第3話
歳のせいなのか、昔のことを思い出すと疲れが溜まる。
駅から出た陽子は、とぼとぼと家路についていた。抱えていた仕事は、約一時間程の残業で片付けることができた。それでも、既に時刻は午後7時前。
正直かなり空腹だったが、 今から帰って夕食の準備をする気力はない、かといってコンビニの味気ない惣菜を食べる気にもなれなかった。
こういう時、独り身の不便さというものを痛感する。
仕方ない、あそこに行くか。
陽子はアパートとは反対の、飲み屋街に歩みを進めた。
ほんの10分程歩くと、メキシコ料理店『エスタリコ』の看板が目に入る。建物と建物の間に挟まるように、ひっそりとその店は建っていた。
陽子が店の扉を開けると、照明に照らされたエキゾチックな内装が現れた。正面の壁には馬鹿に大きいメキシコ国旗が掲げられている。
「ハーイ、イラッシャマセーッ!」
店の奥からカタコトの挨拶が聞こえる。程なくして、ポンチョ姿にソンブレロを被ったマスターが現れた。
「どうも、また来ちゃいました」陽子が会釈する。
「あー、なんだ陽子ちゃんかー」
突然日本語が流暢になるマスター。
「まだキャラ作ってるんですか?」
「あたぼうよ、こういうのは雰囲気が大事なんだから」
彼は『エスタリコ』のマスター、権現坂 太一郎、生粋の日本人である。彼は普段からカタコトの日本語と、日本人離れした堀の深い顔を駆使して店の雰囲気作りとやらに勤しんでいる。
「空いてるから好きなとこ座っていいよ」
空いてると言うか、私以外客居ないんだけどな……。この店大丈夫なんだろうか。
陽子は少し迷ってから、カウンターの一番端の席に陣取った。
「仕事帰り?遅くまで頑張るねー」マスターがおしぼりを出しながら言う。
「ええ、まあ。明日は休みなんでゆっくりしますけど」
「そうなの?平日なのに?」
「うちは土日出た分振替えてもらえるんですよ」
「へー……。あ、ご注文は?」
世間話で接客を忘れていたと思わしきマスターが、思い出したように尋ねてきた。
「あー、この前の子牛のタコスってあります?」
「陽子ちゃん脳ミソ好きだねー」
マスターがニヤッと笑った。
注文の品はすぐに出てきた。客が陽子一人なので当たり前と言えば当たり前だろう。
大皿に乗って運ばれてきたきたのは、有名なメキシコ料理、タコスだった。
タコスの生地の上には、刻んだタマネギに子牛の内臓、脊髄、目玉、そして脳ミソがちりばめられている。
陽子は目の前のタコスにかぶりついた。
内臓の旨味もさることながら、目玉や脳部分の独特な食感が病み付きになる。タマネギのアクセントもイイ感じだ。
「いやはや、そんなに旨そうに食べてくれたら料理人冥利に尽きるよ」
夢中でタコスを頬張る陽子を見てマスターも満足げに言った。
「あ、そうだこの前あげた羊の頭、上手く解体出来たかい?」マスターが聞く
「はい。その節はありがとうございました」
「いやいや、逆に余り物を処理してくれて助かったよ」
「そうだ、運ぶのに使った軽トラ、マスターに返さなきゃ」
陽子がマスターから譲り受けた羊頭は一抱えほどあり、運ぶのは大変だった。それに、動物の頭部が入った袋を提げて電車に乗るわけにもいかない。そこで、マスターが自分の軽トラックを貸してくれたのだ。
「いいよ、また今度で。そのかわりまた食べに来てくれよ!」腕組みしてニカッと笑うマスターは、まさに本場のメキシカンだった。
「タコスご馳走様でした」
「おう、ありがとうな」
夕食を済ませた陽子が店を後にする。
陽子とは入れ替わりで他の客が入って行くのが見えた。
「ハーイ、イラッシャマセー! ナンメイサマ?」
マスターの営業努力はまだまだ続くらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます