第6話 第一のNTR
「お兄、デジ研の部室の方から走ってきたよね。ふーん、覗きにいったんだ、私が必死に我慢したあのシーンを」
俺の両肩を掴んで、グイグイと壁際まで追いつめてくる京子。細身に似つかわしくないこの漫画めいた怪力は、漫画に入る前からこいつが有していた特殊能力である。発動条件は兄に対してキレること。やばい、やられる。
「い、いや、覗いてない覗いてない! これからの学校生活のためにも必要だと思って校舎見学してただけなんだ! そんで知らず知らずの内に部室の近くを通っちまった時が、たまたま例の押し倒しのタイミングだったみたいでよ! でも、大丈夫だ、実際には見てないし、もちろん拓斗たち側からも俺の姿は確認されてないから!」
「モブキャラごときが主人公を呼び捨てすんな。殺すぞ」
「拓斗様たち側からも俺みたいなゴミカスモブキャラの存在なんて認識されてないから安心してくれ!」
「ほら、やっぱり例の押し倒し誤解シーンに絡むとこだったんじゃん、お兄」
「……くそぉ、カマかけやがったな」
自白しちまった。しかし、京子は呆れたようにため息をつくだけで、肩を掴む力も声のトーンも緩めてくれた。自白という真実の中に混ぜ込む形になったことが、却って俺の嘘にリアリティを持たせてくれたのかもしれない。
「まぁ、しょーがないね。実際に目撃者役になることを避けられたんならストーリーに影響もないっしょ。これからは気を付けてよね、バカお兄」
「す、すまんかった……」
お許し出たぁ! 助かったぁ!
「お兄もオタクなら、ラブコメにおける『事故による押し倒しを他キャラに目撃されて誤解されちゃうアレ』の重要さくらいわかってるっしょ?」
「はい。それはものすごく、はい」
NTR同人誌でもよくあるしな。目撃者の間男がそれをネタにヒロインを脅してエロいことしちゃうやつだ。何でその程度の強請りで体まで差し出しちゃうのかは本当に謎だが、それがNTR同人誌というものなのである。文春の記者がNTR同人誌に転生したら最強の間男になれるな。
「そんな重要な役目をお兄ごときが担うとかマジあり得ないわけ。そもそも、ドジで早とちりしがちってキャラ性が読者にも周知されてる
始まったよ。そういやあのモブ女の名前、そんなんだったな。名前からもうメインキャラにする気満々で投入されたのが伝わってきて不憫さが増すよ。
……ん? あれ?
「お兄は単行本派だから知らないかもしんないけど、これを機に、一部のモブキャラの間で渦巻いてた『飯尾拓斗と黒木屋さんは付き合ってるんじゃないか』説が校内を駆け巡ってくことになるわけ。わかる? この重大さが。こっからの文化祭編はメインキャラ四人の関係が決定的に変わってしまう怒涛の、」
「ちょっと待て、京子。例のシーンの目撃者って、
「熊虎ちゃんね。次キャラの名前間違えたら殺す。そりゃ、熊虎ちゃんだけっしょ。だから説得力あるシーンになったって今言ったばかりっしょ。殺すよ?」
「…………っ」
おかしい。先ほどのあの場には、熊虎さんの他にもう一人、モブの先輩が確かにいた。
原作の重要なシーンに変化が生じている。いや、これNTR同人誌だから原作と違うことが起きたって何らおかしくないわけだけど。
ただ、この世界の作者は、あのもっちり嫁粉パン先生なのだ。基本のストーリーは原作通り、世界観もキャラクター像も原作を崩さない――それなのにきっちり寝取られるからこそ、俺たち読者は本気で作品に感情移入をし、本気でヒロインを寝取られたような感覚に陥り、本気で絶望し、本気でおピュッピュしてしまうのだ。
そんなもっちり嫁粉パン先生が、原作紙面に掲載されたシーンに、意味もなく手を加えるようなことがあるとは思えない。
じゃあ、もしかして、俺のせいなのか? 俺の存在がストーリーを変えてしまった?
