国民は無条件に王の言葉は絶対であるという考えを持つようになるのだが、王女と言えば真っ向から王の言葉を否定している。本来ならば起こる筈の無い光景を目の当たりにして、人々の価値観は大いに揺さぶられることになる。


「まるで儂が嘘をついているかのような言い草だな」


王も黙ってはいない。


「その通りです父上! 貴方は大嘘つきだ!」

「ふっ。戯言を」

「では言い換えましょう! 死体に憑りつかれた変態サイコ野郎!!」」


一変の迷いもない堂々たる彼女の罵りに王は絶句し、民衆は騒ぎ出す。


「ふざけんな!!」「反逆者めえ!!!」「裏切り者っっ!!!」「国から出て行け!!」


言葉の真意は伝わらず王を侮辱したという事実だけが伝播した結果、国王の熱心な支持者達から熱烈な言葉と共に物が投げつけられるが彼女は両手を広げて青年を庇うように前に立ち、その全てを身体で真っ向から受け止める。ドレスから覗く後ろ姿は細くしなやかで勇敢である。愚かである。たかだか一人の男を助けるためにわざわざ王女の立場を危うくするなんてどうかしている。青年はその背中に呼びかける。


「馬鹿な真似はよせ」

「それはこっちの台詞だよ」


彼女は振り返ることをせず前を向いたまま答える。


「僕に無断で死のうだなんて良い度胸じゃないかこの馬鹿。もう君は死刑だよ死刑」

「じゃあ死んでも構わないだろう」

「良いわけないだろ馬鹿。勝手に死ぬなんて絶対に許さない」

「言ってることが矛盾してる」

「死んだら死刑だって言ってんだ馬鹿」


青年に顔を見られないのを良いことに彼女の口角は人知れず上がっている。逼迫した状況にあっては青年も上下の立場を忘れて彼女にため口を訊いていて、それが何のしがらみも無かった幼い頃を彷彿とさせられて嬉しかったのだ。

そんな彼女の見下ろす先、広場に集まった国民は今や三分割されている。王を信じる者と王女を信じる者とどちらも信じられない者。国民からの人気の高い王女の彼女の言葉が王を盲目的に全肯定していた国民を惑わせた結果だ。彼女はこの状況を望んでいた。


今はこれでいい。


彼女は心の中で独り言ちる。今はこれでいい。どんな堅牢な建物であろうとも一度ひびが入ってしまえばいつかは壊れるように、これは王打倒の革命の大きな一歩となる。


「アレを捕らえよっっ!!」

「やれやれ。ここが潮時か」


怒鳴ったのは王。呟いたのは彼女。怒りを買ったばかりに実の娘にも拘わらず物呼ばわりまで降格した彼女に王から衛兵が差し向けられる。処刑台の上で警備を担当していた筋骨隆々な衛兵だ。掴みかかろとしてきた瞬間に王女は素早く身を引いて代わりに足だけ残して引っ掛けて前につんのめり、処刑台から落ちかけて腰を抜かす。その間に王女は青年の手首を拘束する手錠に剣を振るって叩き斬ると青年の腕をとって起き上がらせた。


「逃げよう」


青年が何か言葉を返す前に王女は駆け出し青年も引っ張られて走り出す。地面へと続く螺旋階段を降り始める。慌ただしい逃避行が始まっている。


「おい、アイツらを逃がすな! 捕らえろ捕らえろ!!!」


王の指令が飛んで衛兵が後方からは先程の一人追ってきて、前方からは蟻の如く無数に昇って来る。両方向から挟まれて為す術がないと覚悟した青年を置き去りに階段の死角で待ち伏せていた何かが飛び出し、それは剣を構えた複数人の兵士だったが、青年と王女の前後に位置取って衛兵と対峙した。


