ペットに愛される

地下闘技場は異様な熱気と興奮に包まれていた。

中央には巨大な鳥かごのように鉄の折で囲まれた脱出不可能の特設リング。それを取り囲むようにぎっしり並べられた観客席を埋めているのは仮面で素顔を隠した貴族をはじめとする高貴な身分の人間たち。ここは表社会とは隔絶された上級市民の裏の娯楽場。

熱狂する彼らの視線を釘付けにしているのはリング上で繰り広げられている死闘だった。

丸い獣耳を生やし曇り空の切れ間から差し込む光の様に美しい金色のショートの髪を揺らす頬の黒い三本線が特徴的なタンクトップ姿の獣人の女が体高4mに達しようかという筋骨隆々な化け物じみた黒い犬『ケルベロス』と対峙しているのである。この犬は特性筋肉増強剤入りの人肉を幼少時より与えられることで人間の美味さをすっかり覚えこまされ人間を襲わせる調教を徹底的に施された対人専用の怪物だった。実際に今まで何人もの挑戦者の命を喰らっている。一方で女は無敗の挑戦者。虎の血が流れる彼女は強靭な手足と骨まで噛み砕く破壊的な顎で今まで主催側が用意してきた数々の化け物を葬って来ていた。

怪物同士のデスマッチに観客は血をたぎらせる。


「バウゥゥッッ!!」


ケルベロスが後ろ脚を蹴って飛び掛かり勢いそのままに女に噛みつこうとした。しかし女は後ろに飛びのいてそれを避け、閉じられた巨大な口は空間を虚しく噛んだ。女の肉を味わえなかったことに腹を立てたケルベロスは鋭い歯を剥き出しにして唸り、再び女に飛び掛かる。


ガウッ!  ガウッ!! ガウッ!!!

   ひょい   ひょい    ひょい


避ける。避ける。身を捻じって身体を反らし女は噛みつきを躱して見せる。それもケルベロスの顎が勢いよく閉じて鋭利な歯に噛み潰される寸前で連続で見事に避けるものだから観客は歓声を上げざるを得ない。

これはパフォーマンスだ。命懸けの戦いの最中でも女は観客を楽しませる余裕がある。他の挑戦者なら失禁しながら逃げ惑う醜態を晒すのが常であり、その点余裕を見せている彼女は別格である。汗一つかかずに口角を上げている彼女はケルベロスと睨み合いをしながら後ろ歩きでリングの外周を囲む鉄柵へと近付き、柵の僅かな隙間から外にいるスタッフの手によって後ろ手にマイクを受け取る。


「人間を貶め、見下ろし、見下すのが大好きな高貴なる身分の方々、こんにちは。丸めた札束を幾らケツ穴に突っ込んでも決して満たされることのない皆さまの可哀想な身体に本日も極上の興奮をぶち込んで野郎と思います。喜べ腐れ外道ども」


品性の欠片もない彼女の煽りを聞いて観客席から歓声が上がる。本来ならば捕らえられてもおかしくない程に失礼で下品な発言だが、実際に彼女は今まで何体かの化け物を沈めて観客を喜ばせているし、敗北したら敗北したらで生意気な口を叩いた女が無惨な肉塊に変わる様子を楽しめるので、わざわざ腹を立てる客もいない。何よりこの場では品性も倫理も価値観も全てが地に落ちている。気にするのはナンセンスである。

目を細めた彼女はケルベロスにも言葉をくれてやる。


「おい犬っころ。アタシが魅力的過ぎて盛かっちまうのは分かるけどよぉ、襲うのはヤメといたほうがいいぜ?どうせアタシに負かされて無様で退屈な姿を晒すのがオチだ。どうせ負け犬になるなら芸でもやった方がよっぽど楽しませられるんじゃねえの?。ほれ、言われた通りにやってみ。尻を床につけて二本足で立って……」


「ち ん ち ん」


心底馬鹿にしたような口調ではっきりと放たれた彼女の言葉に観客席では爆笑が起こった。容姿の優れた女の口から卑猥な単語が飛び出たという可笑しさもあっただろう。彼女はお構いなしに連呼する。


