インキュバスに愛される
僕はお金持ちの蜥蜴人(リザードマン)の奴隷として、豪邸の家事を黙々行っていく。
長い木の廊下を冷たい濡れタオルで拭いて綺麗にして、子供の僕の腕くらいある巨大な蟋蟀とか飛蝗を包丁で捌いて料理して、僕の身体よりおっきい高そうな服を手洗いしていく。僕は家から追い出されないように頑張って仕事に取り組む。それでもご主人様である蜥蜴人はまるでいちゃもんをつけるみたいに、毎日必ず仕事ぶりのどこかしらを怒る。ご飯の味付けが今日の俺の気分と合っていないとか、シャンデリアの裏のほこりがまだ残っているとか。正直そんなのぼーろんだって思ったけど、多分本気で怒ってるわけじゃなかった。文句が言えれば何でも良かったんだ。
だってそうすれば、僕におしおきが出来たから。
僕は窓の無い地下室に連れていかれて、痛い思いをさせられる。蹴られたり殴られたり、裸にされて真っ赤に燃えた鉄の棒の先を肌に当てられたり爪を剥がされたり、お尻の穴に蜥蜴人のソレをぶち込まれたり咥えさせられたり。
蜥蜴人は最初から僕を痛めつけるつもりで僕を買っていたんだと思う。
身体中痛くて痛くて。
また、死にたくなる。
生きてるのが辛くなる。
ああ、死にたい。
死にたいなぁ……。
「……」
僕はそうして過去から今へと意識を戻した。
今の僕は、飽きた事を理由に蜥蜴人から奴隷商人に売り飛ばされて、そのまま足枷と手枷を嵌められたまま沢山の種族が行き交う通りで、他の奴隷と一緒に立たされていた。皆の目にはすっごく惨めに映ってるだろう。
そんな僕が、過去の事を思い出すくらい退屈していた僕が、急に意識を現実に向けたのは、目の前に、僕が二人分必要なくらい背の高い、黒い紳士服を着たスラリとした身体つきの、切れ長の青い瞳をもつカッコいい美人なお姉さんが僕の事を興味深そうに見下ろしていたからだった。
紳士服を来ているのにお姉さん、と分かったのは、服の胸の辺りが少し膨らんでいたから。
頭に二本の黒い巻き角も生えているから、多分悪魔族だ。
「この人間の男の子、綺麗な黒髪でとっても可愛いね。それに良い目をしている」
「えぇえぇ、すみません。その生気の無い死人のような目をやめろと何度も注意しておるのですが、一向に改めませんで」
でっぷりとしたお腹の獣人が笑いながら頭を下げている。お姉さんがそれを見てふふっと笑った。
「すまない、皮肉では無いんだ。僕はこういう、人生に絶望していつ死んだって構わないと思っているような人間の子を、いっぱい愛してあげて、嫌という程幸せにしてみたいと常日頃から思っていたのさ」
「は、はぁ……」
商人は困惑したように声を漏らす。僕も似たような感想をもった。
奴隷を見に来るような客は揃って、目の前の奴隷にどんな仕打ちをしてやろうかという黒い気持ちを胸に来るもので、間違っても大事に扱おうとはしないから。獣人とかと比べて力の弱い人間奴隷だったら尚更。
“抵抗できない”というが僕らの売り文句。
だからきっとこのお姉さんも口先だけは優しそうなことを言っておいて、実際はえぐいことを求めてくるに決まっている。腹に黒い気持ちを溜めている分、他の客よりひどいかもしれない。
まあ、何でもいいけど。
お姉さんは、しげしげと僕の首に紐を通して掛けられている数字の書かれた木の板を見た。
「ふむ……。この子、他の奴隷と比べると大分高いんだね。何か理由でもあるのかい?」
「えぇえぇ。この奴隷、実は人間の中にも稀にいる“異世界転生者”のようでして。超回復のスキルを持っているのです」
「なるほど……。それで? 超回復というのは、どんな?」
「はい。超回復は文字通り凄まじい回復を可能とするスキルでございます。ですからこのように……」
そう言って商人がおもむろに僕の右手首をぐっと掴んで、手の平を上に向けさせた。そして腰に下げていたナイフをもう片方の手で掴むと、その刃先を僕の手の平に当てて、素早く横に切った。
「っ!」
