引きこもりが愛される

終電の電車が線路の上を走り去っていく音が静かな夜の街に響く。点々と置かれた街灯が道を照らし、出歩く人影はほとんど無い。


ふうぅ。


薄赤い艶のある唇が煙草の煙を夜空に吐き出す。

アパートの隣室の女性。アッシュグレーの色に染めたさらりとした長髪を背中に流した白い長袖ワイシャツに黒いストレートパンツ姿の女性。ベランダの手すりに肘を置き、星の輝く夜空を少し吊り目がちなその瞳でぼんやりと眺めながら、しなやかな指に挟んだ煙草を吸っている。瞼の下がった瞳は気怠げで、首元のボタンを開けて着崩した白Yシャツはラフな印象を与え、手すりに寄りかかっている姿からは疲労が窺えるが、それらは仕事を今日もやり終えた社会人の勲章であり如何にもダルそうな姿からは一仕事終えた社会人の凛々しさも滲んでいる。

だから、隣のベランダに立っている青年も顔こそ彼女同様に夜空を見上げながら、つい横目で彼女を見てしまうのだ。柔らかな風に煽られて揺れる長髪や瞬きする度に瞳を隠す長いまつげや緩やかに煙草を口元に運ぶ白い指や唇をほんの少し突き出して煙を吐き出す仕草を、追ってしまうのだ。


「今日は星が良く見えるね」


彼女が星を見ながら呟いたので、


「そうですね」


青年は言いながら視線を天に戻した。

確かに雲は一つもなく、広大な暗黒に無数の星が浮かんで輝いていた。


「アレとアレとアレは何座だろう」


彼女が尋ねるが言葉ばかりで指で指し示す事すらしないのでどの星座を見ているのか判別の仕様がない。彼女は青年を揶揄うのが好きなのだ。それを理解している青年はそれでも適当に当たりを付けて星の知識を披露する。


「柄杓みたいな形で七つ光っているのが北斗七星、オオグマ座です」

「うん」

「そこから南に辿ればおとめ座のスピカ、牛飼い座のアークトゥルス、しし座のデネボラがあって春の大三角形を作っています」

「ほう」

「あと近くにある四角形がカラス座です」

「へえ」


自分から訊いておきながら彼女の反応は薄めだ。尋ねた「アレ」がどれなのか自分でも理解していないから、「アレ」ついて青年に説明されたところで、ソレがどれを指しているのか分からないのだ。ただ青年に感心はしているようで、彼女は青年の方に顔を向けると微笑を浮かべた。


