薬師が愛される

横長の作業台の左のスペースには青い液体の入った細い瓶が蓋をされて幾つも積み重なっていて、右のスペースにはその材料である薬草が大量に置かれている。

中央にはすり鉢。

その前に座るのは眼鏡を掛けた青年。

すり鉢に向かって手をかざしている青年の額からは大量の汗が流れ、表情は苦悶で歪み、歯を食いしばっている。

魔力を送り込んでいるのである。

やがてすり鉢の中に入っていた薬草の緑の液体がぶくぶくと泡立って沸騰し、みるみる青くなっていった。海のように深い青色になったところで彼は腕を降ろす。

ポーションの完成である。


「はぁ……はぁ……」


青年は顔を赤くして肩で息をしている。ポーションを一人分生成するのに消耗する魔力量は火の玉を飛ばすそれよりもずっと多い。にもかかわらず既に青年は今日だけで何十本ものポーションを作っていた。青年はもうふらふらで座っているのもやっとの状態だった。

それでも震える手ですり鉢を傾けて空き瓶にポーションを移し入れる。そしてもう一つ作るために薬草に手を伸ばした。

その時、「おいっ」と背後から圧のある低い声が聞こえて青年は振り返った。

立っていたのは、銀髪で黒いタンクトップ姿の大柄な女性だった。

彼女は鍛え上げられた筋肉の美しい逞しく引き締まった両腕を組んで、青年をじっと睨み下ろしていた。


「お前、いい加減に寝ろ」


彼女は夜更かしする子供を母親が𠮟りつけるように静かにキレながら言った。青年は「ははっ」と小さく笑う。


「まるで夜更かしする子供𠮟りつける母親みたいだ」

「そんな下らんことはどうでも良い。それより、今の自分の顔を鏡で見てみろ」

「え?」

「散々拷問を受けて今にも死にそうな人質の顔をしている」


青年はニヤリと笑う。


「あぁ……医者が死にそうなんて皮肉が効いててなかなか面白いね」

「どこがだ愚か者」


青年の冗談にも彼女は眉一つ動かさない。

事実、青年は心配を掛けまいと口角こそ上がっているがその表情には過度な魔力消費による隠しきれない疲労の色で満ちており、二徹目の彼のまぶたの下には酷い隈が出来上がっていた。根を詰め過ぎているのは誰の目にも明らかだった。


「とりあえず、寝るぞ」


そう言って彼女が促すように青年の肩に手を置くが青年は「ちょ、ちょっと待って」と食い下がる。


「あと一本、あと一本で修道院の子供たち全員分のポーションが出来上がるんだ。そしたら明日の朝には納品できる」

「明日の朝一本作ればいいだろ」

「いやぁ、性格が出ちゃってるのかな。最後まできっちり終わらせないと気持ち悪くて。ね、お願い。この通り。あと一本だけ」


青年はそう言って頭を下げてその頭上に両手を合わせた。

見事なまでの懇願である。

彼女は、そんな青年のお願いする姿をしばらく真顔でじっと見下ろしていたが、やがて根負けしたように深いため息を吐いた。


「はぁ……分かった。一本だけだぞ。それを作ったら寝室来いよ。私は先に寝てるからな」


男は顔を上げると「ありがとう」と嬉しそうに笑い、彼女は「付き合ってられん」と呆れ声で言って、背を向けて部屋を出て行った。

彼女は心配をしてくれている。彼女の言葉が多少荒くとも青年にはそれが分かっていた。

彼女の後姿を見送ると青年は手早く終わらせようと意気込んで、すぐに作業机に向き直った。

薬草を掴む。すり鉢に入れる。すりこぎ棒で潰しながら混ぜる。


ごりごり。ごりごり。


青年は、しばらく薬草をかき混ぜる自らの右手の手元をぼんやりと眺めていたのだが、やがてその手の動きに合わせて視界が揺らめいている事に気付いた。どうやら情けない事には自分の手の動きを見続けただけで酔ってしまっているらしかった。イカれた三半規管は全て疲労のせいである。そうしてヘロヘロになりながらも、どうにか青年は混ぜ切って薬草を緑色の粉状へと変化させた。それで青年は一息つくと、すり鉢の中に水を加えた後に、ゆっくりと持ち上げた左の手の平をすり鉢の中の粉にかざした。