「僕の部下たちだ」


兵士が切り開く道を駆けながら王女が言う。青年はようやく言葉を紡ぐ。


「このまま降りたところで群衆に囲まれて碌に逃げられないぞ」

「大丈夫。足がある」


自信満々に言った彼女は足を動かし続けながら指笛を鳴らす。


ぴゅいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃっっっ


甲高い音が群衆の混沌の無数に重なり合う罵詈雑言を引き裂いて広場に響き渡る。するとどうだろう。どこかの神が海を割ったように群衆の人波が遠くの方から割れ始めてこちらに迫って来る。そのうちに視認する。馬だった。王宮で飼われていて王女に特別によく懐いていた葦毛の大きな馬が人の波を掻き分けてこちらに向かって全速力で駆け抜けてきていた。二人が地上に辿り着く頃には既にそこで待っていて王女を見ると嬉しそうに顔を寄せて鼻を鳴らす。


「よしよし。賢い子だ」


葦毛の美しい馬と穏やかな笑みで馬の首を撫でる彼女の姿はまるで一枚の絵画のような優雅さがある。だがここは混沌の場所でのんびりとはしていられない。今だって後ろから兵士が抑えきれなかった衛兵が数人迫ろうとしている。王女も当然気付いている、青年の背を押して馬に乗る様に促す。だが青年は馬の横まで来て足を止めた。


「どうかしたかい?」

「悪い。俺、馬に乗ったことが無くて」

「ほほおー。ビビってるのかい?」

「……少しだけ」

「大丈夫さ。後ろから僕が支えてあげるよ」


未だ不安そうな青年だったが「ほらほら」と彼女に急かされ、他に手段も無く、慎重に鐙に足を掛け背中の鞍に一思いに跨った。、後ろから彼女が青年を抱きしめるように乗り手綱を握る。


「これで落ちそうになっても僕が抱きしめるから大丈夫」


彼女が後ろから耳元で囁く。


「よし、行こう」


彼女が馬の腹に軽く足を当てるのを合図に馬が猛然と駆け出す。

まるで風を切る矢のように。人波を分けて。走る。走る。





ざぁあああぁぁぁあぁああぁぁぁぁああぁぁぁあああ


辺りに響き渡るのは滝にも似た雨の音。二人を乗せた馬は国を飛び出しとある目的地へを目指していたが、道中激しい豪雨に襲われ幾重もの雨の軌跡で視界もまるで利かなくなり止む無く二人は途中で見つけた洞穴へと逃げ込んだ。


ぱちぱち。


焚き木の暖かな橙色の炎を囲んで二人は座っている。ずぶ濡れになった衣服は地面に突き刺した長生きの棒の反対側に吊るして干していて、青年は下着一枚、王女はドレスの下に着るインナーである胸を隠すビスチェとショーツ姿で、お互いに肌を多く晒し合っている。青年は色っぽい王女の姿に視線が奪われないよう努めて視線を逸らして洞穴の出口から外を見る。外の雨は激しさを増すばかりで一向に止む気配がなく、二人を運んでくれた馬は周囲の警戒と草を食むことに励んでいる。やはり少し気になって青年は彼女に視線を寄せる。首からネックレスを下げていることに気付く。涙型の水晶に埋め込まれた四葉のクローバー。