「相変らず物知りだね、君は」

「僕が嘘を言っている可能性もありますよ」

「嘘を吐いたのか。悪いやつだなぁ」

「話を適当に聞くのも悪いと思いますよ」

「しっかり聞いてたよ。柄杓がオオグマで良い感じの三角形があって四角いカラス」

「……位置は」

「うん、さっぱり」


ニコチンで枯らしたハスキーな声で清々しく言う。


「私には想像力がないからさ。星と星を繋いだところで直線が幾つも出来上がるだけ。間違ってもクマだとかカラスだとかにはならない」

「昔の人は想像力が豊かだったんでしょうね、きっと」

「暇すぎたんだよ、きっと」

「灰崎さんには縁遠い言葉ですね」

「ん?」

「いつも終電近くの時間に帰ってきてますよね」

「おー?私のストーカーか?」

「すみません。玄関の扉の音がいつも聞こえるので」

「冗談だよ。……確かに、いつも遅くまで働いているからね」

「お疲れ様です」

「おー。労われ労われ」


冗談ぽくそう言って「くくく」と喉を鳴らし笑った彼女は再び煙草を吸って煙を吐き出す。


「まあ悪い事ばかりじゃない」

「え」

「忙しいのは悪い事ばかりじゃない」

「そうなんですか」


彼女は街の遠くを見つめている。


「忙しく働いた後に吸う煙草は滅茶苦茶うまいんだ」

「味って変わるんですね」

「いや」

「……?」

「腹が減った時はご飯が美味しくなるように、疲れた時は煙草が美味くなる」

「ああ」

「告白と同じようにシチュエーションが大事なんだよ」

「告白と喫煙を同列に扱う人はそう居ないでしょうね」

「あえて色っぽく言うなら、愛を誓うように煙草に口づけして睦言を囁くように煙を吐いてるよ私は」

「ヤニ過ぎて色気がまるで感じられないですけど」

「えー?煙草吸ってる時の私の横顔チラ見してるくせに」

「……っっ!」


目を見開いた青年を見て彼女は悪戯が成功した子供のように目を細めてニヤニヤする。

まさかバレているとは。

青年は羞恥で顔を赤く染めた。


「相変らず分かりやすいなぁ、君は」

「……気のせい、だと思います」

「おっけい。そう言う事にしておこう」

「……」

「はぁー。君を揶揄いながら吸う煙草は美味いなー」


彼女はそう言ってまた煙草に口を付け、美味しそうに煙を吐いた。





青年は生きながらに死んでいた。

かつて一般企業に就職した青年はどうにも仕事が遅かった。要領が悪かった。向いていなかった。同期が皆出来る人だったので、新人だからという免罪符は認められなかった。

仕事の出来ない社員は仕事が出来ないので雑に扱ってよい。

会社はそのような風潮があった。

陰口を言ってもよい。面と向かって言ってもよい。教育なので物理的に叩いてよい。大声で怒鳴りつけてよい。土下座で謝罪させてよい。どうせできないので大事な情報を伝達しないでよい。書類を渡さないで困らせてよい。その憐れな姿を笑ってよい。生産性が低いのでストレスの捌け口にしてよい。

青年も愚かなことにそれに歯向かおうとしてしまった。屈辱を少しでも晴らそうと仕事を辞めずに数年ほど懸命に努め続けた結果、ちゃんと壊れてしまった。ある日の通勤中の満員電車の中、突然涙が溢れ出し体の震えが止まらなくなり血の気が引いて立っていられなくなった。たまたま駅のホームに停車中だったので青年は四つん這いになってスーツを着て迷惑そうに心配そうに見ている社会人たちの足元を無様に這っていってホームに何とか転がり出た。それから病院に行って、診察してもらって、医者が、症状の原因は貴方の劣悪な職場のモラルや倫理観に欠けた人々とそれを止めることのない周りの人間そのものなので一刻も早く今の職場は辞めた方がいい、と言ったので青年は「ようやくか」と心中で思い身体からスイッチが切れるが如く何かが抜け落ちるのを感じた。それは勇気や意地と言った社会人としてやっていくのに必用なものだったかもしれない。それを失くした。誰かが自分の代わりに白旗を上げてくれた事実にひどく安堵した。

社会からの脱落は青年の心に深い影を落とすこととなった。

引きこもりになった。

会社の人たちから浴びせられ続けた悪意によって青年の中で社会人とは皆このような悪を腹に抱えているものであるという認識を強め、再び社会に属して働こうものならまたその悪意をぶつけられ辛い目に合うことになるのでは無いかという恐怖に怯え、それからひいては社会の歯車として立派に働けていない自分に対してまともな大人になれていない未熟者というレッテルを自ら貼り付け、劣等感や情けなさや罪悪感や恥ずかしさを強烈に感じ、もはや外の大人の前でまともに姿を晒せなくなった。することと言えば飯を食べ毎日の糞尿と時々精液を垂れ流すこと。生産性の一切ない生ごみとなってしまった。

日常における虚無感は凄まじく、青年はよく死を考えた。でみたのは五畳一間の狭くて最低限の家具しか置いていない味気ないこの部屋で天井からロープを吊るし首を吊る。それはなんと甘美な妄想だろう……。

そんなある日、夜中ベランダに立って地面を見下ろして4階のこの高さから飛び降りたら死ねるのだろうか、いや中途半端に生き残ってしまう可能性もありそうだ、などと鬱々と考えているときに、