痛みで僕は反射的に歯を食いしばった。手の平には横に血の線が真っ直ぐ引かれて、血の滴が肌を伝って手首に流れ行くけれど、それも数秒の事。すぐに傷口は塞がって、商人がタオルで拭いた僕の手の平は、元の傷の無い状態と見分けがつかなくなっていた。
「このように、あっという間に傷が治ってしまう訳です」
「へぇ~。すごいんだねぇ、君は」
商人が手を離す。笑いかけてくるお姉さんを僕は無言で見つめ返す。
褒められても全く嬉しくない。この能力のせいで、簡単に死ぬことも出来ずに散々な目に合っているのだから。
お姉さんが興味を持ったと考えたのか、商人は畳みかけた。
「つまりこの奴隷は、他の奴隷と比べても非常に壊れにくいと言えます! ですからお客様がどれだけ派手な遊びをご所望であろうとも、この奴隷ならば完全に対応することが可能でございます!」
息巻く商人。
でもお姉さんは商人に顔を向けずに冷たい声で、
「そうか」
と興味なさげに呟くと、しゃがんで僕と目線を合わせた。
「傷が無くなっても、受けた痛みが消えるわけでは無いよね。僕のせいで痛い思いをさせてごめんね。手、痛かったね……」
お姉さんはその凛とした顔を申し訳なさそうに歪ませた。
僕は、僕は。動揺する。
今まで色んな人に散々痛い目に合わされてきたけれど、この能力を面白がるばかりで誰も謝ったり、同情したりしなかった。だからいつも心に、痛みと怒りと悲しみを抱えてきた。僕は、初めて理解された喜びを無意識に感じてしまった。
「お詫びと言っては何だけれど、君に選択肢をあげる」
お姉さんが僕の目をじっと見て言った。
「一つは、このまま奴隷として他の誰かに買われるのを待つ、もしくは殺処分される。もう一つは僕に買われて、死ぬほど愛されて、死にたいと思えないくらい幸せになる。どっちがいい?君が選んでいいよ?」
とんでもない事だった。
奴隷が買主を選ぶなんて聞いた事もない。僕は、この世界で初めて与えられた選択権に戸惑って声を出せなかった。だから身振りで必死に意思表示をした。
「他の誰かのものになりたい?」
首を横に振った。
「殺処分を待ちたい?」
振った。
「僕に幸せにしてもらいたい?」
“こっくり“
頷いた。
商品のくせに、物に過ぎないくせに。僕は望んだ。お姉さんを求めてしまった。
お姉さんはそれを聞いて満足気に頷き、
「よし。今日から君は僕のものだ」
と、心底嬉しそうに笑った。
それから僕はお姉さんの奴隷となった。
屋敷とまではいかずともかなり大きな一軒家。そこでお姉さんから与えられた仕事を行う。前の蜥蜴人の豪邸で行っていた事とほとんど一緒だ。物書きの仕事で忙しいらしいお姉さんの代わりに、僕がご飯を作ったり掃除をしたりと家事をする。前と違うのは、怒られない事だった。
お姉さんは、僕を褒めた。
僕の作ったオムライスを食べると「美味すぎる! 君は天才だね!」と満面の笑みで大真面目に褒め称え、書斎に散らばっていた紙の資料たちを綺麗に整頓すれば「ありがとう! もう君無しでは生きていけないよ……」と膝をついて僕の両肩に腕を置いて後ろからもたれ掛かりながら冗談めかしてしみじみ言った。
それにお姉さんは仕事で一息入れるタイミングになると、作業をしている僕の元へ寄ってきて、その大きな大人の身体でぎゅっと抱きしめてくる。
「ご主人様。これでは身動きがとれません」
「んー? 今は僕に抱きしめられるのが仕事だぞ。手を止めて僕を癒すんだ」
「癒せと仰いましても」
「じゃあ、僕の首に顔を埋めて」
「……はい」
しゃがんでいたお姉さんの首元に顔を埋めると、お姉さんは僕の髪に顔を埋める。そうすると僕の匂いが感じられて好きらしい。シャンプーはお姉さんと同じものを使わせられているから匂いが違う訳も無いのに。
ただ、抱きしめられる感覚はとても気持ち良い。こっちの世界に来て初めて抱きしめてくれたのはお姉さんで、その温もりは自分の居場所がお姉さんの隣である事を優しく肯定してくれる。
時間を見つけては四六時中僕に構ってくるお姉さんの姿に僕は元の世界で見覚えがあった。