そうか。本来なら部室前を素通りするだけのはずだった先輩が、俺があの場にいたことで立ち止まり、熊虎さんと共に室内を覗く流れになってしまった――そういうことなのかもしれない。
俺たちの何気ない行動が思いもよらぬ形でストーリーを変えてしまう――そんな言葉は京子を欺くために思わず口をついて出た言い訳でしかなかったのだが……あながち間違ってはいなかったということか。
……これはちょっとマズいかもしれんな……。京子の言葉を信じるとすれば、あの先輩は拓斗たちの押し倒しシーンを単なる事故だったと気付いてしまいそうだ。早とちりする熊虎ちゃんのことも諭してしまい、結果として噂が広まらない展開になってしまう。
そこまで行けばもう、完全なる原作改変だ。京子も気付く。原因が俺だということにも思い当たる。
うーん、死んだ。
いやいやいや、死んでたまるか、こんなことで。今ならまだ何とかなる……何とかしねぇと……!
「つ、つーかよ、京子。そういうお前だって、何でこんなとこにいんだよ? メインストーリーの邪魔はせず、裏側でのストーキングに徹するって話じゃなかったのか?」
苦し紛れの俺の指摘に、しかし京子は痛いところを突かれたとばかりに目を泳がせ、
「だ、だって、我慢できなかったんだもん……瑠美ちゃんたちにとっての大事な場面で、瑠美ちゃんたちと同じ空気を吸ってみたかったんだもん……」
マジで何言ってんだこいつ、きも。ここNTR同人誌だぞ。
「なるほどな、俺もその気持ちはわかる。でもメインキャラの表ストーリーに映り込むのはさすがにな。だから、まぁ、妥協案じゃねーけど、せめて黒木屋さんたちが生きるこの世界の空気を思いっきり吸って来いよ。モブキャラとして物語の舞台を自由に探索するぐらい、許されて然るべきだと思うぞ」
「く、黒オタの世界を、自由に……?」
「ああ、ていうかむしろ、ちゃんとこの世界のことを把握するためにも必要だって、さっきも言ったろ。自由気ままに校内見て回ってこいよ。……よくここまで我慢したな。偉いぞ、京子。お前こそが黒オタの世界一のファンだ」
優しく肩をポンと叩いてやると、京子は感極まったように体をブルブルと震わせ、
「や、や、や、やった……っ、そうだ、私はいま、白井知然先生の世界観に……っ、黒オタの世界に身を浸しているんだ……っ! これがっ……これこそがっ! 本当の聖地巡礼じゃあああああああああああいッ!!」
そして廊下を駆け出してしまった。よっし、さすが京子。怖いけどチョロい。これ、もっちり嫁粉パン先生の世界観だしな。
「さて、あとはあっちを片付けねーと」
証拠隠滅のために、俺もまた校内を駆け巡ることになりそうだ。
と、思ったが、ターゲットは一瞬で見つかった。俺が探しに行くまでもなく、モブデブ先輩の方から部室の前に戻ってきたのだ。
俺の目的はもちろん、変えてしまったストーリーを、原作通りに軌道修正すること。つまり、拓斗と黒木屋さんが部室でエロいことしてたという噂が校内に流れるようにすることだ。そのために、この先輩にも、拓斗たちの関係を誤解してもらわなければならない。この人のキャラ的に、自ら言い触らすようなことは元からないだろうが、熊虎さんの誤解を解くようなお節介だけは封じ込まなきゃいけないからな。
方法としては、そう難しくないと思う。何しろ俺は拓斗たちのクラスメイトだし、「あの二人は確かにデキている」と先輩に吹き込めばいいだけだろう。もしかしたらそう誤解した上で熊虎さんに口外しないよう言い聞かせるかもしれないが、こんなモブ先輩の指図になんて従わないのもまた熊虎さんのキャラクターなはずだ。サブヒロイン候補から、メインキャラの関係掻き回すためだけの便利な道具に格下げされた熊虎さん、マジかっけぇっす。
「よっし、さっさと終わらすか。先ぱー……」
ターゲットに駆け寄ろうとしたところで、ふと立ち止まる。
あれ? でも何でこの人戻ってきたんだ? 彼が先ほど部室の中を見てしまったのは、俺が入部希望を騙るという改変のせいであって。本来は、ここを通り過ぎるだけだったはずなんだよな? 部室に用事なんてなかったんじゃないのか?