「何してんの?」


隣から突然に声を掛けられた。彼女だった。青年は、逃げなかった。

これは日中カーテンを閉め切り廊下を通る誰かの革靴の足音にもビビっていた青年にとってありえないことだった。青年が回れ右して戸を閉めて逃げ帰らずその場に立っていられたのはやはり彼女がスーツの下に着ていたであろう白シャツを着崩して脱力した様子で手すりにもたれ掛かって煙草を吸っていたからだろう。彼女の纏っていた気怠げなダウナーな空気はすっかり臆病になった青年に危機感を与える事がまるで無かったのだ。

彼女は一見だらしのない大人だった。

実際はバリバリに仕事をこなす雑誌編集者だったわけだけれど。


「何してんの?」

「じ、地面を見てました」

「何で」

「死ぬかな……と」

「ふっ。うける」


それから特別面白い話をしたわけでは無く彼女が時折零す言葉に適当に相槌を打っていただけだったが彼女は青年を気に入ったらしく「明日も同じ時間に出てきなよ。出ないとベランダから乗り込むから」と半ば命令じみた誘いをされたので次の日も次の日も同じ時間にベランダに出て彼女と取り留めのない話しをして時間を過ごした。いつしか青年の習慣となっていた。嫌では無かった。それは青年が人と社会と繋がりを持てる唯一の時間だったから。

あとは、彼女に一目惚れをしたから。





「最近幻獣病ってのが流行ってるね」


その日の夜は彼女が街を見つめながら一言目にそう言ったので青年はやはり「そうですね」と相槌を打った。彼女は煙草だけでなくお酒も嗜んでいて彼女のベランダの手すりの上にはグレープフルーツのパッケージイラストが特徴的な缶チューハイが飲みかけの状態で置かれていた。咥えているのは勿論煙草。ピアニッシモ。


「海外でも感染者数はそこそこいるのに、発症例は日本ばっかり」

「ストレス社会だからでしょうか」

「人間のストレスの許容量を越えてるのかもね今の日本は。だからみんな人間を辞めて動物になりだした」

「そう聞くと何だか面白いですね」

「実態はまるで笑えないんだけどね」


彼女は口角を上げて皮肉げに笑う。

幻獣病は、東京・大阪を始めとする主要都市に異世界との物流のために設置された異世界と通じる超巨大ゲートから流入したウイルスによって感染する病気だ。発症のトリガーはストレスだとテレビの専門家を名乗る人物たちがよく言っているが断定はされていない。症状には程度の差や周期があって、常時外見に異世界の動物の特徴が部分的に現れる症状から動物そのものに姿が変わる症状、変身期と潜伏期を繰り返す症状と様々であり、動物の姿の純度が高くなればなるほど大抵は理性を失い鬱憤など心の淀んだ感情をを晴らすように好き勝手行動する。実際、雷を操る青い虎が街を壊したから大事になっていて、この病やそれを取り巻く事件は彼女の取材対象でもあるらしい。


「幻獣病についてどう思う」

「どう……」


切れ長の目に問われた青年は目の前の手すりに肘を置いて暫し考える。


「月並みな意見ですが大変だなと思いますよ。罹った本人は差別や偏見に苦しむことになりますし自分でも制御できないで人や物を壊してしまうのは辛いと思います。何より治療法が確立されていません」

「だねぇ」

「でも周りの人は良く思わないんじゃないかと」

「おー?」

「大人は我慢する生き物じゃないですか、日々あらゆることに耐えて社会を回して。でも幻獣病に罹ってしまった人は誰もが我慢して作り上げている秩序あるその社会を獣になって思うがままに暴れて壊してしまう可能性があります。周りの社会人はそれを見てふざけんなって思うかもしれませんし、自分だってそんな風に暴れて滅茶苦茶に壊してやりたいのにずるいって感じる人もいるかと思います」