僕のお母さんが、家族で飼ってたトイプードルのぷぅに見せる姿と同じだった。僕はまるで可愛がられることは無くて、よくひっぱたかれて、真冬の夜の雪の降るベランダに放り出されて、鍵を閉められて、忘れ去られて、 三日余りの空腹と寒さでマンションの7階から飛び降りて、自殺した後に転生したわけだけれど、ベランダの扉の向こうの暖かい部屋の中で姿が見えていたぷぅはしょっちゅう撫でてもらっていたし、抱っこしてもらっていた。
今の僕と一緒だ。
つまり僕はお姉さんのペットになったのだ。日頃怒鳴られることも無く、目が合ってはニコリと微笑まれるのもそれが理由で、家事をこなすと撫でられたり褒められたりするのも、芸を成功させたペットを喜んでいると思えばつじつまが合う。
ペット扱いなんて、元の世界の人間だったらきっとみんな嫌がるかもしれないけれど、この世界では多分かなり恵まれた立場だと思う。この世界じゃ非力な人間が普通に生きるだけでもとっても難しい事だから。僕はすごく幸運と言える。
あと。
犬のペットが飼い主とはまずやらないだろうことを、僕は、お姉さんとする。
……交尾だ。
僕は毎日のようにお姉さんに抱かれる。
でもそれは、お姉さんがインキュバスという淫魔族に該当する種族だからで、精液がお姉さんにとってのご馳走だからだ。人間が好きなのも、そう言う理由なのかもしれない。ただ僕は牛肉が好きだったけど牛は好きでも嫌いでもなかったから違うかもしれない。
僕は、ベッドの上では何もさせてもらえずに、ただされるがままでトロトロに蕩けさせられて、気持ち良い思考と感覚でいっぱいの中で、おっしこを漏らすみたいに精液を差し出す。
それも何度も。
僕のスキルがそれを可能とする。
超回復。
神様が説明してくれた言葉を借りれば、“身体の超活性化を促すスキル”で、精液も底を尽くことなく絶え間なく生産されるらしかった。
僕はお姉さんに精液をあげる。
でも“あげる”ばかりじゃなくて、代わりに僕は“愛”をもらう。
お姉さんは交尾をしている時も僕に、「愛してる」「可愛い」「好きだよ」って沢山の愛の籠った言葉をくれるし、身体でもそれを伝えてくれる。それらは僕が生きていた間ずっと欲しくて手に入らなかったものだから、心の中の乾いていた器にそれらの暖かいものがじんわりと溜まっていって、僕はいつも涙を流しながら満たされていく。
お互いがお互いの欲しいものを渡し合う。
それが僕とお姉さんの交尾だ。
そんな交尾は、お姉さんにとっては無論第二の食事に過ぎず疲れることなど無いので、交尾が終わるときは決まって僕の体力が尽きて意識を手放すときだった。
翌朝は、決まってお姉さんに優しく頭を撫でられる感触で目を覚ます。
「よく頑張ったね」
そう褒められて、お姉さんに抱きかかえられて風呂場へと連れていかれる。
いつだったか、お姉さんが笑いながら言っていた。
「精液パックじゃなくて直に生を摂取できるんだから、僕は本当に幸せなインキュバスだよ」
痛い思いをさせられ無くて、ひたすら大事にされている、愛してもらえる僕の方がよっぽど幸せ者だ。
僕は、幸せな日々を送るようになった。
死んだ目なんて全然出来そうにないくらい、幸福の中にどっぷり浸からされている。
それから、お姉さんに飼われてしばらく経って、僕は一人でお使いに行くよう言われる。ペットの僕に仕込む新しい芸だ。僕も張り切る。
今までは危ないからという理由で外に出ることはほとんど無かったけれど、お姉さんの知り合いの鍛冶師のドワーフに発注していたお姉さんの魔力を込めた特別な首輪が出来上がった、とかいう理由で許してもらえた。
お姉さんが膝立ちして、僕に、黒龍の皮を輪状に加工して表面に青い魔法の紋様を掘ったおしゃれでかっこい首輪を嵌めてくれる。
「良いかい? それは君が僕の所有物であることの証だ。その首輪を嵌めていれば、まず誰も絡んでこない筈さ。だから絶対外しちゃだめだよ?」
「はいっ!」
僕の口角は上がって嬉しくなってしまう。犬みたいに尻尾が生えていたらぶんぶん振っていた事だろう。それくらいお姉さんに飼われているという事実はこの頃僕の中で当たり前となっていて、だからその関係性を示すような、出来れば壊れにくい物が欲しいといつも思っていたのだ。
