戦士に愛される
古い遺跡の最奥地。今までの細い通路とは違って比較的広がった空間で壁から床まで複雑な紋様がびっしりと刻まれている。そしてそれらが集約していく中央に、壮年の夫婦が立っていた。ローブを着た男と首から下に鎧を纏った女。二人は顔から汗を垂らして疲弊した様子である。ここまで来るのに長い時間歩き、トラップやモンスターを相手にしながらやっとの想いで辿り着いた。
二人の目の前には地面から膝程度の高さに伸びた細長い石の台とその上に乗せられた本がある。
「ついに、見つけた……」
「やったなっ」
男がしみじみと呟き、女が喜びを伝えるようにその背中をバシと叩いた。
古代の魔導書。
それが二人の探していた本であった。
二人は元々魔王を倒す勇者の一行の仲間であった。男は魔法使い、女は戦士を担っていた。旅は楽では無かった。が、魔王討伐に向けて地道に歩を進めていた。
しかしある日、事態が一変する。
二人を除いた仲間の全員が魔王側へと寝返ったのである。どうやらその裏には魔王軍の幹部にそそのかされたという背景があるようだったが、定かではない。勇者も含め今まで仲間だった者達から武器を向けられ、二人は必死に逃げた。逃げて、逃げて、その場をなんとかやり過ごし、二人以外魔王に歯向かう者がいなくなっても尚、二人は魔王討伐を諦めなかった。いつだったか、魔王を殺すのは勇者の剣以外では不可能だが、封印ならば古代魔法でも可能であることを知った。それから二人は旅を再開して各地を転々とし、古代魔法についての情報を集めて回り……ついに、古代魔法の呪文が記されている魔導書まで辿り着いたのだった。
ぱらぱらぱら。
男はページを捲る。しかしどのページも空白だった。無論ただの白紙ではない。魔力が込められている。
「やっぱりだ」
男が納得するように呟き、女の方に振り向く。
「前に言ってた予想が当たった」
「それってのは、本に試される、とか言うやつかい?」
「そう。この本は恐らく読んだ者の意識を取り込む」
古代魔法は封印魔法以外にもいくつか種類があるが、そのどれもが強力であり、未熟な魔法使いが扱っていい代物ではない。そこで古代魔法を作り出すような偉大なる魔法使いは大抵、その魔導書に読者の力量を試すように試練を施すのである。そして、いま二人の目の前にある魔導書は、封印魔法の習得を望む者の意識を取り込み、その本の空白のページに本来刻まれている難解で圧倒的な文量になる呪文を一気に意識に叩き込むという試練をもたらし、その情報の海に溺れずに全てを理解することが出来た聡明な魔法使いのみが封印魔法の習得を許されるようであった。
「取り込まれたら出るまでにどれだけの時間が掛るか分からない。最悪本の中から出られないかもしれない」
「要は死ぬって?」
「そうだ」
「まあ、死んだらそれまでだね」
「随分と軽いな」
「今までそういう旅だったろ?」
「それもそうか」
「それに、あんたは死なない。ずっと近くで見てきたアタシが言うんだから間違いない。あんたは最強の魔法使いだよ」
「すごい自身だな」
「最強の戦士であるアタシの夫だからね」
「それは、信じるしかないな」
若干の軽口を挟みつつも、彼はすぐに真剣な顔つきになる。
「魔導書に意識を取り込まれている間、俺は座って念じた姿勢のまま全く身動きが取れなくなる」
「ああ」
「その間、もしかしたら魔王の手下たちが邪魔しに来るかもしれない。そいつらから、俺の事を守ってほしい」
「当然さ。あんたに死なれたら嫌だからね」
「俺も君に死なれるのは嫌だ。だから矛盾したことを言うようだけど、まずいと思ったら君だけでも逃げて、生き延びて欲しい」
「ぜってぇーやだね」
彼女は普段から口調が荒いが、この時ばかりはいつにも増して荒々しく吐き捨てた。まるで反吐が出る、とでも言いそうな口ぶりだった。事実、彼女はキレていた。
「舐めてもらっちゃ困るね。夫を捨てて逃げる妻がどこにいるってんだい」
「夫婦の肩書よりも命の方が大切だろ」
「一緒さ。アタシはあんたと一生添い遂げるって決めてんだ。それに、あんたが死んだらどの道、魔王に世界征服されて人間の未来はない。だろ?」
「……どこかの誰かが」
「どこの誰が?」
彼女は呆れた目を向ける。
そう。誰もいない。二人を除いて魔王に反抗しようという意思を持つ者など現れる筈がない。なぜならその人々の象徴であった勇者がとっくに魔王の手に落ちているのだから。
彼も当然それを分かっている。だから彼女を否定する言葉は残念ながらもう思いつかなかった。
「分かった。俺の負けだ。どんな状況になっても俺を置いていかないでくれ。一緒に死んでくれ」
「ああ。望むところさ。一緒に死んでやる」
そう胸を張って笑う彼女が何とも頼もしく、悲しかった。
彼は腕まくりをし、高い天井に向かって右手を掲げると長々と呪文を詠唱した。すると詠唱後には手の平から蒼い球体が浮かび上がり、一定の高さになった瞬間に破裂。四方に飛び散っていく液体はそれぞれ虹の如く空中に軌跡を描き、膜を張り、やがてドーム状の青い結界が出来上がった。
男は魔力を指に灯らせ空中に文字を描く。
“この結界は音も振動も遮断するが、それほど耐久力は無い。俺はこの中で集中して魔導書の読解を行う。そしてこの結界は中から出ることは出来るが、外から入ることは出来ない”