魔力を込める。

泡立つ。

色が段々と青みがかっていく。

ポーション完成に近付いていく。

……と、そのとき。


「あ……」


口から無意識に吐息にも似た呟きが漏れ出て、同時に青年の視界が横へと大きくブレていった。椅子から崩れ落ちる力の入らない身体は浮遊感に包まれ、その刹那で青年はすぐに理解した。


(やばい、魔力切れだ……)


それは魔法を扱う者にとって最も危惧すべき事柄。魔力切れ。体内の魔力が枯渇することは身体を動かすエネルギーを失う事と同意であり、もしもそのような事態に陥った場合人間は、その場で倒れて魔力が自然回復するまで動けなくなってしまうのである。

普段の彼ならそんな初歩的なミスは犯さない。だが今回は、患者のためにと根を詰め過ぎたことが仇となった。体内魔力量を見誤った。

彼は眼前に近付いてくる床に恐怖で顔を強張らせ、咄嗟に目を瞑った。

やがて頭に訪れるであろう強烈な衝撃に備えたのだ。


しかし。


恐れていた衝撃は訪れなかった。

代わりに何か柔らかなものに身体ごと包まれるのを感じた。

目を開ければ、目の前には心底呆れた目を向ける彼女の顔があった。彼女の後ろには天井が見えて、青年は自分がお姫様抱っこされている事にやがて気付いた。彼女が抱き留めてくれたのだ。

青年は恥ずかしそうに笑う。


「はは、面目ない。ありがとう」


彼女は変らずゴミを見る様な目で見下ろす。


「全く、気になったから戻って来てみれば。まだ余裕ぶった口ぶりをしていたくせに、結局こうなるんじゃないか」

「ああ、うん。でもほら、君がこうやって僕を支えてくれていれば僕は動けなくなることを気にしなくて良い分、まだほんのちょっとだけ魔力が送れる。そうすればポーションが完成さ」


そう言って彼は彼女に抱かれた体勢のまま、興味津々な赤子のように腕だけ伸ばしてポーションに向けようとする。しかしその腕は途中で遮られた。


「っ!?」


彼女が青年を肩に担ぎあげたのだ。彼女はそのまま寝室の方へと歩いていく。青年との距離が遠くなっていく作りかけのポーション。青年はもどかしそうに見つめる。


「ああ、もうちょっとなのに……」

「うるさい。お前はとっとと寝るんだ」

「ポーション……」


やがて寝室に辿り着くと、彼女は青年を乱暴にベッドの上に放り投げた。青年は仰向けのまま柔らかなベッドに身体を沈ませ、その上に、彼女がその巨躯で馬乗りして覆いかぶさった。彼女は捕らえた獲物の首を狙う肉食獣のように青年の顔を見下ろしながら告げた。


「そんなにポーションを作りたいなら選ばせてやる」


そう言って、自身が提示する選択肢に合わせて右手の指を順番に突き立てる。


「1つは、体力も魔力も限界を越えていながら無理してポーション作りに励んで憐れにも永眠する。もう1つは、今は私にぐっすり寝かしつけられて明日また良質なポーションを作る。━━ほら、どっちがいいんだ?」


彼女は低い声を震わせて尋ねながら、突き立てた人差し指と中指を、青年の首に、皮膚が少し沈むくらいに押し当てた。

これはもはや脅しである。誤った選択肢を選べばどうなるかを、彼女は細い指先で非常に分かりやすく伝えている。青年はつばを飲み込んで喉を上下させた後に、答えた。


「寝ます、、」

「良い答えだ」


彼女のお気に召した答えだったらしい。彼女はニヤリと笑うと腕を上げるのも億劫な青年の代わりに青年の眼鏡を取って近くの棚の上に置き、自信はベッドの上で青年に寄り添うように横になった。