そうして立場をはっきりさせる実物があれば、この関係性が揺るがないと保証される気がするから。
「でも、首輪を嵌めていてももしかしたら話しかけてくるような妙な輩がいるかもしれない。だからもし、そういう変な奴に絡まれたら、その首輪に指を触れて頭の中で僕の名前を呼ぶんだ。そうしたら僕は転移魔法でいち早く君の元へ飛んで、君の事を守ってあげるからね」
「分かりました」
「うん。良い返事だね」
お姉さんが僕の頭を撫でてくれた。お姉さんが些細なことで僕を褒めてくれるのは、人間の僕をすごく弱くて何にもできない生き物だと思っているからだと思う。
だから。たまには一人の男として僕も出来るんだぞって、示さなくちゃ。
そうして、僕は外に出た。
露店が大量に立ち並ぶ賑やかな通りを歩く。元の世界で言えば、お祭りの屋台みたいだ。
変な感覚。沢山の種族が行き交うこの景色を今までも僕は何度も見ていたけれど、それはお店の商品として店頭に立っている時で、実際に通りを歩くのは初めてで。見慣れているけど、見慣れない景色。
ポケットに手を突っ込めば硬貨のじゃらじゃらとした手触りがする。
お姉さんにお金を渡された時に言われた命令は、“このお金を使って好きなものを買ってくること”だった。お姉さんは僕をすぐに子ども扱いしたがるから❘実際に子供だけれど❘おやつとかを買って来ると思っている筈。だから僕は、そういうのは絶対に買わないようにしようと決めた。僕が買うのは、お姉さんの為の何かだ。
いつも幸せをくれるお姉さんにお返しとして何かをプレゼントしたい。
凛とした顔のお姉さんが目を真ん丸にして驚いている顔が見たい。
お姉さんを、喜ばせたい。
その一心で良さそうなお店を探した。
だから、魔法使いのおばあさんが大きな鎌でぐつぐつ煮てる何だか美味しそうなスープ屋も、森の妖精が売っている一つ目のりんご飴屋も、しゅわしゅわ炭酸の味付けをしたスライムゼリーがたくさん並んでいる駄菓子屋も、全部無視した。
僕が喜ぶものじゃなくて、お姉さんが喜ぶものを探さないと。
通りを歩く。
歩いて、歩いて。
ふと、足が止まった。甘くて嗅いでいると身体がポカポカしてくるような不思議な匂いを感じたからだ。思い出したのはお姉さんの姿だ。今している匂いとは少し違うけど、お姉さんもよく甘い匂いが身体からする。そういえば大人は香水をつけるって元の世界で友達が言っていた。もしかしたらお姉さんも好きかもしれない。
僕はそう思ってすんすんと鼻を鳴らして、お店の場所に辿り着いた。テントみたいに屋根に布が張ってあって、高さの違う何段かの横長な棚にはそれぞれ赤とか黄色とか青とかの液体が入った透明で小さな瓶がたくさん並べられていた。まるで虹をバラバラにして瓶の中に詰めたみたい。それらが、すっごく綺麗で僕は立ったままぼけっと眺めていた。
狼の亜人の店主さんが突っ立っている僕に気付いて、見下ろす。
「なんだ、人間のガキ。迷子か?」
僕は首を横に振る。
「迷子じゃないです。僕は、客です」
「客だぁ?」
店主は歌がように目を細める。
「ガキ。ここに並んでるのはジュースじゃないんだ。ジュースよりももっともっと価値の高い、良い香りのする液体だ。分かるかぁ?」
「はい。だから僕、それをお姉さんに上げるために買いたくて」
「お姉さん?」
それで店主さんは僕の首元に掛かった首輪を見た。
「はぁーん、なるほど。さてはお前奴隷だなぁ?」
僕は素直に頷く。すると店主さんは“はぁ”と小さくため息を吐き、それから改めて僕を見た。
「いいぜ、売ってやる。お前は“お客さん”だ」
「あ、ありがとうございます」
「お前みたいな奴隷をあしらったらお前のご主人様とやらにどんな風に思われるか分かんねえからな」
店主さんは面倒くさそうにぼやきながらも一応の接客、をしてくれる。
「それで。どれが欲しいんだ。何か買って来いって言われたか?」
「いいえ。ただ、一番良いやつをください」