少なくとも、原作ではそのはずだ。原作通りなら今彼はここには戻ってこないと思う。
ということは、彼が今ここにいるのは。もっと言えば、さっきここに来たのは、このNTR同人誌オリジナルの展開だったのか? 俺が原作準拠のストーリーを変えてしまったわけではなく?
……嫌な予感がする。俺の中の謎のセンサーが反応している。
やはり、もっちり嫁粉パン先生が意味もなく、そんな原作改変をするとは思えないのだ。逆に言えば――意味があったから――なんじゃないのか? 手を加える必要に迫られたんじゃないのか?
なぜ? そんなのは、もう……。
「あっ、まずい!」
グダグダと考えを巡らせているうちに、先輩が部室の扉を開けてしまった。遠慮がちに顔だけを室内に覗き込むようにして、何かを呼び掛けている。
くそっ、しくった。今から出しゃばるわけにはいかねぇ。部室の中にいる拓斗たちに存在をアピールしちまったら本末転倒だ。
ここは一旦身を潜めて、次の機を待つしかないかもしれん……。
階段の陰に隠れて、部室前の様子を観察する。すると、先輩の呼びかけに応じるように、前髪で片目が隠れた地味男子――拓斗が室内から出てきた。そして二人で二言三言交わした後、なぜかその主人公はどこかに走り去ってしまう。
「何だ、これは……何なんだ、この展開は……!」
悪寒が背筋を駆け上っていく。
もしや、本当に……いや、待て。さすがにそれはない。この世界はただの同人誌じゃねーんだ。この世界を作り出したのは、まさに神である、もっちり嫁粉パン先生。あの人畜無害な先輩モブキャラが――なんて、そこらの同人作家がやりがちな原作破壊をもっちり嫁粉パン先生がするわけがない。
うん、そうだわ、やっぱありえねーわ。俺の考えすぎだったわ。たぶん、先輩がここに来ちゃったのは単なる嫁粉パン先生の凡ミスだ。神だって凡ミスくらいする。作者のミスを勝手に深読みして伏線扱いするとか俺は京子かよ。
なんて、俺の現実逃避は、
「く、黒木屋さん、ちょっとボクとお話……いいよね?」
汗を拭いながら部室へと入っていくモブデブ先輩の、ウヒヒという気色悪い笑みによって見事に打ち砕かれた。
「まさか……っ、本当に奴が……!?」
信じらんねぇ……見損なったぜ、もっちり嫁粉パン先生……! それとも何か深い理由があるってのか!? ここまでこだわってきた作風を大転換させるほどの理由が、これからあの部屋の中で巻き起こる展開に込められてるっていうんだな!?
そっか、わかったよ、もっちり嫁粉パン先生……! 一番のもっちり信者として、あんたのその新境地――この目でしっかり見届けさせてもらうぜ!
「ねぇお兄。何かさっき拓斗君が教室の方走ってったんだけど何があったの?」
「だから何でお前はそう急に現れるんだよ!? 怖ーんだよ! 漫画か!?」
「漫画じゃん」
NTR同人誌だけどな。そんでお前はこの世界入る前からその特殊能力あったぞ。俺が部屋でお一人様おうち時間おっ始めようとしたタイミングで、音もなく扉開けてきやがるんだ。お母さんかよ。妹のくせに。
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