「本人だって望んで暴れるわけじゃないのにね」

「はい」

「やろうと思えば非感染者でも出来るのにね」

「はい」

「じゃあ。君は?」

「僕は……」


答えられなかった。

青年は社会で働いているまともな大人ではないので、社会人としての意見など恐れ多くて言えない。彼女には引きこもりであることを、言っていない。

彼女がふうっと煙草を吹かし夜空を見る。


「そう言えば、患者が動物に姿を変える際に現れる外見的特徴は、本人が普段から周りの人に言われてたり自分が自分に対して連想しやすい生物になりやすいっていう説がある」

「そうですね。潜在的にイメージしてる姿になるとか何とか」

「ねえねえ。君は私を生き物に例えるとしたら何だと思う?」


彼女が興味深そうに青年の方を向いて尋ねる。

青年は心臓の鼓動が微かに早くなるのを感じた。無邪気さを見せた彼女が可愛かったというのもあるし、青年の返答が彼女が幻獣病に罹ったとして、この先変身することになる動物を定めるかもしれないこと、すなわち青年の言葉が彼女の未来の一つをもしかしたら決定づけるかもしれないという事実に青年は胸の内で少しの喜びを見出していた。引きこもった青年の人生はもはや一人で完結していてこの先誰かに何かに影響をもたらす事など無さそうだったから……。


「何でしょう……?」

「何かな」

「ミツバチ、でしょうか。働き者ですから」

「折角変身してもまだ働くのかぁ~」


彼女は手すりの上で大袈裟に項垂れる。


「すみません」

「いやいいよ。ハチミツ好きだし」

「それは、良かったです」

「んで君はね」

「はい」

「梟」


彼女はこれしかない、とばかりに自信満々に煙草を挟んだままの二本指をビシリと青年に向けて差してそう言った。


「梟……」

「そう、梟。賢そうだから。本好きでしょ」

「好きです」

「やっぱり梟だ。梟座ってあんのかねぇ」

「前言った春の大三角の西南に赤い星が特徴的なウミヘビ座があります。あそこです。あれの尻尾あたりの星座にふくろう座と名付けた人が昔いました」

「さすが梟。物知り」

「たまたま知ってただけです」

「君は星座も好きなんだねぇ」


感心したように呟いた彼女に青年はなんだか照れてしまう。だから照れ隠しに彼女に尋ねた。


「灰崎さんは何が好きですか」

「酒、煙草、花。意外でしょ」

「前二つは想定内でした」

「ありゃりゃ」

「花は少し意外です」

「花はねぇ……小学校の近くにある大きめの公園に咲いててね。駅からまっすぐ帰らずにわざわざ寄り道して帰ったりするくらいには好きかな。特に好きなのは沢山の黄色の花の中に混じってぽつぽつ咲いてる白い花。みんな真っ直ぐ凛と咲いててさ。わたし会社で浮いてるから、花頑張ってんなーって感じがして好き」

「……浮いてる?」

「んー、私でき過ぎるからなー」


彼女は腕を伸ばして伸びをしながら青年を笑わせるためにおどけた調子でそう言ったが、青年が今までに彼女から聞いてきた忙しい仕事関連の話や彼女の纏う空気から察するに、彼女が仕事の出来る人間であることはほぼほぼ間違いなさそうだった。


「まあ君曰く私ミツバチらしいし。そりゃ浮くし花も好きだわ」


彼女は目を細めて笑った。


それから夜中。

青年は下はジャージのまま上はパーカーに着替えてフードを被りスニーカーを履いて玄関から外へと出て行く。通行人が誰もいない寝静まった夜の街を青年が一人歩いていく。

深夜の散歩は習慣だった。

外の世界と完全に断絶されるのを恐れた青年はこうして人のいない真夜中にこっそりと外へと繰り出すのである。

横断歩道の上の信号が律儀に色を変えていた。青年はその横のコンクリの道の上をゆらゆら横断していく。野良猫同士が距離を取って毛を逆立てて威嚇し合っていた。その間を我関せずと抜けていく。