「一番良いやつって言われてもなぁ。お前の持ち主はどんなお方なんだ。適当に見繕ってやるよ」
さっさと僕を帰したいからだと思うけど、店主さんの対応が親切になる。だから僕も答える。
「インキュバスのお姉さんです」
それを聞いた店主さんは目を見開いた。
「……まじか。インキュバスか。珍しい」
「珍しいんですか?」
「ああ。最近は同じ淫魔族のサキュバスに餌である人間の雄を横取りされて数を減らしてるんだとよ。だから色んな噂がある」
「噂」
店主さんがにやりと笑った。
「これは一つ、興味本位で訊くけどよ。お前、家では鎖で壁に裸で縛り付けられて、ただ精液を提供する肉人形として扱われて、がりがりになって死ぬまで自由が無い地獄を味合わされてるって本当か?」
「そんなの、全然違います」
違い過ぎてちょっと意地になる。
「家では自由ですし、痛いことなんて全然なくて、かっこいいお姉さんはいつも優しくて……」
「はー。同じ淫魔族でも違うもんだなぁ」
店主さんは言いながら手を棚の下に手を入れて何かを掴むと、棚の上に勢い良く置いた。
宝石みたいに真っ赤な液体。
「ほれ。うちで置いている一番高いのだ。その癖あんまり効果が強すぎるから誰も買わないで、ずっとうちに残ってる商品でもある」
「強すぎるって、匂いがきつすぎるってことですか?」
「いいや。むしろ一番上等で良い匂いではある」
「じゃあ、それにします!」
僕ははっきりと言った。
香水の事なんてなにも知らないから僕にとっての判断材料は良い匂いかどうか、だけだ。それで店主さんが一番良い匂いって言うんだから、もうそれで買う理由には十分。
「即決か。男らしくていいなぁ」
「僕も男なので」
「で、金有るんだろうな?」
「はい」
そう言って店主さんの伸ばしたの平にポケットの硬貨をあるだけ乗せる。
「……まじで大金じゃねえか」
「足りてますか?」
「勿論だ。あんがとよ。高いから捨てるのも忍びなくて困ってたんだ。買ってくれて助かったぜ」
「ありがとうございます」
「いや、お前も死なねーように気をつけてな。特にインキュバスのご主人様だからな。覚悟した方がいいぜ」
「え、はい」
「がははは」
店主さんが愉快そうに笑った。
多分帰り道気を付けてって事だ。
言われなくても気を付ける。
僕のポケットにはお姉さんを喜ばせるための“とっておき”が入っているのだ。
あとはこれを渡すだけ。
僕は、ウキウキで帰り道を目指した。
だけど……。
………………。
…………………。
「っ!?」
油断してたんだ。もう帰るだけって。だから僕はいろいろなお店を歩き見て見物して楽しんでいた。それがいけなかった。まっすぐ帰ればよかった。僕は逆立ちでピラミッドを作っているゴブリンたちのサーカスに目線を奪われながら歩いていた。そしたら突然、誰かにぶつかってしまった。
驚いて僕は尻もちをつく。
「大丈夫? 坊や」
見上げれば、手を差し伸べて起こしてくれたのは、巻き角が二本生えていて蝙蝠みたいな真っ黒な羽が生えていてお姉さんよりもずっと肌の露出の多い恰好をしている男好きしそうな胸の豊かな女性。
サキュバスだった。
「坊や、人間の雄の子供なのね?」
サキュバスは舐めるように僕の全身を見ながら口角を上げていって、興奮したように声を弾ませて言った。その熱の籠った視線と声に、僕は背中をぞくりと震わせる。
なんだか嫌な予感を感じたのだ。
迷路の行き止まりに来ちゃったみたいな。とにかく逃げなきゃって本能で思った。
だから僕は、
「すみません。ありがとうございました」
とお礼だけ言って背を向け、足早にその場を去ろうとした。でも、振り返った先には既にサキュバスが立っていて回り込まれていた。
僕は息を呑む。
サキュバスは微笑む。
「あらあら。そんなに怖がっちゃって可愛いわね。お姉さん、傷ついちゃうわ」
柔らなかな言葉遣いだけど体に纏わりつく緊張感はまるで消えなかった。それはきっと、目の前の女の人が僕を獲物として捉えている事を身体が感じ取っているからだった。僕はすっかりその威圧感に呑まれて、足がすくんでしまっていた。