「ほら、ちんちんだよ。ちんちん。知らねーの?ちんちん。ああ、脳筋過ぎて分かんねーかなちんちん。それともインポか?玉無しワンコがよお」


観客は腹を抱えて笑っている。

女は面白そうにニヤニヤしている。

ケルベロスは言葉を理解できていない。

だが馬鹿にされていると言う事は存分に伝わったらしい。

毛を逆立て顔を歪ませ歯を剥き出しにし、


「バウッッ!!」


場内を振動させるほどに大きく野太く威圧的な鳴き声を放った。

静まり返る観客。

彼女は左手の平を上向きにして差し出し、目を三日月のように細めながら呟いた。


「お手」

「ガウウウウウゥゥゥゥゥッッッ!バウゥッッ!!!!」


とうとうブチ切れたケルベロスが床を蹴り飛ばし疾風の速さで駆け出し女との距離を詰めた。女が柵の隙間から腕を伸ばしてマイクをスタッフに返したときには既にケルベロスは女に飛び掛かっており鋭利な爪の生えた巨大な両前肢が肩に触れようようとする寸前だった。

観客は死の瞬間を期待して歓声を上げた。しかし、女は捕らえられる気など更々なかった。

前に、走った。走ってスライディングをして巨体の股の間を潜り抜けケルベロスの背後へするりと現れた。湧き上がる観客。ケルベロスはすぐに振り返って首を伸ばし噛みつこうとした。


ハグッ!! ハグッッ! ハグッ!


やはりそのおぞましい牙が女を潰すことは出来ない。女が紙一重の所で身体を掠めさせながら軽やかに避けていく。

しかし先程と違うのはじわりじわりと後退を続けて遂には外周の柵にまで追い詰められてしまったことだろう。退路が無くなったのだ。女は背中が柵に触れた瞬間後ろに振り返って目を見開き驚愕の表情を浮かべた。

油断したな、と観客たちは嘲笑い、瑞々しいその身体がトマトのように真っ赤に潰れるその瞬間を今か今かと待ちわびる。ケルベロスも勝利を確信して口の隙間から涎を垂らし女をじっと見下ろした。女は敗北を認めるように膝を折って頭を垂れた。

……だから。

誰も気付くことは無かっただろう。

ケルベロスが大きく口を開けて御馳走にかぶりつこうとしたその瞬間、女が笑みを浮かべたことに。


ガウッ!


シュっ


女が、消えた。

否、飛んだのだ。鋭い歯が身体に触れる間際に強靭な脚力で床を蹴って飛び跳ね天井を覆う柵へと飛び付いた。女は蝙蝠のように柵に足をかけてぶら下がる。ケルベロスは女の静から動への余りにも俊敏な動きにその姿を見失い、きょろきょろと慌てて周りを見渡していた。


「全く、これだから犬は嫌なんだ」


髪を逆さにして冷たい視線でケルベロスを見下ろしながら彼女が口を開く。


「見下されることが身体に染み付いていて地に縛り付けられていて上を見上げようともしない。でも猫は違う。アタシは自由だ。重力から逃れることが出来るし、馬鹿なお偉いさん共を楽しませてやることもできるし、お前を喰ってやることもできる」


女は舌なめずりをして呟く。


「いただきます♡」


女は天井の柵を蹴飛ばし弾丸のような速度で落下し勢いそのままにケルベロスの太い首元にかぶりついた。


ん゛む゛う゛う゛ぅ゛ぅ゛っ゛っ゛


歯を喰い込ませやがて首を振って肉を噛み千切る。


きゃいいいいんっっ!?


ケルベロスは子犬のように甲高い悲鳴をあげて暴れ回るが首元の皮膚に10本の爪を深々突き刺している女を振り落とすことは出来ない。女は何度も何度も肉を噛み千切っていきやがて、太い血管を切断した。


ぶしゃああぁぁぁ……


巨体を激流のようのように流れていた血液が血の噴水を上げてリングが真っ赤に染め上げられる。やがてその上に事切れたケルベロスの巨体が倒れ、血に濡れた女だけが天を向いてリング上に立っていた。


「ガオオオオオオオォォォォォッッッ!!!」


勝利の咆哮が場内に響き渡る。

観客は熱狂の渦に包まれ怒号のような歓声を上げた。






控室の廊下奥にあるシャワー室で身体の血を洗い流しショートパンツにTシャツというラフな格好に着替えた彼女は、壁を隔てたメイン会場で依然として行われている誰かと怪物の試合の歓声を遠くに聞きながら、受付や掛け金の受け渡しなどが行われているエントランスホールに向かった。帰るためである。帰れなかった。