いつもなら当てもなくふらふらと歩いて満足したら帰るのだが、今回は目的地が定まっていた。公園。彼女の言っていた小学校の近くの公園に咲く花を見てみたくなったのだ。

やがて辿り着く。

広葉樹林が幾つも並ぶ大きな敷地の公園で中央には広大な芝生の広場があって公園の入り口からそこへと繋がる曲がりくねった道の両脇には色とりどりの花が植えられている。彼女が言っていたのはそこに咲く花のどれかの事だろう。青年は曲がりくねった道を歩き始める。記憶では昼間は子供たちのはしゃぎ声で満たされるこの公園も今は風に揺られて木の葉の木々が擦れ合う音と春の虫の賑やかな鳴き声が響いている。しばらく歩いて立ち止まった。道の両脇に黄色い花が咲き並んでいてその中に白い花がぽつぽつと咲いていた。

夜行性の花らしい。黄色い花たちは花弁を閉じかけているがその白い花々は花弁を開いて茎を伸ばして凛と咲いていた。

月光を浴びて輝くその花は綺麗だった。

青年は彼女の姿を自然と重ねた。青年が彼女と会う時は決まって夜でその横顔はいつも月に照らされていて美しいから、似ていると思った。

独りで堂々と咲く花。彼女が勇気づけられる花。

美しいと思った。羨ましいと思った。




その日の夜の彼女は今まで見た中でも一番疲弊していた。手すりに全体重を預けていてもたれ掛かっているというより溶けているという表現が似合う程に疲れている様子で、それでも煙草は吸うのだからヘビースモーカーの鑑だった。


「お疲れですか」

「うん」

「お疲れ様です」

「んー」


酒も飲んでて酔ってもいた。


「今日の仕事はきつかったよ……」

「そうなんですか」

「溜まっていた仕事を片付けて久しぶりに定時で上がれると思っていたら“要領の良い君ならこれもいけるでしょ暇そうだし”とか言ってあのクソ上司そこそこの量の仕事押し付けてきやがって……。暇じゃねーんだよ。帰るんだよ。あれ絶対嫌がらせだよ」

「それは、可哀想ですね」

「うん。だから苛ついたから今日中に終わらない量を今日中に片してまだ仕事してた上司の横を通って終電で帰って来てやったわ」

「頑張ったんですね」

「そうだよ。お姉さん頑張ったんだよ。もっと褒めてくれよ」

「灰崎さん凄いです。立派です。よく頑張りましたね」

「あー君の言葉沁みるー」


彼女は間延びした声でしみじみ言う。

アルコールが入っているからだろうか、ここまで愚痴るのは珍しい。同時に彼女に心を少しでも許してもらえている気がして青年は嬉しかった。


「こんな頑張った私なのにもっと悲しいことがあったんだよ」


月明かりの下でも分かる赤ら顔が続ける。


「この前言ってた公園の白い花、それが何本か抜かれててさ」


「そりゃ黄色い花に混じってて邪魔だと思われたのかもしれないけど」


「私は好きなんだよなぁ……」


彼女は酷く悲しげな声色で嘆いた。




その日の夜明け前。青年ははっと目が覚めた。肌寒さを感じたためだったが、身体を見下ろせば布団を掛けておらず身体の横にどかされていて、網戸から入り込む冷たい風が首を撫でていた。布団の代わりに鳥の灰色の羽根が服やベッドの上に散っていた。仰向けのまま膝を立てると足裏に違和感があって触ると砂が付いていた。

不思議に思う。

寝相はそこまで悪くない。

鳥は飼っていない。

部屋に砂は当然撒いていない。

ふと、鼻腔をくすぐる甘い匂いを感じた。花の香りだった。

芳香剤は部屋にない。

青年は立ち上がって匂いの元を辿り始めた。狭い部屋だからすぐに分かる。クローゼットだった。

開ける。

花。花。花。白い花。突っ張り棒にハンガーに掛けた服の下の空いたスペースに白い花が束になって落ちていた。それを見た青年の表情に驚きはなく、ただ無表情のまま深く息を吐いた。