「その首輪。坊や、インキュバスに飼われているのね。古くさい魔法模様と匂いで分かるわ」
サキュバスが目を細めて言う。
「ねぇ坊や。その首輪外して欲しいと思わない? 魔力も上手に扱えない脳筋なインキュバスと違って魔法が得意なサキュバスの私にはそれが出来るの」
言いながら細い手が伸びてくる。
「ね? インキュバスの奴隷なんかやめて私のものになりなさい。そっちの方が、坊やは絶対に幸せよ?」
手が、首元に。
僕はただ立ちすくんで声を上げる事すら出来なかった。図星だから、とかじゃない。本当は大声で言ってやりたかった。お姉さんに飼われる以上の幸せなんて有るはずないって。
でもサキュバスの言葉が、まるで鎖みたいに僕の首から頭まで巻き付いて口を閉ざしてしまった。
もうすぐ触れる。
やだ。首輪、外されたくない。僕はお姉さんだけのモノだっ。
でも僕の手は震えて全然言う事を聞いてくれない。どんどんと手が近づく。ぎゅっと目を瞑った。
次の瞬間。
「人のモノに手を出すなんていい度胸じゃないか」
聞き慣れた低い声が聞こえた。
目を開ければ、見慣れた外行きのダークスーツのスラリと伸びた背中。
お姉さんが来てくれたのだ。
「あら。転移魔法を仕込むなんて脳筋なインキュバスにしては器用じゃない」
「特別性でね」
お姉さんの背中から首だけを伸ばしてちらりと覗けば、お姉さんはさっきまで僕に伸ばされていたサキュバスの女の人の手首を皮膚に指がめり込むほどに力強く握っていた。
「相変らず力が強いのね。そんなんじゃ、愛しの人間ちゃんが壊れちゃうんじゃないかしら?」
「ご心配どうも。でも力加減はわきまえているからね。僕が人間を、この子を、傷つけるなんて絶対にありえない」
「すごい自身ね」
「僕より自分の心配をした方が良いんじゃないかい? このまま骨ごと君の腕を握りつぶすことだって容易いよ」
「まあ怖い」
サキュバスはおどけたようにそう言って、僕が瞬きをしたその一瞬の内に身体が一歩分後ろに下がって、お姉さんの腕からも逃れていた。この人も転移魔法を使えるのかもしれない。
お姉さんは宙ぶらりんんになった右手をゆっくりと下ろした。
「人間の雄をどんどんと使い捨ててるそうじゃないか」
「そうね。人間はあまりに弱いから、つい殺してしまうのよね」
「よくもそんなひどいことが出来る」
「ひどいですって? 私たち淫魔族にとっては人間なんてただの餌に過ぎないでしょ? 人間が好きだと宣う貴方の方がよほど異端よ」
「皆気付いていないのさ」
「何に」
「人間がいかに魅力的かという事に。この子たちは確かに、とっても非力で魔法も使えない。だけどその代わりに考えたり感じたりする能力は僕たち“異種族“よりも圧倒的に高い」
「それが何だって言うの」
「それは価値のある能力だ。人間のように誰かを思いやる能力が僕たちにもあれば、自分の意思を通したいという低俗な欲のためだけに、話し合うこともしないで頻繁に起こる争いも今よりずっと少なくなるだろう。試しに、人間を観察していると、その思慮深さに、様々なことを気付かされるよ」
「じゃあ、その子じゃなくても良いわよね、貴方のペット。人間なら誰でも」
「最初はそうだったかもね。でも一緒に暮らしていて。すっかり特別な存在となってしまった。この子はその豊かな感情で僕を想ってくれて、僕をいつも幸せな気持ちにしてくれる。だから僕はそれに応えられる様に出来る限り幸せを返している。人間をただの消耗品としてしか扱わない君には絶対に味わえる事のない幸福だろうさ」
「はぁ。反吐が出そう」
それからはちょっとの沈黙。話が終わったことを二人が認識し合うみたいに。
やがて、恐い険しい声色でお姉さんが口を開く。
「それで。まだやるのかい?」
「いえ。ここじゃ魔法も使えないもの。魔法無しで野蛮なインキュバスなんかと戦闘したら一瞬でミンチにされちゃうわ」
「お褒めにあずかり光栄だ。魔法と誘惑に頼らないと何もできない阿婆擦れさん」