青年は目を閉じる。

心地の良い布団の柔らかさと彼女の気配。今までゆっくりと距離を詰めてきていた睡魔が隙を見つけたとばかりに脳内に入り込んで意識を霞ませる。どこかへ落ちていく。


「ほら、腕貸してやるよ」


遠くで微かに声がして、青年は目を閉じたまま為されるがままに頭を少し持ち上げ何かの上に頭を乗せた。それは柔らかくて温かくて常に体に触れていて欲しいような安心感を青年にもたらした。そのまま青年は心地の良い暗闇へと意識を沈ませていった。




「ん……んんっ」


彼女は青年の横でゆっくりと目を覚ました。


「……いつの間にか私まで眠っていたのか」


彼女は頭を横に向ける。視線の先では彼女の腕枕に頭を乗せてすやすやと寝息を立てている青年の姿があった。


「ふっ。人の腕で気持ちよさそうに眠りやがって」


彼女は口角を上げながらそう呟く。青年は、さっきまでの”休むことがまるで罪である”とでも言うかのような執着ぶりをすっかり忘れて、ぐっすり夢の世界へと旅立っている。彼女は優しげに目を細めた。


「ったく、お前は頑張り過ぎなんだよ馬鹿。見守ってる方の気持ちも考えろっての……」


言葉とは裏腹に彼女の口調は柔らかい。彼の自分を顧みない姿勢には呆れつつも、病気や怪我で困ってる人を一人でも多く救いたいという彼の精神は素直に尊敬していた。

それから暫らく彼女は青年の寝顔を意味もなく眺めていた。無防備に丸くなっている彼を見ていると彼の恋人なのに、母親にでもなった気分がしてどうにも可笑しかった。やがて青年に誘われるように彼女にも再びの眠気が訪れてくる。うとうと、と眠りに入る前の一番気持ちの良い時間を味わう。

と、その時。


ドンドンドン。


静寂を破るように、乱暴に玄関の扉を叩く音が寝室まで響いてきた。彼女は弾かれたように意識を現実に戻し、”ちっ”と苛立たしげに舌打ちをした。


「誰だ、こんな時間に」


深夜である。

薬を求めて彼に会うために家に訪れる者は数知れないが、それでもこんな真夜中に訪れる者はそういない。彼女は青年を見る。幸いにも彼が目を覚ます気配は無かった。


ドンドンドン。


二度目のノック。

安らぎを邪魔する不届き物は一体誰なのか。

彼女は流石に苛立ちを募らせて、追い返すことにした。そうと決めれば、彼女は慎重に青年の頭の下から自分の腕を引き抜き、大股で玄関へと向かった。


ドンドn

ガチャ。


彼女の神経を逆撫でする三度目のノックが鳴り響く最中「やかましい」と言いながら、彼女は扉を開けた。

果たして、彼女の眼下には皺一つなく仕立て上げられた黒スーツで髪を後ろに固め、丸い銀縁眼鏡を掛けた如何にも執事な男と、祭事に使われる狼の面と黒いマントで身体を覆っていて外見的情報が一切隠されている、しかし腹のでっぱりから肥満体型である事だけが分かる怪しい男が並んで立っていた。背の高い彼女は自然、二人を見下ろす形となる。


「こんな時間に何の用だ」


彼女は二人の男を交互に睨みつける。執事風の男の方が答えた。


「世にも珍しい調合魔法を得意とし、どんな病でも怪我でもたちまちに効き目のある薬を作り出す”薬師のギル”なる人物がこちらにいると聞いて伺ったのですが」

「いるぞ」

「会わせていただくことは可能ですか?」

「無理だ。寝てる」

「そこをなんとか」

「帰れ」


常識を弁えないただの客と判断した彼女は全く取り合おうとはしない。頭を低くして懇願してくる執事を無視して彼女は玄関扉を閉めようとした。しかし驚いたことに扉が締まる寸前、執事風な男がその高価そうな革靴を前に突き出して扉の隙間に挟み込んできたのである。


「どうか! どうか!」

「おい、しつこいぞ。明日にでも出直せばいいだろ」

「それは無理なんです! この方は今日、この時間でしかこの場所に来れないのです」

「意味が分からん。そもそもそこの怪しいのはどういう人間だ。面倒を抱えている奴は始めからお断りだ」

「それは……」


執事風な男が口ごもる。やはり厄介な事情を抱えた人間なのだろう。彼女はそう推測して、さて邪魔な執事風な男の足をどうしようか、砕く勢いで思いっきり扉を閉めてやろうかと思案している時に、