「そのネックレス……」

「ああ、懐かしいだろう。君にもらった後、直ぐに世話係のベレスさんに押し花にしてもらったんだ」

「初めて見た」

「普段は大切に仕舞ってるからね。ここぞという時には願掛けで着ける。例えば今日みたいな絶対に失敗できない時とかは、ね」


そこで一旦会話が途切れ、雨音が二人の間を取り持つ。青年が再び口を開く。


「これからどうするんだ」

「雨が止んで地面が固まったら本拠点に行くよ。そこで部下たちと集合することになってる」

「そうじゃなくて。あんな、罪人を助けて王を侮辱するような真似をしたら、俺はともかくお前まで国に戻れないだろう」


青年の声色は低く深刻さが滲み出でいるが彼女は正反対に飄々としていて微笑さえ浮かべている。深刻な状況なのは彼女も同じはずなのだが。


「どうしてそんなに余裕そうなんだ」

「じきに戻れるから、かな」

「どういう事だ」

「国が僕を求めるという事さ」

「……?」


どうも彼女の返答は要領を得ず青年はもどかしい。青年を揶揄うのにも飽きたのか、彼女が言葉をくれる。


「今まで僕はあの爺の悪行を全部知っている。そしてそれを明らかにするために色々と証拠集めを行ってきたんだ。最近になって証拠は全て出揃った。後はきっかけだけが必用だった。ただ情報をバラ撒くだけだと国王という権力の前に潰されて国民には届かないだろうけれど、何か国民の気持ちそのものを揺るがすような大きな出来事さえあれば、そこに疑念が生まれて、国王についての信じがたい噂も真実味を帯びた毒として奥まで浸透する」

「まさか、革命を?」

「そんな大層な事じゃない。くそ爺に裁きを下すだけさ」

「国王が居なければ国は滅茶苦茶になる」

「そこで僕が戻る。王女の僕が新たな君主となる。だけど僕は残念ながら女で、僕だけだと国を纏めるのに色々と不都合が生じる。そこで君にお願いがある」

「お願い?」

「僕の夫となれ」

「……は?」


青年は思わず耳を疑ったが、王女は再度言葉の意味を正確に伝えるために揺れる炎を瞳に反射させながら真っ直ぐと青年を見据えてはっきりと言う。


「僕の、王女の夫として、そして正真正銘の国を救った救世主として君主の座について国を僕と一緒に纏めてくれ」


それはとんでもないお願いで、青年にとってはありえない。


「……無理だ」

「なぜだい? 僕が嫌いなのかい? それとも他に好きな女がいる?」


彼女が今までの雰囲気から一変して冷たい空気を纏い青年を睨む。


「そうじゃない」

「そうか、じゃあ好きってことだね?」

「え?」

「好きなんだね?」

「……嫌いじゃない」

「はっきり言え」

「……好きではある」

「よしよし。僕も好きだ。じゃあ結婚しよう」


彼女は独りでに頷いているが話はまだ核心に触れていない。何故かどこか浮かれた様子の彼女を真剣な空気へと呼び戻す。


「さっき全部と言っただろ。王の悪行を全部知ってると」

「ああ知っている」

「でもきっとアデラは知らない事がある」

「ほう。何かな」


それは当然国王が夜な夜な行っている悪逆的な行為の事で青年は一瞬言うのを躊躇ったが結局は言葉にした。


「国王は俺が作り出した空間で囚人をいたぶって殺し、犯すことを楽しんでいる」

「ざんねん。知ってるよ」

「っっ!」


口角を上げてあっさりと言ってのけた彼女に青年は目を丸くする。そんな事がある筈が無いのだ。何故ならあの空間は青年が王の為だけに作り出した特別な空間で、部外者はおろかネズミ一匹侵入することが許されないのだから、彼女は知りようがない。眉を微かに寄せて訝しむ青年の表情から心情を察して彼女が口を開く。


「収監されている囚人の数と実際の囚人の数が合わなかったり、死刑にするには不自然に罪が軽かったり、そもそも死体が見当たらなかったり……妙なことが多くてね、ある日片目の死刑囚に特別な義眼を付けてもらったのさ。見たものが水晶に映るとかいう、ちょっとグレーなルートから手に入れた眉唾物だったけどね」