彼女は小さく頷いた
“外は、頼んだ”
再び頷いた。
彼はそれを確認すると、彼女に背を向けて本と向かい合うように座った。意識を集中するためだ。
だが目を閉じる直前に後ろから抱きしめられる感覚が訪れた。心地の良い重み。
視界に、長年の鍛錬で節くれ立った彼女の左手の甲が現れる。
薬指の指輪が光る。
人差し指が、空中に文字を書く。
愛してる
彼女は魔力を持たないために文字が浮かび上がることは無いが、それでも確かに伝わった。
彼も全く同じ言葉を空中に書いた。
愛してる
魔力は込めなかった。
やがて背中に掛かっていた重みが無くなる。
彼は、振り返らなかった。
彼女は結界を背にして仁王立ちをして、この空間に繋がる入り口をただじっと見つめていた。長い静寂だった。音を立てるものが何もなく、己の呼吸の音だけを聞き続けた。感覚は研ぎ澄まされていた。
ふと、空気が微かに変わったことに気付く。
彼女が剣の柄に手を掛けるのと、入り口から侵入者が姿を現すのはほぼ同時であった。
「やあ。久しぶりだね」
「てめぇ……」
彼女は怒りを込めた瞳で鋭く睨む。荘厳な輝きを放つ黒い鎧を身に纏って現れた金髪の男は、“元“勇者であった。
「腰抜け勇者さまがわざわざこんな所まで何しに来たんだい?」
「いや。昔の仲間の顔が見たくなってね」
「そりゃ残念。生憎ここには、お前を屑の裏切り者としか思っていない人間しかいないよ」
「おいおい。酷い言い草じゃないかぁ。旅をしている時はあんなに仲良くやってたのに」
「お前が“人間の味方”だった頃はね」
「厳しいなあ~」
おちょくるような間延びした声。彼女の癪に障る。
顔も嫌いで声も嫌いで、何より飄々とした態度が気に喰わない。こんな男に人類の希望が託されていたと思うと虫唾が走った。
「それで。用件は?」
その言葉を聞いた彼の目つきが鋭くなり、笑みが消える。
「魔導書をよこせ」
「断る」
「降伏しろ。そうすればお前の命だけは助けてやる」
「断る。お前に魔導書は死んでも渡さない」
「はあ~。相変らず脳筋で物分かりの悪い馬鹿な女だなぁ!」
そう言って彼は指を鳴らした。すると彼の周囲に次元を繋ぐ門がいくつも現れ、そこから魔王の配下たちが次々と現れた。ゴーレム、ヴァンパイア、ミノタウロス、デーモン。どうやら彼自身の魔力を転移先の目印として門を繋いだらしい。新たに現れた敵の中には、かつて共に旅をした仲間の姿もあった。当然その眼は敵対の色で染まっている。
元勇者が笑う。
「いくら愚かなお前でもこの戦力差は理解できるだろう」
彼女も笑う。
「馬鹿だから分かんないねぇ」
そう言って剣を抜くと、敵の群れに向かって軽く縦に振り払った。直後、斬撃が空気を切り裂きながら飛んでいき、いくらかの敵を真っ二つにした。
「ほおお。お前、魔力が使えるようになったのか……?」
「ああ、そうさ。お前が逃げた後も鍛錬を続けた成果だよ」
「……いや、違うな。お前にはそもそもマナが無い。……そうか、分かったぞ。お前、あいつと夫婦の契りを交わしたな?」
「ご名答。この剣にはアイツの魔力が籠っている」
「あっはははは。そおりゃいい。最高だぁ! 滅ぶしかない惨めな人間同士で傷の舐め合いをして遂には夫婦として結ばれましたってかぁ! かあ~泣かせるねぇっっ!!」
「お前は絶対に殺す!」
「やってみろ!」
こうして戦いの火蓋が切られる事となった。
敵は数十体。
彼女は一人。
それでも立ち向かった。
全ては夫との約束を守るために。
結界が消え、中にいた男は立ち上がると、辺りを見渡した。
酷い惨状だった。壁や床にはクレーターのような穴が大量に出来上がり、魔族も人間も皆転がっていた。誰もが傷だらけで誰一人動かず、誰も立っていなかった。
誰も。
彼女も。
駆け寄る。
彼女は仰向けのまま目を閉じ、全く動かなかった。鎧も砕けて布の服がボロボロで、全身傷だらけで血まみれになっていた。彼は呆然とした表情で手を、彼女の首すじに伸ばしていく。
脈を確認しなければならなかった。手が震えていた。身体は理解していた。しかし認めたくは無かった。だが事実は紛れも無くそこにあった。だから手を伸ばした。受け入れるために必要な儀式として、手を伸ばして、そして指先が首に触れて……。
「っ!?」
彼の手首は突然何かに掴まれ彼は小さく悲鳴を上げた。
何か。それは手だった。彼女の無骨な手だった。
目を見開いた彼女は、にやりと笑っていた。
「よお。早かったじゃないか」
彼女の、いつもの陽気な声だった。
彼女は生きていた。
男はそれを実感すると、無意識に涙がこぼれ始めた。ただ泣いて、彼女の顔に涙の水滴をたくさん落とした。
「アンタ、そんなに泣いて。子供みたいじゃないか」
「子供でも何でもいい……。生きてて、よかった……本当によかった……」
「もう。泣くなって」
気付けば彼女も涙が零れ始めていた。二人して子供のように泣いた。泣きながら彼女は、彼の頭に腕を回すと、顔を胸に引き寄せた。
「ほら、生きてるだろ」
彼女が言う。
彼は耳を当てて、彼女の心臓の鼓動を確かに聞いた。彼女が生きている何よりの証拠であった。
彼は言葉も無くただ頷いて涙を流していた。
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