獣耳に金色の髪に頬の黒い三本線に尻尾に屈強な体格……虎の血を引く彼女の容姿はよく目立ってしまうので、先程の試合を見ていた観客だろう如何にも高価そうな上品なスーツに身を包んだ出待ちの人々の群れに見つかり、すぐに取り囲まれてしまった。


「さっきのは痺れたぜ」「やっぱり怪物だよアンタ」「素晴らしかったわ」「逸材だ」


本来はプライドの高い筈の貴族たちから惜しみない称賛の声を次々と投げかけられる。

それ程までに彼女の試合は観客を魅了したのだ。


「私のペットにしてやってもいい」


両脇に美女を侍らせた白スーツの恰幅の良い初老の男が言った。その言葉を聞いて周りの人々も慌てたように口々に続く。


「いや僕のペットの方が相応しい」「私のペットになるべきだわ」「俺のところに来なさい」「私のペットになるに決まっている」


女は呆れた目でギャラリーを見ている。

ペット。

この地下闘技場では重要な意味を持つ単語。

リング上で化け物との戦いに挑む挑戦者はフリーとペットに二分される。フリーは主催側が奴隷商から仕入れた奴隷で、大抵はリング上で無条件に化け物と闘わされて命を散らす。しかし運良く勝利を重ねられれば観客の誰かに注目されやがて商品として買われる。主催から別の買い主へと商品の所有権が移る際は主催お抱えの闇魔導士による契約魔法が商品と買い主との間で結ばれることになる。

3つだけ、買い主は商品からの条件を呑まなければならない。その契約が成されれば晴れて商品はペットとなり買い主は飼い主となれる。

条件さえ守れば、飼い主は強く念じるだけでどんな命令だってし放題だ。ボディーガードから暗殺から性的奉仕まで。おまけにペットを挑戦者としてリングに上げた場合、敗北すれば飼い主は掛け金はそのまま失うが見事勝利すれば掛け金の三倍の報酬を手にすることが出来る。地下闘技場は貴族の娯楽だ。億が動く。

だから皆、強いペットを欲しがる。

彼女に群がる人々は口々に我が物顔で所有権を主張した。

常に何事も奪い取って生きてきた傲慢なる貴族たちは彼女が他の誰かのペットであると言う事を想像すらしていない。愚者ども。彼女は既に飼われているというのに。


「条件!条件は何だ!」


誰かが言った。それは彼女を買うのに最も重要な情報であったため、騒がしくしていたお歴々は一気に静まり返り耳をそばたてた。女は面倒そうに息を吐いてギャラリーを見渡しながら脳裏に女の飼い主である男の顔を思い浮かべ、緩やかに口角を上げ、その男とした契約を思い出しながら言葉を発した。