翌日の朝、青年は箱に入れてベッドの下に収納していたビデオカメラを引っ張り出した。父が昔趣味で使っていて今はもう使わないからと青年に譲ってくれた長時間録画が可能なビデオカメラだった。それを部屋全体が映るように本棚の一番高い所に置いて夜の間だけ数日録画した。

寝て、起きて、見直す。

ベッドの上で寝息を立てていた青年が突然むくりと上半身を起こす。そのままベッドから立ち上がってゆらゆらと裸足のまま玄関の扉を開けて外へと出て行く。数十分経って玄関の扉が再び開く。そこに、不気味な異形が立っている。体は青年だが頭は鳥だった。真ん丸な顔の輪郭、白目の無い真っ黒の大きな穴のような二つの目、曲線を描く黄色い嘴、その顔が180度回転して逆さになっている。

まるで、梟のように。

さらに腕には灰色の羽毛が生えていて、その両腕が大量の白い花を抱えていた。公園で見た白い花だった。異形はそのまま部屋へと上がりクローゼットの中に花を押し込んで閉めると、何事も無かったかのようにベッドに横たわった。

顔や腕が元の青年の姿に戻った。


ふぅ。


青年は事実を受け入れるように深く息を吐くと、


「やっぱり僕か……」


そう呟いた。



「最近は公園行ってるんですか」

「え、行ってるよ」

「花、どうですか」

「うーん、今まで行く度にどんどん花減っててさマジかぁって思ってたけど、ここ数日は止まったね」

「そうですか」

「酷いクマだね」

「徹夜で小説読んでて」

「ふーん。程ほどにね」

「はい」

「小説ならドストエフスキーとかお薦めかなぁ」

「罪と罰は引き込まれますよね」

「あの人、愛煙家だから」

「え」

「愛煙家だからお薦め」

「……はい」


明かりはついていない。窓から差し込んだ月光だけが部屋の中を淡く照らしている。

床には眠気を晴らす効能を全面に押し出している栄養ドリングの空き瓶が無造作に何本も転がっていて、虚ろな目をした青年は壁にもたれ掛かって座り月明かりの照らす床をぼうっと見つめている。

ここ数日眠っていなかった。

眠ると梟になってしまうから。

ただ起き続けているのは流石にそろそろ限界で瞼は酷く重く視界は瞼の裏の暗闇と自室の風景を断片的に繰り返す。霞んだ意識を埋めているのは自己嫌悪だ。

何も生産性の無い社会の屑があろうことか好きな女性の好きなものを奪って悲しませていたのである。しかもその理由が、彼女に好きと言われる花に嫉妬したから。そして黄色い花の中で嫌に目立って咲く異端な白い花が会社に決して馴染めなかった自分と重なって嫌悪したから。気に入らなかったから、奪って、クローゼットに隠した。そんな一時の感情に身を任せた行動は幼い子供のようで理性の成熟した大人がするのは恥ずべき行為に他ならない。みっともない。しかも自分はただでさえ引きこもりで消費するばかりで生きている価値の無い人間なのに人や物に迷惑をかけ始めたらいよいよ生きていてはいけない。死ぬべきである。


死のう。


青年はそう思い立って立ち上がった。

クローゼットを開ければ自分の身長よりも高い位置を通る、壁に直接打ち付けられて固定された突っ張り棒があってそこには既に首吊り用の縄が宙に輪を描いて垂れていた。前々から何度も計画してきた癖に、その度に天気が良いからだとか翌日がゴミ出しの日だからだとか兎角言い訳をしてたまたま実行してこなかっただけのことだ。今までは「死んだ方が楽になれる」だったが今は「死ななければならない」なのできっと死ねる。待ち望んだきっかけが訪れたのだ。