美人な二人が笑みを浮かべながら睨み合う。
「さようなら。人間趣味の変態さん」
「さようなら。人間虐待の屑野郎」
サキュバスは地面に手をかざして地面にゲートを出すと、その中に入っていって、後には静かな空気だけが残った。
「さ。僕たちも帰ろうか」
お姉さんはそう言って僕の手を握った。
お姉さんは家に帰ると膝立ちになって僕の事をぎゅっと抱きしめてくれた。体温や体に流れる血流までも感じ取るかのように首に腕を回して引き寄せされ、がっちりと身体が密着する。
「あぁ……間にあって良かった……」
お姉さんが安心して洩らしたささやきが僕の鼓膜を優しくくすぐる。
お姉さんはたっぷり数十秒間、僕を感じると身体を離した。お姉さんは気持ちを伝えるように僕の目をじっと見る。
「僕、言ったよね。変な輩にあったらすぐに首輪に触れて僕を呼ぶようにって」
「ごめんなさい」
「何かあってからでは遅いんだよ」
「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ」
僕はただ謝る事しか出来なかった。ご主人様の言いつけを守れないなんてペット失格だ。僕は捨てられちゃうのかな。そう思うと勝手に涙がぽろぽろとこぼれてきた。お姉さんに手放されるのが嫌で僕は、顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら必死にお願いした。
「ごめんなさい。何でもしますから、捨てないでください」
「え?」
「僕をご主人様の傍に居させてください。お願いですからっ。見捨てないでっ」
僕のお願いに一瞬目を丸くしたお姉さんは、やがて柔らかく微笑んだ。
「ふふっ。そんなことしないさ。するわけがない」
お姉さんは僕の頬に手を当てる。
「君はもう、僕の奴隷でペットで所有物だ。モノである以上は壊れるまで使う。つまり君が死ぬまで、僕が君を手放すことは無いんだよ」
「そう、なんですか」
「そうだ。だから安心していい」
お姉さんはあやすように僕の髪をゆっくり何度も撫でてくれた。それが優しくて、嬉しくて、僕は気付けばすっかり悲しみが無くなって頬が緩まって、代わりその手に猫みたいに顔を寄せていた。
「さぁて」
お姉さんは一声でしっとりとした空気を変えた。
「初めてのおつかいに行った君は、果たして何を買ったのかな?」
お姉さんは興味深々に期待をたっぷり含んだ声で尋ねてきた。お姉さんは僕のやる事は何だって楽しそうに観察しているのだ。そして今の僕はそんなお姉さんの期待をきっと大きく上回ることが出来る。
僕には“とっておき“があるから。
「ご主人様、これをどうぞ」
僕は少しの不安と大きな自信を胸に、ポケットから取り出した瓶をお姉さんに渡した。
「え?」
お姉さんは目をまん丸くして、それを受け取ってくれた。お姉さんが小さな瓶を持ち上げて瞳の前で揺らして中身を覗き見れば、中に入った深紅の液体が波立つ。
「これ。僕のために?」
「そうです」
「折角初めてのお小遣いだったのに?」
「ご主人様に喜んで欲しかったんです。僕をいっぱい幸せにしてくれるご主人様にも幸せな気持ちになってほしいなって」
「……あぁ……君はどこまで」
お姉さんは嬉しそうにつぶやいた。それから僕を抱き寄せて額にキスを落とすと、
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
と満面の笑みで言ってくれた。
良かった。作戦成功だ。普段のキリっと優雅な顔が一変して咲いた花みたいに笑ってくれた。きっと本当に嬉しい時に見せてくれる笑顔。それが見れて僕も嬉しくて、ちょっと誇らしい気持ちにもなる。
「これ、香水かな? 早速使ってみても良いかい?」
「はい。もちろん」
「では」
お姉さんはそうしてキャップを外すと、噴出口を自分の身体に向けて、ノズルを指でそっと押した。
シュっ。
中の液体が霧状に噴射される。お姉さんは目を瞑り、すんすんと鼻を鳴らしながら手で仰ぐようにして匂いを嗅いだ。
