元傭兵に愛される
すぱぁー。
夜の闇に白い煙が消えて行く。
眼鏡をかけた細身の男性はベランダの手すりに寄りかかり、ぼうっと煙草を吹かしていた。先ほどまでずっと、抱えている患者のカルテを見直して治療法の見当などを行っていた為に頭がすっかり疲労していた。休憩が必要だった。
煙草の煙を吐き出す。
町の景色が目に入る。売春、強盗、薬の売買。そんな良い子には見せられないような景色を覆い隠すように今日も喧騒が広がっている。頬を撫でる気持ちの良い夜風も、町の周囲を囲む紛争地帯から流れてきた贈り物で、人間の血肉の匂いが混ざっていることなど誰も気にも留めていない。クソみたいな素晴らしい町である。こういう町でこそ、闇医者の需要が高まる。
男性は気付けば一本吸い終え、流れ作業のように二本目に手を伸ばした。
だが、
「ただいま」
と横からぶっきらぼうに声をかけられ手が止まった。顔を向ければ、鍛え上げられた筋肉が美しいタンクトップ姿の大柄な女性がいた。不快そうに目を細めて男性の手に持った煙草を見つめていることから、丁度一本目が吸い終わったタイミングを見計らって声をかけたことが伺える。
「お使いご苦労様」
「女を一人で出歩かせるなよ」
「君はこの町で一番強いから大丈夫さ」
「そういうお前は一番弱いだろうな」
「間違いないね」
お互いに軽口を言い合った後、静かに笑い合う。これが二人のコミュニケーションの常である。
「それよりも」
と、女性が急に声色を変えて切り出してきたので、男性は「ああ、やっぱ駄目だったか」と内心、ため息を吐いた。
「お前、煙草辞めるって言ってなかった??」
分かりやすく呆れた表情。
確かに、言っていた。二週間ほど前に診たどっかのマフィアのボスが、明らかに煙草の吸い過ぎが原因と思われる肺癌を患っていたのだ。その苦しそうな病状を見て怖気づいた男性は診察を終えた後に、彼女に、煙草をやめると声高らかに宣言したのだが……。
「二週間もたねえのかよ」
「いや……。君も知っての通り、最近忙しくて。ついストレスが溜まるというか、口が寂しくなると言うか」
「医者なのに情けなくねえの?」
「闇医者だから」
「患者にはやめろって言ってるよな?」
「闇医者だから」
「クソ闇医者」
何を言っても言い返される。しかも言われることが全て事実なのでどんどんと旗色が悪くなる。
そこで作戦を変えることにした。
「君も一本、どうだい?」
勧誘することにした。
「以前、吸ってたんだろ?」
「ああ、確かにな」
「じゃあ煙草の美味しさは分かるはずだ。さあ、一緒にニコチンの海に溺れよう」
「絶対に嫌だ」
「なぜだい?」
「お前に救われた命だからだ」
彼女は彼の目を真っすぐ見てそう言い放った。
事実だった。
彼女は元々傭兵で、いつだったか、地雷で派手にぶっ飛んで、目を背けたくなるような酷い状態で闇医者の元へ運ばれてきたのだ。
「お前は死にかけていた私の治療をして、治療後の面倒も見てくれて、片足が無くなって傭兵を続けられなくなった私にこの居場所をくれた」
「投げ出すのが嫌な性格なんだ。あと丁度、助手が欲しくなったタイミングでね。いや~、もう繁盛しちゃって大変だ」
「いくら謙遜しようが茶化そうが、お前が私を救った事実は変わらない。私の命はお前のもので、お前に一生かけて恩を返すと決めた。だから煙草なんかで自ら寿命を削るなんて、私が私を許さない」
「そうか」
男性を見つめる彼女の瞳には力強い意志が灯っていて、彼女の言葉にはどこまでも深い思いが込められていた。
人に感謝されて嬉しい気持ちは医者だろうが闇医者だろうが変わらない。男性は、決して肯定はされないにしろ、「自分の今までの生き方も案外無駄じゃなかったんだなぁ……」と呑気な事を思いながら二本目の煙草を掴み、そして。
強引にキスされた。
「んっっ!?」
後頭部に手を回されて唇と唇を重ね合わせてのキス。それは時間にして数秒の事だったが、彼の頭に混乱をもたらすのには十分な長さであった。
唇を離した彼女はにやりと笑みを浮かべる。
「これで口は寂しくないだろ?」
彼女はとうとう実力行使に出たらしかった。煙草を吸うよりもキスの方が良いだろ、と彼女はそう言っているのである。
状況を飲み込んだ彼は、してやったり顔の彼女に妙に苛立ちを覚えた。
「だからこれから煙草吸いたくなったら、毎回あたしにキスしろ。それでお前は煙草を吸わなくて済む……んっ」
彼は煙草欲をぶつけるように言葉を待たずにキスをした。
「んはぁっ……。なんだ、そんなに煙草が吸いたかったのか」
「うん。かなり」
「じゃあ、もう一回だ」
「そうだね。もう一回」
そう言って、二人はさっきよりも深いキスを交わした。
……彼は仕返しに舌を軽く噛んだ。
「いって、殺すぞ」
「ぼく命の恩人」
「殺す」
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