「一つ目。肉を好きなだけ食わせてくれる事」

「「「……!!!」」」

「アタシの主食は肉だ。肉が食えない人生なんざ生きてる価値が無え」


彼女の言葉を聞いてギャラリーは湧き上がる。金持ちだから肉はいくらでも用意できる。


「二つ目。試合後には交尾に付き合う事」

「「「……!!!」」」

「死を懸けた戦いの後ってのは興奮で身体が燃えるくらい火照っちまうからよお。アタシが満足するまでたっぷり交尾に付き合ってもらうぜ。もちろん発情期は毎日だ」


ギャラリーはさらに湧き上がる。目の前の女はこの上なく強く気高く美しい。彼女の魅力は男女関係なしに虜にする故、身体を重ねさせろなどとは褒美と大差ない。

ここまでは大して難しくはない条件。


「そして三つ目」


そして、三つ目。


「もしも気に喰わない命令をしたらアタシに食い殺される事」

「「「……⁉⁉⁉」」」


……ギャラリーは一気に静まり返り一同青ざめた顔をした。

当然だ。鳴いている野良犬を眺めていたら突然に首元に鋭い歯で噛みついてきたのだから。

彼女だけは邪悪な笑みを浮かべている。


「あれ、急に静かになってしまって皆さまどうかされたのですかぁ?」


わざわざ丁寧な言葉遣いで厭味ったらしい口調で愉快そうな表情で彼女は煽った。

するとギャラリーの中からスーツを筋肉でパンパンに膨らませた筋骨隆々な男が女の前に出てきて眉を顰め陰険に睨みつけながら怒鳴り散らした。


「どうもこうもねえよクソあまが!」


威圧的な態度。権力と暴力で人に言う事をきかせてきたのがよく分かる彼女が最も軽蔑する脳筋タイプの男だった。


「そんな無茶苦茶な条件が通るかよ!ええ!?」

「いやあ、アタシもガキじゃない。ペットになれば大抵の命令には従うぜ。炊事、掃除、洗濯、犬の散歩に屋敷の護衛。脳筋ゴリラの着替えを手伝ってやったっていい」

「そんなメイドみたいな仕事いらねえんだよ!!」

「ああ、つまり何かい?表社会に明るみになっちゃまずい私利私欲を満たすための低俗で浅ましい行為の駒にでもしようってのかい??ほー」


彼女は分かってて煽っている。ペットの使い道はむしろそっちが主流だ。足のつかない戦闘力に優れたペットは荒事によく向いている。


「そういう命令はだるいなぁ。ご主人様を喰っちまうかもなー」

「ちっ!さっきから言わせておけば飼われる身分のくせに随分と生意気じゃねえか!自分の立場を分かっていやがらねえクソあまがよお!!」


男が声を荒げ、周りのギャラリーも同調するように騒いだ。


「ならどうする?」

「拉致して独房にぶち込んで闇魔導士よんで銃突きつけて拷問して契約魔法結ばせてやる!三つ目の条件は“ご主人様はどんな命令でもペットにすること”。どうだ最高だろ?」


下卑た笑みを浮かべ自信満々に放った男の言葉に彼女は思わず噴き出した。


「ふっ。ふははははっ。いいねー。素敵な冗談だ。頭が悪くて最高だ!」

「ああんっ???」

「人間だったらそのやり方で良かっただろうけど、生憎アタシは化け物だ。そんなんでアタシに首輪を掛けようとか舐めすぎだぜ、ゴリラ野郎」

「はああんっっっっ??????」


男はこめかみには青筋が浮かび、今にも爆発寸前だった。もしも怒りに身を任せ殴りかかってでもして来たらあっさり腕を肩から噛み千切ってそのまま後ろに回り込んで蹴り飛ばして床と同化させてしまうだろう。しかしそれは彼女にとって望まない展開である。エントランスホールでの揉め事は厳禁。このルールを犯せば女がリングに上がるのを許されなくなる可能性は勿論、彼女の飼い主にも迷惑が及ぶ可能性があった。それは女は望まない。だから女は男を宥める努力を試みる。


「まあ、逆に考えてみろよ。アタシが飼い主から受けた命令に従うかどうかってのは飼い主との関係性次第だ。仮にアタシが飼い主に惚れ込んでご主人様の事をしゅきしゅきだいしゅき愛してるーってなったらご主人様に喜んでほしい一心できっとどんな命令にも従うぜ。有力貴族の血族を女ガキ年寄り一人残らず皆殺しにしろかとか、裸でリングに上がって化け物の相手をしろとか、後はそう……」


「この場にいる奴らを全員ぶっ殺せ、とかな」


再び静まり返ってしまった空気。

それを


「カ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ッ゛ッ゛ッ゛!!!」


虎の血が流れる女の咆哮が切り裂いた。


「「「ひいい!?!?」」」


周りのギャラリーたちは情けない悲鳴を上げ彼女の目の前にいた男などは、くだらない命令をして体を噛み千切られる場面を想起してしまったのだろう腰を抜かして地面にへたれこみ、高そうなスーツのズボンの股の間に小水の染みを広げていた。その姿はもはや粗相するチワワと変わりない。

彼女は特大のため息を吐いた。


「全く、アタシを惚れさせてアタシに愛される覚悟のある奴はいねえってのか。情けねえ」


彼女はそう言い捨てて視線を遠くの出口の方へとずらした。

視線の先では目立たないように気配を殺して壁際に立つ、掘りの深い顔立ちの理知的な冷えた目をした男がじっとこちらを見ていた。

女はニヤリと笑った。




防弾仕様の黒い高級車が夜道を走っている。

前席にはハンドルを握る運転手、後部座席には並んで座る女と男。女は男の右肩に顎を乗せ足を軽く蹴りながらダル絡みしていた。


「お~い~。なんでさっきは黙って見てたんだよ。出て来いよ」

「行けるわけないだろ。あの時お前の周りにいたのは銃の王とか呼ばれる銃の流通の支配者グッディ家の当主とかヴァンパイアハンターを生業としているアルデウス家の当主とか敵に回すとヤバめの権力者ばっかりだ」