「うん。フローラルで甘い感じもあって、とっても素敵な匂いだね」
お姉さんはじっくりと味わうように、匂いを感じ取っている。
僕がプレゼントしたものだからなのか、ぞんざいには扱われない。良かった。お姉さんにとっても大事なものになったんだ。
僕はほっとした気持ちで香水を楽しんでいるお姉さんをじっと見ていたけれど、不意に、
「んっ……」
お姉さんが甘い声を漏らした。
「あれ……おかしいな……この部屋……熱い……」
開いた目は目尻が下がってとろんとしていて、顔は紅潮して、素肌が見えている首には汗の雫が垂れている。“はぁはぁ“と粋も荒くなっていた。
まるで熱を出した時の僕みたいだ。
まさか、僕のあげた香水のせい⁉
「ご主人様⁉ 大丈夫ですか⁉」
僕は心配になって声をかける。でもお姉さんはそんな不安そうな僕を他所に、右の手の平を額に滑らせて汗で張り付いていた髪を上げると、そのまま額に手を当て顎を上げながらくつくつと愉快そうに笑い始めた。
「あぁ。そう言う事か。これは一本取られたなぁ」
「……ご主人様?」
「これはねぇ。香水は香水でも“媚薬成分入り”の香水だ。だから、匂いを嗅いだ者はたちまちに発情してしまう」
「え、あ、あの。すみません! 僕、そんなつもりじゃ‼」
僕は顔を真っ青にして謝った。“媚薬”という言葉は正直分からなかったけど、お姉さんの体調を変にする成分って事は理解できた。
お姉さん、苦しそう……。
「分かってるさ。それに怒ってない。ただ全く予期してなかったら思わず笑ってしまった」
「あの、ご主人様。お水とか、お持ちいたしますか?」
「いや、大丈夫。それより寝室に行こう。いや、ここでも良いか。もう無理だな、これは……」
お姉さんは僕への言葉と独り言の中間のように呟きを漏らしながら、おもむろに服を脱ぎ捨て始めた。いつもは皺にならないように畳んで置くのに、今は乱暴に床に散らばらせる。あっという間に黒のシックな下着姿になったお姉さんの露わになった肌は、すっかり赤みを帯びていて、シャワーを浴びたみたいに汗の雫が浮かび上がっていた。お姉さんは荒く息を吐きながらゆらゆらと僕に近付くと、もたれ掛かるようにして抱き着いてきた。
「あぁ。頭に霧がかかったみたいで、上手く考えられない……。僕は、ただ君を襲う事しか考えられないお猿さんになってしまったみたいだ……」
お姉さんの身体は暑くて、押し当てられている胸からはすごい早さの心臓の鼓動を感じる。お姉さん、すごい興奮してる。その興奮は熱と共に僕にもすぐに移っていく。どっちの心臓の音なのかは分からないけれど、頭の中にドクドクって、鼓動が響く。
お姉さんが両手で僕の両頬を包んで、僕と目線を合わせる。
「先に謝っておく。多分、今の僕は手加減が出来そうにないから、君の頭の中が快楽でぐちゃちゃになってもう泣き叫びながらやめてくださいって懇願しても僕は絶対にやめないし、もっと興奮して責めてしまう。ごめんね」
「謝らないで、ください。僕のせいで」
お姉さんは「いや」とすぐに言って、首を捻って考える仕草をした後今度は、自分の言葉を否定するように「いや」と言った。
「……そうだっ。君のせいだっ。君はいつも僕の心をざわつかせる」
否定してくれるのを心の隅で期待したからか。お姉さんが思いのほか責めるみたいに強い口調になって、僕はどきっとする。いつもよりお姉さんの感情が荒い。口調が強い。
「今日だって、直ぐに僕を呼んでいれば、君は怖い思いをせずに済んだんだ‼ 僕も心配しなかった‼ 君は僕のモノであることの自覚が足りない‼」
「……はい」
お姉さんがニヤリと笑う。
「だから今から嫌という程身体に教え込んであげる。誰が君の所有者であるかを。誰が君を幸せにするのかを」
“僕がどれほど君を愛しているのかを“
ぞくっとした。
怖かった。
多分、僕はもうこの先、お姉さん無しでは生きていけなくなる。
喜びだった。
僕はお姉さんさえいれば、幸せになれる。
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