新入社員が愛される

青年は夜中にふと、目が覚めた。起きた瞬間に、まだ夜が明けるには早い時刻だと感覚で察する。枕元の時計を見れば予想通りアラームが鳴るのは数時間も先の事だった。

仕事の夢を見ていた。

目を開けて寝室を包む暗闇と静寂を目にしたとき、心から安堵した。身体には冷や汗を掻いていてぐっしょりと寝間着が肌に張り付いて不快感を与えていた。

身体が緊張していた。喉が乾いていた。

青年は隣で寝息を立てて眠っている恋人を起こさないように静かに布団から抜け出すと、台所に行ってコップに水を注ぎ、喉を潤した。それからリビングのソファの隅にゆっくりと腰かけて、何も移さない真っ黒なテレビの画面をぼんやりと見つめた。

情けなかった。

新入である青年は、仕事で毎回のようにミスをした。出来る限り気を付けているつもりでもやっぱりミスをした。

先輩社員の中には「新人だから気にしないでいいよ」と優しく声をかけてくれる先輩もいたが、ただ舌打ちをしたり露骨に不機嫌にはなる先輩がほとんどだった。優しい先輩も、青年が廊下を歩いている時にたまたま喫煙所から「あの新人はまるで使い物になりませんねー」といつも優しくフォローをしてくれるその声で面白そうに笑っていたので、自分はこの会社で誰の役にも立てていないのだと自分を責めた。

恐かった。

青年の教育係となった先輩社員は正論に皮肉や嘲りをたっぷりと乗せて、毎度言葉の銃弾を青年に浴びせた。「こんなことも出来ないんだね」「お前はほんとに無能なんだね」と言った。言葉を受ける度に心が傷つくのを感じたが、”悪いのはやらかした自分だ”、”迷惑をかけた自分だ”と言い聞かせ、だから自分は傷つく権利すらないのだと、自分を批難した。そのうち一つ一つの動作が、それが簡単な作業でさえ、正しいかそうでないか不安になって仕方なくなった。自分では合ってると思っていて自分の字でメモさえ取っていても、もしも間違っていたらどうしようという強迫的な観念に囚われて、仕事をこなす手は鉛のように重くなり作業は遅くなりそれで叱られ、あらためて先輩に確認すれば「これ前も教えたよね?人の話聞いてないの?」と叱られた。

段々報告するのが怖くなって、細かなミスを隠すようになった。ミスが発覚したときは「嘘つくとか人間として終わってるよ」と散々人間性を否定された。

全て自分が悪かった。

自分の手を見つめる。無意識に身体が震えていた。会社に行くことを身体が拒んでいた。青年は暗い部屋の中で心細くなって少しでも安心しようと、ソファの上で膝を抱え、顔を埋めた。濁流のようにこみ上げるネガティブな感情に呑み込まれないようにただ耐えていた。

もう嫌だ。無能。役立たず。ゴミ。無理。辞めたい。馬鹿。諦めたい。


……消えたい。


ぎしりっ。


ソファの軋む音と揺れる感覚で青年は弾かれたように顔を上げた。見れば、少し青みがかった灰色のショートの前髪をまぶたの上に垂らして、優しげな瞳で微笑を浮かべている恋人がいつの間にか隣に座っていた。


「こんな夜中にどうしたの?」


顔を傾けて寝起きの少し掠れた声で彼女が問いかける。


「なにも」


短くそう返して青年は再び膝に顔を埋める。


「なんにもないわけないじゃん」

「……」

「お~い」

「……」


彼女に弱みを見せたくなかった。だから何も答えることは出来なかった。今何か言葉を発すれば、折角心の内に閉じ込めて我慢していたものを全て吐き出してしまうような気がした。彼女に迷惑はかけたくなかった。

しかしそんな青年の想いなどお見通しである彼女は、


「もお、しょうがないなぁ君は」


と言って、青年の肩に腕を回して抱き寄せた。バランスを崩して倒れかかった青年の顔が彼女の首元に埋まる。


「っっ!? 急に、なんでっ」


彼女は青年の抗議を聞いてにやりと笑みを浮かべた。


「別にー。君が抱きしめて欲しそうにしてたから抱きしめただけ」

「……頼んでない」

「そ。じゃあ、離すね」


彼女の腕は呆気なく離れた。


「あっ」


彼女の温もりを失った青年はつい口から物悲しそうな声を漏らした。その声と濡れた子犬のような表情を見た彼女は、堪らないとばかりに顔を紅潮させると、次にはさっきよりもずっと力強く青年の事を抱きしめた。


「んぐっ‼」

「ごめんごめん。冗談だから。ずっと抱きしめてあげるから。だからそんな悲しい顔しないで」


よっぽどひどい顔をしていたらしい。彼女はまるで小さな子をあやすように包み込むような声で言った。


「……子ども扱いしないでくれ」

「えー、子供だよぉ。本当は”もう限界だー、誰か助けてくれー”って思ってる筈なのにいざこっちが手を伸ばそうとすると拒んじゃう。ちっちゃい子のイヤイヤ期みたい」

「そんなこと思ってない」


彼女はため息を吐く。


「残念、分かっちゃうんだよ、私には。君をずっと見てきたんだからさ。君がどんな気持ちなのかとか、嘘ついてるのかなとか」

「超能力じゃん」

「うん。君限定のね。君が人に頼るのがあまりにも下手っぴですぐ一人で抱え込んじゃうお馬鹿さんだから、そんな君を何とか助けたくて身に着けた能力」


彼女は気付けば青年の後ろ髪を手触りを楽しむように撫でていた。青年はもう何も言わなかった。ただ彼女の温かさと柔らかさと、彼女の素肌からする自分にとって何故かすごく心地の良い匂いに包まれて心を落ち着かせていた。


「ねぇ、君にとって私はなに?」

「……恋人」

「そう、恋人。だから君の嬉しいことも悲しいことも全部共有したいって思うんだよ」

「……」

「だから私に訊かせて? 君がなんで悩んでいるのか。私にも背負わせて? 苦しみを半分こ、しよ?」


頭上から優しい声が降る。青年は自然と涙が零れ始めた。安心なのか悔しさなのか涙の理由は本人にも分からなかったが、ただ顔をくしゃくしゃにして彼女に縋り付いてみっともなく泣いた。


彼女はそんな青年の背中を慈愛に満ちた表情でトントンと優しく叩いていた。

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