ハンガーで掛かっていた服は全部畳んで棚にしまった。クローゼットの下に散らばってる花はそのままにした。花と屍は合う気がしたから。

青年はちょっとした踏み台を用意してクローゼットの中に置き、登った。視界の左右はクローゼットで塞がれていて前方には月を映す窓が見えて瓶の散らかった部屋が見えて何より目の前には縄がある。後は首に縄をかけて踏み台を蹴とばせば、終わりだ。

首を縄に近づけていく。

心臓の鼓動が早くなり心拍音がうるさく鼓膜に鳴り響く。手が震える。

首を縄に乗せる。

瞳孔が開く。全身の血流が激しさを増す。鼻息が荒くなる。

感情はぐちゃぐちゃ。

恐怖、喜び、悲しみ、安らぎ、憎しみ、恍惚……。

最後に浮かぶのは、彼女の顔。


「なにやってんの」


聞きたかった声を、聞いた。

はっと意識を現実に戻せば目の前に微笑を浮かべた彼女が立っていた。幻かと思ったが、彼女が蹴った足元の瓶が他の瓶とぶつかって甲高い音を立てたので現実と知った。心臓の音がうるさすぎて彼女が部屋に入ってきたことに気付かなかったらしい。


「なにやってんの」


彼女が同じ声色で問いかけてくる。それは奇しくも初めて彼女に会った時の言葉と似ていた。

青年は彼女の言葉で自分が自殺の途中であることを思い出し、だから最後だから言わないと、という意識が働いて勝手に口が言葉を吐き出し始めた。


「あ、あの!僕引きこもりで!尿と糞と時々精液を出す生ごみですっ!!仕事の出来ない社会不適合者の屑ですっっ!!」


青年は我ながら情けなくて気付けば涙を流していた。


「花を抜いたのも、僕ですっ!幻獣病で梟になってえ!花に嫉妬してぇ!貴方を傷つける生きてる価値の無い動物ですぅぅっ!!」


この期に及んで彼女に嫌われる恐怖に慄きながら罪を白状した。


「それと、ええとっ!貴方が大好きでしたぁぁっ!キモいと思いますがぁ!貴方の笑った顔とか掠れた声とか揶揄うのが好きな所とかっ、全部、好きでしたぁぁぁっっ!!」


涙と鼻水を垂れ流し顔を真っ赤にしてする告白には恥も外見もない。


「あ、あ、あ゛のっ……え゛っと……さ゛よ゛う゛な゛ら゛ぁ゛」


青年は、精一杯の笑みを浮かべながらその言葉を絞り出し踏み台を蹴り飛ばそうとした。

だが、青年の足が台から離れる寸前。

彼女が飛び込んできて、青年は彼女に抱き留められる形でクローゼット下の床に倒れ込んだ。


「そんな寂しいこと言うなよな」


柔らかな胸元に抱きしめられながら耳元でそう囁かれた。

鼻腔をくすぐる仄かな煙草の香りに、安堵を感じた。

同時に、青年は自分を罵った。

どこまでも情けない。

わざわざ玄関の扉の鍵を開けておいて、いつもならベランダで彼女と話す時間をわざわざ選んで、自殺をしようとした。


最初から彼女に助けてもらうことを、僕は、期待していたんだ。



その後すぐに彼女は自前の黒い車の助手席に青年を乗せ自身はハンドルを握り、とある個人病院を目指した。彼女曰く、そこの医者は日本で一番幻獣病に詳しい、らしい。

車内には殆ど物が置いていなくて、爽やかなミントの香りが漂っていた。取材に同行する同僚とか先輩を乗せるときに煙草の匂いがすると嫌がられるから、らしい。

時速60kmで走る車。

窓の外の流れゆく夜景を見つめながら助手席にもたれ掛かっている青年は強烈な眠気に襲われている。時々眠りの世界に落ちかけては、はっと慌てて顔を上げて意識を保っている。