「コルド、もういい」


今まで静観を貫いていた仮面の男が甲高い声でそう言った。そうして一歩踏み出すと、仮面とマントを片手で順番に取り払った。彼女は靴一個分開いた扉の隙間から男の様子を見ている。

露わになる素顔。人を見下すことが染み付いた醜悪な顔は脂肪でぱんぱんで、肉で押し上げられて三日月のように細い目つきをしている。

露わになる身体。豪華な装飾の施された衣服をはちきれんばかりに膨らませる丸い腹をしている。

彼女は「ほう」と僅かに眉を上げる。男の、いや少年の、その姿には見覚えがあった。


「知らない筈はないだろうが、自己紹介をしてやる。僕は、この国の王子”ガルディア”だ!」


王子であった。

彼女が予想外の訪問者に僅かに気を取られている間に、王子は執事に顎を振って指示を出す。執事はまるで王子との謁見を来客に許すかのように、人の家の玄関を全開に開く。王子が前に進み出て、彼女と正面から向かい合う。隣で執事が口を開く。


「ガルディア王子は近頃、息切れや動悸、腰痛などの症状に苦しんでおられます。しかし城内の医師が診ても誰も原因が分からないと言うのです。これはすなわち難病に違いなく、どんな病にも的確な効果を示す薬を作ると噂に名高い”薬師のギル”様に頼ることにしたのです。ですが城内に他所者を呼んで王子の病を診てもらったなどとなれば信用問題に関わりますので、こうしてわざわざ王子自らが夜中にこっそり城を抜け出してこの場に来たのです」


執事が長々と説明するので彼女は”事情は”理解した。病の知識の乏しい彼女にもすぐに分かった。つまり、王子のそれは明らかに典型的な肥満児の症状であるが、真実を告げて王子の怒りを買うことを恐れた医師たちは皆口をつぐんだのである。

難病ではなく、デブである。

彼女はため息を吐いた。

馬鹿に付ける薬はない。

彼女が内心呆れていることにはまるで気付かずに、むしろ自分が王子であることを知って畏怖しているだろうと思い込んで居る王子は偉そうにふんぞり返る。


「まあそういうことだ。だから今すぐに、ギルとやらを起こしてこい!」

「断る」


彼女は全く表情を変えずに断った。これに王子は驚いた表情をする。


「断る・・・だと? お前、今までの話を聞いてたのか??? 僕は王子何だぞ? 偉いんだぞ?? この僕が、わざわざ、ここまで頼みに来たんだぞ!? それを断るだと!?」

「王子だろうが何だろうが知らん。今ワーカーホリックなアイツをやっと寝かしつけたところだ。誰だろうとアイツの休息の邪魔はさせない」

「ふ、ふざけやがって……」


今まで自分に頭を垂れる人物ばかり見てきたのだろう。まるで態度を変えない彼女に王子は少々怯んだようだった。


「そ、それなら金はどうだ。治せるならいくらでも言い値で払おう。1000万ベリルでも1億ベリルでも好きな額を言うと良い。パパが払ってくれる! そうだっ。今ちょうど100万ベリル持ってきてる!」


そうして王子は足元の膨らんだ白い布袋を視線で指し示す。


「これは診察料としてくれてやる。これだけでもただの庶民が10年は食うに困らない額のはずだ。どうだ、欲しいだろ! 欲しいはずだ!! さあ起こしてこい!!!」

「断る」

「な、なら宝石か!? 豪華な服か!?」

「いらん」

「じゃあ、どうすれば!」

「━━何を言っても無駄だ」


彼女の言葉に王子は唇をわなわなと震わせて、


「くそおおおおおおおぉぉ!」


奇声を上げた。その場で激しく地団太する。心が成熟しきっていない王子は癇癪を起こしていた。今まで全てを思うがままにしてきた王子にとって全く意のままにならない状況が、コントロールできない目の前の彼女が、王子に混乱をもたらしたのである。