青年は完全に虚を突かれた。外部からではなく内部、それも体の一部から情報が洩れるとは、思わなかった。


「それで……見たのか」

「ああ、見たさ。沢山の人間が肉を剥がれ四肢を切断されて泣きながら絶命し犯されていた。地獄みたいな光景だった」

「だったら想像がつくだろう!あれを間近でほぼ毎日のように眺め続けた人間の精神がどうなるか!」


それは彼女にとっては理不尽に思える感情の吐露だろうが栓の壊れた水道のように感情が口から溢れ出す。


「日常が狂って行くんだ!すれ違うと人すれ違う人が亡霊で目が死んでいて頭を付けたり外したりする遊びをしていて血を俺の身体に血を吐きつけてきて呻き声を重ね合わせて唄を歌って五月蠅くて蝋燭が天井に突き立てた人の指に見えてフォークで突き刺したトマトが人の目玉に変化して机が四つん這いになった亡霊だ!街はどうだ!骸姿の犬が寄って来る!噴水が真っ赤な血を上げる!時計台の時計の長い針と短い針は成人の男と子供の女が擬態していやがる!狂ってるだろそんなの!そんな狂ってる人間が結婚?君主?無理に決まってる!!」


青年は途中から悲しくもないのに大粒の涙を流していた。

王女は青年が言葉を余さず吐き出したことを確認すると柔らかな笑みを浮かべてゆっくりと抱きしめた。


「支えるよ、僕が」


羞恥心と悲しみと罪悪感と怒りと色々混ざり合ってごちゃごちゃになっていた感情が彼女の腕に抱かれる温もりと優しい言葉で包まれて心が平穏を取り戻してく。青年は彼女の肩に頭の体重を預けて頼る事を許された存在をしばらく感じてから、抱きしめられたままでゆっくりと言葉を吐き出す。


「俺は裁かれるべき人間なんだよ……」

「うん?」

「だからさっきも首を刎ねられることを望んでさえいたんだ。死にたかったんだ……」

「助けることが出来てよかったよ」

「責任取ってくれよ」

「うん?」

「俺を死から引き揚げた責任を」

「ふふっ」


彼女は青年の滅茶苦茶な物言いに笑ってしまう。青年も自分が筋の通らない事を言っているのは理解している。それでも言葉にしてしまうのは彼女に甘えているからなのだろう。彼女もそれを分かっていて受け入れている。


「いいよ。何をしたらいいのかな?」

「痛みが、欲しい」

「痛み?」

「アデラが俺を代わりに罰して欲しい。受ける筈だった分の痛みが欲しい」

「……分かった」


彼女は本当はあまり気乗りしていない。だが青年が望むのならば与えてあげたいという優しさで動く。「離すよ」と優しく断ってから青年から腕を話して立ち上がり、端の岩壁の下に置いておいた剣を握って金の装飾が施された黒い鞘だけを抜き、手に取る。彼女が青年の元に戻ってくる頃には青年はいつもの堅物な真面目な顔つきで胡坐で両ひざに手を添えて座り、彼女を待っていた。


「さあ、殴ってくれ」


青年は彼女を見上げて至極真面目にそう言った。王女は鞘を握る右手に力を込めて唾を呑み込む。無抵抗な人間、それも青年を痛めつけるという行為に抵抗を感じずにはいられない。


「頼む」


言われて彼女はようやく鞘を青年の左腕へと振るう。その鞘の動きはあまりにも遅く手加減が形をもって現れていた。鞘が素肌に当たって少し弾かれて止まる。


「もっとだ」


青年が彼女の目を見て言う。彼女は腕を引いてさっきよりも強く鞘を振るう。それでもさっきよりはマシと言った程度で優しさが残っている。


「もっとだ!」


青年が先程よりも鋭く言う。三度目の正直。彼女は今度は覚悟を決める。


「ほんとに良いんだね?」

「ああ、思いっきり頼む」


その言葉を聞いた彼女は今までと違って本当に剣を握るときのように身体の正中に鞘を構え、そして残像が残るほどに勢いよく鞘を振るった。


バチンッッ


鞘が肌にぶち当たる鈍い音が洞穴に響き


「うぐっっ!!!」


青年のうめき声がすぐ後に響く。歯を食いしばり右腕で打たれた左手を押さえる青年に彼女は慌てて駆け寄り「大丈夫かい!?」と声を掛けるが、


「もっと!もっとだ!もっとくれ!」


青年が目を駆っぴらき鬼気迫る声で言い放つ。青年は強い痛みを感じる度に視界に映る亡霊が姿を消すことに気付いていた。だから痛みを欲した。彼女は心の中で無意識に働いていたブレーキを外す。心配してはならない。殴らなくてはならない。青年を幸せしなければならない。彼女は心の声に従って今までの躊躇が嘘のように四方八方から目にも止まらぬ速さで鞘を振るって青年の身体を痛めつけた。