それを横目で見た彼女はふっと笑う。


「眠かったら寝てもいいよ」

「僕が途中で眠って梟になってしまったら、灰崎さんを襲うかもしれません」

「梟にシートベルトが突破できるとは思わないけどなぁ」

「梟は賢いと隣の住人が言っていました」

「大丈夫。いざとなったらこのスタンガンで一発だから」


そう言って彼女は片手でハンドルを握ったまま、もう片手で助手席と運転席の間にある小物入れに収まるスタンガンを得意げに叩いて示した。だが、たとえ武器があろうと彼女の身に危険が及ぶことに変わりはない。青年は意地でも眠るわけにはいかないと気を引き締める。眠らないために、口を開く。


「先程は、情けないところを見せてしまいすみませんでした」

「確かに。本気で号泣する大人を生で見たのは久しぶりだったよ」

「お恥ずかしい所をすみません」

「謝らなくて良いよ。そこまで曝け出してくれたのは私に嘘を吐きたくなかったってことだよね。嬉しかったよ。告白もされちゃったし」


彼女お得意の揶揄いに青年は何も言えず気恥ずかしくて俯く。


「君があんなに情けないところを見せてくれたからさ。私も情けないところを見せてあげるよ」


そう言って彼女は左手でハンドルを握りながら右手で左手の長袖を肘あたりまで捲り上げた。そうして右手にハンドルを握り変えて、左の手の平を上に向けた状態で左腕を青年の前に差し出す。青年は目を見開いた。手首から肘にかけて大量の切り傷が刻まれていた。しかもその中にはまだ塞がっていない真新しい傷もあった。


「リストカットって知ってる?」

「自傷行為ですか」

「そう。仕事でメンタルいかれ過ぎるとリスカしたりとか、睡眠薬大量に飲んで死んでやろうかって気持ちになんだよね」

「それは……」

「病んでんだわ、私。結構前から」


彼女はあっけらかんと冗談を言うみたいに笑いながら言った。でもその切れ長の目は一切笑っていなかったら冗談ではないのだと青年には感じられた。彼女はそう言えば記憶にある限りいつも長袖だった。


「意外でしょ。煙草ばっか吸ってちょっとだらしないけどクール系な隣のお姉さんが実は病んでるっていう」

「いえ、そんなことは」

「君の前ではさ。そんなカッコいい大人の女性って感じでいたかったんだよね。どうやら君のタイプっぽいし」


揶揄ったのは多分本音を言ったのが恥ずかしかったからだ。彼女は左手をハンドルに戻す。


「でも最近は自傷欲求も大分減ってたんだよね」

「なにか気分が上向きになることがあったんですか」

「君と話すようになったから」

「え」

「君と顔を合わせるようになったから」


彼女は前を向いたまま続ける。


「まあ、うん。恥ずかしながら私も君の事好きなんだよね。だからさ、リスカとかするときも、ここで死んだら君ともう喋れなくなるなーとか揶揄って顔を赤くするところ見れなくなるなーって思うと大分傷浅めで済ませたりするし、キスとかその先とか出来るまで絶対死ぬわけにはいかんなーって感じなる訳だよ」

「……そうだったんですか」

「そうだったんですよ」


だからさ、と彼女は言って左手を伸ばして青年の頭にぽんと優しく乗せた。


「生きてる価値ない、なんて悲しいこと言わないでよ」

「……」

「生きてるだけでいいよ。生きてるだけで君は私を救ってくれているんだからさ」


わしゃわしゃと撫でられて青年は堪らずに胸の内から熱い衝動がこみ上げてくるのを感じた。

生きてるだけでいい。

多分ずっと欲しかった言葉だった。それを彼女がくれた。嬉しかった。

それでも、情けない姿を既にさっきは見せてしまっていたので、青年は唇を強く結んで泣くのだけは必死に堪えた。


青年の呻き声と鼻を啜る音が、静かな車内に響いていた。

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