彼女は棒立ちで面倒くさそうにその様子を眺めていた。

やがて王子はひとしきり爆発して平静を取り戻したのか足を止めて静かになると「コルドォッッ!」と怒鳴りつけるように執事の名を口にした。呼ばれた執事は「はっ!」と短く礼儀正しく返事をすると、スーツの懐からある物を取り出し、彼女に突き付けた。


拳銃だった。


「もう怒ったからな! お前が悪いんだからな! お前が薬師を連れてこないっていうんならここでお前を殺して強引に家に入ってやる! 僕にとって、たかが庶民の命なんてどうでも……」


王子が言葉を並べ立てている最中だった。

彼女は一瞬目を見開くと、目にも止まらぬ速さで執事の懐に入り込み鳩尾に拳をめり込ませ顎を蹴り上げよろめいたところで拳銃を奪い取り、執事は床にうつぶせに転がした。瞬きする間の、一瞬の出来事だった。彼女は動いたらどうなるか分からせるように、拳銃でうつぶせの執事の頭の周りの地面を縁取るように正確に発砲すると、執事の頭を踏みつけながらゆっくりと顔を上げ、鋭い眼で王子を睨みつけた。


「……向けたな、銃を」

「ひっ、ひぃぃいっ」


王子は情けない悲鳴を上げた。子供ながらに絶大的な力を持っていると信じていた殺しの道具を、脅しの道具を、大人の道具を、彼女は軽々と無力化して見せたのである。そんな彼女の纏う鋭い殺気と握る拳銃に、王子はただ怯える。ただの庶民ではないと、本能で感じとったようだった。


「お、お前は、何なんだ!」


彼女はつまらなそうに答える。


「私は殺し屋だ。依頼された人間を、そして邪魔な人間を何人も殺すのが仕事」

「邪魔……?」

「アイツにとっての”邪魔”だ。」


アイツとは無論恋人の事である。


「アイツは底抜けに馬鹿だから全人類を救おうと本気で考えている。だがそんなことは無理だ。アイツの魔力で調合できる薬の数には、限度がある。だからあらかじめ、アイツの負担になりそうな人間、患者の数を増やしそうな人間、救う価値の無い人間は私が始末している」


王子が唾をのむ。

彼女は別に寝室に語り聞かせる必要も無かったが、ついでとばかりに続ける。


「例えば戦地に血の雨を降らす武器商人、例えば化学兵器で国を落そうとしているテロリスト。そう言う輩がアイツに救ってもらおうと近付いて来れば、アイツに辿り着く前に私が殺してきた」


彼女はそう言い終えると、ゆっくりと拳銃を持つ腕を上げて王子の額に銃口を合わせた。


「さて、アンタはどっちだ豚王子。アイツの休息を妨げる”厄介”な客なのか、決して邪魔はしない”物分かりの良い”客なのか」


訊かれた王子は緊張と恐怖でただ足を震わせるばかりで、何も答えることが出来ないようだった。ズボンには染みが出来ていて、足元に水溜まりが出来ていた。


パンッ!!


「っっっ!?!?」


彼女が返事を急かして発砲した。

弾は彼の丸い顔の横を通過していった。

それがきっかけだった。

王子は顔を真っ青にすると、彼女に背を向けて憐れにもよろめきながら逃げ出した。


「忘れ物だ」


彼女がそう言うと、足元に転がっていた執事の襟を掴み上げて豪快に投げ、王子の背中に命中させた。






彼女が寝室に戻ってくると、ベッドの上では相変らず青年が身体を丸めてぐっすりと眠っていた。何発かの銃声がしていた筈だったが、それでも青年は起きなかったようだった。見ていると眠気が誘われる程に気持ちよさそうである。

私も寝るか。

彼女はそう思って青年を起こさぬように静かにベッドに上がり、隣で再び横になろうとした。その時、青年が何やら言葉を発し彼女は起こしてしまったかと思いぎくりと身体を固くした。


「イルダ……ありがとう……」


寝言だった。

彼女は、ふふっと楽しげに笑うと、横になって彼の身体を背後からぎゅっと抱きしめた。


「おやすみ」


彼女はそっと呟いて、目を閉じた。

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