魔法陣設計士に愛される
「んん……」
青年は気付けばリビングの机に突っ伏して眠っていた。すぐ横には適当なページを開いたままの本がある。どうやら読んでいる途中に寝落ちしてしまっていたらしい。時計を見れば、時刻は深夜2時を回っていた。
すっかり寝る時間であるが、妻はどうしただろうか。
そう思って青年は立ち上がると、二人の寝室を訪れる。姿は無い。代わりに彼女の部屋に向かうと扉の下の隙間から光がうっすら廊下に漏れ出ており、扉を少し開いて中を覗けば、彼女は未だ机に向かって仕事の真っ最中であった。
彼女の仕事は魔法陣設計士。
魔法陣とは中型~大型魔法の発動に必要な円状の陣であり、それは緻密に計算されて効力を発揮するように結びつけられた夥しい数の呪文によって成り立つ。この魔法陣を然るべき場所に正確に書きこんで魔力を送り込めば誰でもその魔法を発動することができ、高位な魔法使いばかりでは無い社会において魔法陣はすっかり重宝されていた。
彼女はその魔法陣を自らの手で設計する仕事をしている。
誰でもできる仕事ではない。魔法に対する膨大な知識と圧倒的な理解力、なにより無限にある呪文の組み合わせから目的のための最適な組み合わせを見つけ出すひらめきが必要とされた。言わばそれは、幾つも分かれ道のある難解な迷路から、たった一つだけ存在する正解のルートを選ぶようなものである。
そんな魔法陣設計士の中でも彼女の才能は際立っており、元々10m程度の瞬間移動しか出来なかった転移魔法を改良して、1km先まで転移可能にした功績などは誰もが知っていた。
今も、彼女はその才能を求める沢山の注文に応えるべく、せっせと魔法陣を造っているのだろう。今日はずっと篭りっぱなしだ。
夜食をつくろう。
彼はふと思い立った。魔力も無ければ魔法の知識もまるでない彼が妻を手伝うには、このくらいの些細な事しか出来ない。それでも掃除をしてあげれば彼女は大変に感謝するし、ご飯をつくってあげれば無邪気に喜ぶのだ。彼女は、魔法陣設計に能力を割きすぎて生活力が著しく欠如していた。
だから、彼が支える。
キッチンで彼女の好きなサンドウィッチをつくる。
紅茶も淹れる。
平たい木製の盆に乗せて彼女の扉をノックした。当然のように返事はない。無視しているわけではなく、そもそも聞こえていない。彼女は凄まじい集中力で作業に取り組む。
彼は部屋の中に入ると、背中を丸めて机に向かっている彼女に近づいた。
やはり、魔法陣の設計をしていた。机の上に置かれた羊皮紙の図面には製作途中の魔法陣が描かれている。
彼女は顎に手を添えてじっくりと考え込んでいた。
その横顔に彼は見惚れる。
叡智を宿した切れ長の青い瞳で魔法陣を熱心に見つめ、唇は軽く結ばれ、ただ微動だにせず物思いに沈んでいる。その姿勢から醸し出される雰囲気は学者のように気高く、職人のように鋭い。ただ傍に居るだけで彼女が、全神経を魔法陣の設計に注いでいる事を肌で感じられ、その様には感服を覚える。
彼女以上にかっこいい女性を彼は知らなかった。
「……うわっ!? びっくりしたぁ」
しばらく青年が見つめていると、やがて彼女は彼の存在に気が付いた。口角を上げながら驚いた表情をしている。
「居たのなら声をかけてくれよ」
「ごめん。驚かせるつもりは無かったんだけど」
「ふふん。どうせ、僕の横顔にくぎ付けになっていたのだろう」
「うん。そうかな」
「僕は天才でイケメンだからな!」
「ん~。それとはちょっと違うかも??」
「もっとはっきり否定してくれ……。自分で言ってて死ぬほど恥ずかしくなる……」
「大丈夫。天才でイケメンだよ」
「あああぁぁ。深夜の小粋なジョークなんだ許してくれええぇぇ」
彼女からはさっきまでの緊張感がすっかり抜け落ちていた。今は夫を前にリラックスした様子を見せている。彼女は冗談が好きで、夫である青年にはよく適当なことを言うのだ。
「それよりも」
彼女は、青年が手に持っていたお盆の上の皿に乗る、3つのサンドウィッチを見つめながら言った。
「それは、夜食という事で良いのかな?」
「うん。サンドウィッチと温かい紅茶を持ってきたんだ。食べる?」
「食べるに決まっている! 丁度お腹が減ってきた頃合いでね。もうすぐ冷蔵庫を漁ろうかと考えていたんだ」
「盗人みたいだね」
「魔法陣設計士だ」
そうして二人でクツクツと楽しげに笑った後で、彼は作業机の比較的空いたスペースにお盆を置いた。“比較的“であって机の上に完全に空いたスペースは無い。基本いつ使ったかも、これから使い道があるのかも定かでない資料が積っている。
彼女が紅茶の入ったコップを手に取り優雅に啜っている間に、彼は顔を寄せて机の上の魔法陣を見つめた。
まるで芸術作品だ。綴られた呪文は幾何学的な線と共に美しく円を描いて並んでいる。ただ曲線である弧はあと一歩のところで途切れていて、魔法陣の12時の部分は少しだけ隙間が空いている。
「今日は眠れそう?」
「あとちょっとなんだ。最期を締めくくるのにふさわしい呪文さえ思いつけば、この、ゴーレムを生成する魔法陣は完成するんだ」
「そっか。もうどのくらい悩んでるの?」
「2時間」
「先に寝てるね」
「……ああ」
「おやすみ」
こういう時の彼女は長期戦になることを彼は知っている。だから若干可哀想ではあるが、待つことはしない。
そう思って彼は、寝室に向かうために振り返ろうとしたのだが、
「え」
「そいっ!」
という彼女の掛け声と共に気付けば彼の頭は彼女の腕にぎゅっと抱きかかえられ、少し苦しいほどに胸に押し付けられていた。
「いういおういあお?(急にどうしたの?)」
「単純な話さ。君の成分を補給している」
「あうあおえ(なんだそれ)」
「素晴らしい閃きには、君の成分が必要不可欠なのさ」
「うういい(苦しい)」
彼は抗議の意味で彼女の背中をとんとんと叩き、やっとの思いで腕が緩み、顔を上げることを許された。顔を赤くした彼を見て、彼女は愉快そうにケラケラ笑う。
「ちょっと死にかけたけど」
「死んだら蘇生魔法で蘇らせるから大丈夫さ」
「そういう問題じゃないよ」
「そうだね。君のツンツンした髪の毛の手触りと何故だか魅力的な匂いが合法なのは確かに問題だね」
「変態だ」
「魔法陣設計士なんてやる人間は大体そうさ」
そう言って彼女はにやりと笑った。
「ありがとう。これでもう少し頑張れそうだ」
「それは良かった。じゃあ今度こそ先に寝てるからね」
「ああ。僕のためにベッドを温めておいてくれ」
「絶対来ないよ」
「行く」
「何時くらい」
「……朝日が昇るくらい」
「程ほどにね」
彼が苦笑いを浮かべると彼女は、彼の額にキスを落とした。
「おやすみ」
「うん。おやすみ」
彼は部屋を後にした。
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