第1話

-労働の中にのみ平和が宿り、労働の中には安息がある-

そう説いたのはフランスの哲学者フォントネルだったか、だとしたらとんだ出鱈目だ。きっとこいつはサラリーマンしたことも無ければ、上司に理不尽な仕事量を押し付けられたりしたこともないのだろう。

花宮陽子はそんなことを考えていた。

とある製衡会社に勤める陽子のデスクには、今日中に整理しなければならない資料がうず高く積まれていた。


この資料作成、今日中に終わるのかな……


陽子はチラリとオフィスの時計を見た。針はすでに午後5時を回ろうとしていた。

「花宮さん、ちょっといいですか?」

後ろから声を掛けてきたのは、後輩の津田暁斗だった。

「どうしたの?津田君」陽子はキーボードを叩きながら応えた。

「はい、実はさっき部長から一部仕様変更の知らせが入りまして」

「え、どれ?」

「花宮さんが今やってるやつです……」

津田はなんとも申し訳なさそうに言った。

「ま、またか……」陽子はため息をついた。

「あの、僕に何か手伝えることありませんか?」津田が提案する。

「ありがとう、でも大丈夫だよこのくらい」

まだ20代なのになんて人の出来た後輩なんだろうか、しかし、自分よりも10歳も若い後輩に残業させるのは流石に忍びない。

「そうですか、じゃあもし何かあったら教えてください」

そう言って彼は自分のデスクへと帰っていった。

これじゃあどっちが先輩か分からないな……

陽子はPCに向かうと、再びキーボードを乱打し始めた。


結局、津田に手を借りることはなく終業時間となった。あれだけあった資料もあと少しで片付けられそうだ。とは言っても多少の残業は免れられそうにない。

「花宮先輩、お先に失礼します」

笑顔で挨拶してきたのは今年入ってきたばかりの新入社員、来栖彩だ。

来栖は明朗快活という言葉がぴったりな、可愛らしい女の子だった。ブロンドに染めた髪を後ろでひとつに結い、薄く施された化粧は元々の素材の良さをいっそう引き立てていた。

「うん、気をつけて帰ってね」

陽子の言葉に、来栖は軽く会釈で返すと、スタスタと歩き去っていった。

自分とは何もかも違う、若く美しい女性、そんな来栖の背を眺めながら陽子は思っていた。


あぁ……、彼女の脳味噌はいったいどんな味がするんだろう……。 食べてみたい……。


陽子の頭の中で、もう何度目かの空想が始まる。それがいかに冒涜的で、狂気じみたものであるかは、陽子自身も理解していた。それでも、欲望は度々顔を出しては、陽子に甘く囁いた。


「花宮さん、花宮さん?」

「うわっ、津田君!?」

気付くと、すぐ傍に津田が立っていた。

陽子は慌て自分の中のどす黒い欲望を飲みこんだ。

「作業終わりそうですか?」津田がデスクのPCを覗き込む。

「もう直ぐ終わるよ、ありがとうね気を遣ってくれて」

「そうですか、何か手伝えることは……」

「大丈夫だって。私一人で出来るから、津田君も早く帰りな?後々部長がうるさいよ?」

陽子は無理にでも津田の言葉を遮った。

「……分かりました、それじゃお先に失礼します」

津田は陽子に会釈すると、オフィスを後にした。

津田を見送った後、 陽子は再びPC作業を開始する。 黒い欲望はいつの間にか治まっていた。


これで作業に集中できる。それにしても……お腹がすいたな……。

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