「ううっ! んぅっ……! うぐっっ! くぅ……!」


彼女の容赦のない腕の振りを支えていたのは青年の為という大義名分のみならず、青年のうめき声を聞く度に胸の内からこみあげる熱い衝動があったことは否定できない。それを証明するように彼女は額から汗を流しながらも楽しそうに笑っている。そのうち彼女が突き気味に放った鞘が青年の鳩尾を深く打ち抜いて青年は思わず唾液を吐き散らしながら体を丸めた。


「大丈夫かいっ!?」


これには彼女も思わず手を止めて心配したが


「もっとっ……もっとっっ……くれぇ……」


顔を上げた青年が荒い息を吐きながら涙目で嬉しそうに言い、それを見た彼女の身体にぞくりとした感覚が走る。それは高揚。認めざるを得ない。彼女は青年を痛めつけることに性的な興奮を感じていた。それは血であり呪いであり彼女の身体に流れる王の血筋は彼女のサディズムの傾向を強めた。だが王と違って対象は青年だけだ。青年が自分の与えた痛みによって苦しむその姿が見たい。彼女はその一心でますます腕を振るう力を強め、青年はその痛みで自分の罪悪感を慰め、許されていく。

やがて雨は上がっていたが、それでも洞穴の中では暫く、下着姿の女が下着姿の男を嬉々として殴りつけていた。




まず国中に、王がサディストでネクロフィリアであること、その性欲を満たすために囚人を殺していること、国民から徴収した税金で拷問道具を集めていること、気に入ったからという理由だけで国民を密かに攫い死体にして犯していること、条約で禁止されているにも拘わらず気に入ったという理由だけで親密な国からの人間の輸入を行っていること、死者の国を作ろうとして国に怪物を招き入れたこと、それらの一切の罪をひた隠しあろうことか青年になすりつけようとしたことが、国内に残っていた王女の部下たちの呼びかけやら羊皮紙やらの拡散(後に新聞屋と呼ばれるようになる)によって知られ渡る事となる。王はこれらの不祥事の数々により廃位を余儀なくされ、王宮地下の監獄に死ぬまで収監されることとなるが、最期の台詞が「儂の身体は骨まで残さずに燃やし尽くしてくれ!どうか!この通りだ!頼む!」と情けなく頭を下げて懇願したことからこの老人が最期まで死体に憑りつかれていたことが窺え、憐れ極まる。君主を失った国は瞬く間に混乱内乱混沌を極め有力貴族がこぞって台頭し派閥に分かれ内部分裂かと思われたが、そのタイミングで王女と国を怪物から救ったとされる魔術師が戻り、二人は協力してあっという間に国内を纏め上げ、今が好機と攻め入って来ていた諸外国を魔術師自らが戦場に立ちながら王女の的確な指揮の下で兵たちと鮮やかに追い返し、気付けば国には平和が訪れた。王女は君主となって圧倒的な統率力で国民を正しき方向へと導き、魔術師の婿は持ち前の賢さで国を支えた。国民は崩れかけた国を見事に治め、人格者でもある王女とその婿を心から敬愛し、国には一流の職人の手によって素晴らしい銅像まで立てられた。国は豊かに栄えた。

しかし国民は誰も知らない。

王宮内のどこかにある秘密の空間で王女と青年が二人だけで夜な夜な過ごしていることに。

王女が興奮で鼻息を荒くしながら青年をあの手この手で痛めつけ、痛めつけられる青年が口角を上げて感謝を口にしながら喜んでいることに。捻じ曲がった二人の性癖の凹凸が見事に嵌り合って二人だけでどこまでも幸せになっていることに。

誰も気付いていない。

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