「だからこそじゃねーか。いい加減、“この女自分のモノに出来るかも”みてーな勘違い野郎どもの視線うぜえんだよ。アイツらの前に出てきて“この美人で強い女は俺のペットです近付くなクソ共”って中指立てながら自慢しとけよ」

「そんなことしたら俺の命を狙う輩の数が数十倍に膨れ上がる。お前のファンって奴は滅茶苦茶いるんだからな。バレてない現状でも色々襲われてやばいってのに」

「その為のアタシだろ?全員ぶっこ殺してやるよ」

「わざわざリスク増やす必要もない」


血の気の多い彼女の言葉を青年が静かに流す。

青年は一介の酒売りに他ならない。ただ才能だけはあったようで神の涙とも形容される程に美味い酒を作り、売って、財を為し、今は若くして作った巨大商会のトップである。なんせ彼の酒は莫大な金を容易に動かすので、うちにだけ卸せだとか酒の造り方を教えろだとかお得意様の情報を売れだとかで、脅迫・拉致・拷問・殺害を目的にあちこちから襲撃を受ける。そこで女に声をかけた。女としても一番早くに声を掛けられたから首を縦に振っただけだが、彼のペットという立場は今は大分気に入っていた。


「相変らずビビりだねぇ、御主人様は。脳筋だと馬鹿になるけど賢いとビビりになっちまう」

「何とでも言え」

「馬鹿、アホ、腰抜け、雑魚、軟弱、玉無し、負け犬、淫乱、酒カス」

「もういい。もういい。聞いてて悲しくなる」

「否定しねーんもんな。全く、風格が足んねえぜご主人様よお」


彼女は呆れながら言うと、男の膝の上に身体が向かい合うようにして跨った。そのまま口を男の耳元に寄せる。


「たまにはご主人様としての威厳を見せつける様にカッコよく命令してみたらどうだ?」


囁き声が鼓膜を揺さぶる。


「何する?お手?お座り?ちんちん?」


言いながら彼女は顔の位置をゆっくりと下げて言って、口を開け、首元に食らいつくようにわざとらしく歯を当てる。

鋭い眼光だけは男を見上げていた。

化け物の首を容易に食い千切る歯を人間の弱点である首に向けられて男は恐怖を感じずにはいられない。

試されているのか。脅されているのか。

男には分からないが次の言葉は決まっている。


「首を噛むな」


飼い主が命令する。


「嫌でーす♡」


ペットは従わない。

女は歯先を少しだけ首の皮膚に沈めて血を垂らし同時に喉仏をぺろぺろと舐めた。

男が悪いのだ。

これは彼女がよくやる行為で男を殺す気が無いと分っているから本気で命令することは無い。いつもフリだけ。首を噛むのは吸血鬼の特権だと思っていたが、彼女は彼女で、その気になれば薄肉を噛み千切ってご主人様を殺せるという感覚が堪らないらしい。そしてもっと端的に言えば、首フェチで、彼女曰く青年の首はエロいのだとか。つまりこれも、彼女の試合後の興奮を満たす行為の一つなのである。

男はしばらく無抵抗で女に首を差し出し、好きにさせていた。

が、彼女はふと顔を上げ、思いついたように言った。


「そうだ、首輪!首輪買おうぜ首輪!」

「は?」


目を輝かせる彼女に青年は困惑する。


「何だ首輪って」

「ご主人様がアタシに首輪を嵌めてくれたら、わざわざ言い触らさなくてもアタシには飼い主がいまーすって伝わんじゃん!」

「俺の名前は彫らないぞ」

「それでもいい! 少なくともアタシが誰かのモノって伝われば言い寄ってくる奴も減るだろうし! うわ、アタシ天才かよ!」


独りでに盛り上がる彼女が振り返って運転手に指示を出す。


「行き先変更! 地下のペットショップだ! いやアダルトショップか? アクセサリー屋か? いいや、順番に回っていって気に入ったの買おう!」

「おい勝手に」

「買えよな」

「……買うけど」

「んで、その後は家に帰って明日の朝までSMプレイ!うっはぁ!滾るぅぅ!」

「はぁ……」


男は“これじゃあどっちが飼い主だか分からないな”と心の中で呟いた。

まあ、拒否する気もないが。




「ボス、どうしますか」

「こいつの言う通り、行き先変更だ」

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