第4話

 自宅であるアパートに帰るには、飲食店が建ち並ぶ通りを突っ切らなくてはならない。

あまりガヤガヤした環境が好きではない陽子は、ちょっとした裏道を通って帰ることにした。少し大通りから外れるだけで、驚くほど人気が無くなる。

街灯も少なく、静まり返った夜道を鼻歌混じりに歩いていると、前方に人影が見えた。


やば……、鼻歌聴かれちゃったかな?


陽子はちらっと人影の方を見る。向こうはこちらに気が付いていないようだ。酔っ払っているのか、ふらふらと蛇行しているのが見てとれる。


よかった……。知らんぷりして通り過ぎよう。


陽子はそのまま人影に近付くと、すぐ脇を通り過ぎようとした。月明かりに照らされ、一瞬相手の姿が目に入る。


あれ、女の人? どっかで見たことあるような……。


陽子が通り過ぎようとした瞬間。


バタンッ……。


目の前で女性が倒れた。

あまりに突然の出来事で、フリーズしてしまう陽子。ハッと我に帰ると、急いで女性に駆け寄った。

「だ、大丈夫ですか? しっかりしてください!」声を掛けるが返答はない。

陽子は女性の肩に手を掛け、仰向けに上体を起こした。

「げっ、来栖さん!?」

倒れていたのは自分の会社の後輩、来栖彩だった。服装も今日会社で会った時のままだ。

ろくに受け身も取らなかったためか、鼻や額にかすり傷を負っている。

「ちょっと! 来栖さん、大丈夫!?」

呼び掛けながら来栖の肩を揺する。来栖は少しだけ目を開け、弱々しく呻いた。その吐息には、うっすらとお酒の臭いがする。


やっぱり酔っ払ってるの? とりあえずこのままにはしておけない。顔の傷も手当てしなくちゃ。そうだ、私のアパートに帰れば救急箱がある。


陽子は来栖を抱き起こすと、肩に手を回して姿勢を安定させた。小柄な来栖の身体は、思っていたよりも軽かった。これならアパートまで連れて行けそうだ。

陽子は、来栖を連れて歩き出した。


アパートまではそれほど距離はなかったが、肩を貸しながらだといつもの倍くらい時間がかかってしまった。

陽子はなんとか片手で自宅のドアを開け、来栖を中へ担ぎこんだ。

リビングの絨毯の上に来栖の身体を静かに横たえる。

本当はベッドに寝かせてあげたかったが、流石に彼女の身体を持ち上げられる程の筋力は無かった。今はこれで勘弁してもらうしかない。

陽子はタンスの奥から救急箱を引っ張り出し、来栖の元へ戻る。

来栖の意識はまだはっきりとはしていない。だが、呼吸や脈拍はしっかりしているようだった。 時折顔をしかめ、うなされるように呻き声を発している。


来栖さんはいったい何故、あんなところに一人で居たのだろうか? たまたま近くで飲み歩いていた? いや、彼女の普段の様子からそれは考えにくい。誰かと一緒だったのだろうか? 彼女以外、人の気配はなかったけど……。


痛々しい傷口に消毒薬を塗りながら陽子は考える。しかし、考えても考えても状況は見えてこない。


とりあえず、今日は泊めてあげることにしよう。明日になれば流石に目を覚ますだろう。


手当てを終えて、まじまじと来栖の顔を見る。

絆創膏をいくつも貼られ、可哀想な姿になってしまってはいるが、それでも彼女は美しかった。

艶やかで張りがあり、雪のよう白い肌。綺麗なアーモンド型の目。眠っている姿もどこかミレーの絵画のように見える。

無意識に彼女の頬に触れる。暖かく、柔らかな感触が陽子の指先に伝わる。今度は髪に触れる。サラサラと指の間を抜ける。それらの感覚は陽子の中にある何かを刺激する。


危ない、また良からぬことを考えるところだった……。


陽子はかぶりを振り、彼女から手を離す。


一晩泊めてあげるだけ……。それだけよ……。明日になれば彼女を起こして、それで終わり……。また会社で一緒に働いて……、それで……。


それで? 欲望を押し殺す日々に戻る?


陽子の中でまた、黒いなにがが顔を出した。


そうよ、またあの毎日に戻るだけよ。


いつまで? これから一生、あの悶々とした日々が続くの? あれだけ欲していたものが、目の前にあるのに?


おかしい、さっさ夕飯を食べたばかりなのに……。なぜ私はこんなに空腹なの? なんで貴女はそんなに美味しそうなの?

ふと、自分の指にヌルリとした感触を感じた。

陽子の指先に、血液が付着していた。陽子はまさかと思い、来栖の後頭部を調べる。

やはり出血箇所は後頭部だった。3cm四方の裂傷があり、そこから出血していたのだ。どこかで打ったのだろうか? 連れて来る時は気付かなかった。ここまで来る途中で傷口が開いてしまったのかもしれない。

小さいとはいえ、何の医療知識もない陽子には頭部の裂傷など手に負えるものではない。本来なら病院へ連れていって、縫合しなければならないだろう。

しかし陽子の頭の中では、手に付いた血と目の前の彼女の姿が、数日前解体した羊の頭と重なっていた。

陽子の中の何かが、ブツリと切れた……。

陽子は彼女を解体することにした。

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